翌日の昼休み、俺と高瀬は高校の図書室に来ていた。日比野さんに会うためだ。
太陽は
図書委員を務める日比野さんは、受付カウンターの向こうに腰掛け、返却期限の過ぎた本の行方を案じていたところだった。
「――というわけなんだ。日比野さん、期待に応えられなくて申し訳ない」
俺がカウンター越しに謝ると、高瀬も隣でそれに
「そうですか」と日比野さんは言った。「ここ何日かは恐くて陽ちゃんと会っていなかったんですが、なんとなくですね、そんな気はしてました。もう、陽ちゃんには愛想が尽きました」
高瀬が慌てた。「尽きちゃったの?」
「そんなわけないじゃないですか」日比野さんは今にもしくしく泣き出しそうだ。「星菜さんにあんなひどい目に遭わされたのに、陽ちゃんもどうかしてますよね。そんな陽ちゃんを嫌いになれないわたしは、彼以上にどうかしているわけですが」
「それでいいんだよ」高瀬が一歩前に出て励ます。「一番想いの強い人が報われるべきなんだよ。私は葉山君のことを一番強く想っているのは、日比野さんだって確信してるよ」
「高瀬さん。わたしはどうせ、生まれながらにこういう役回りなんです。どんなに陽ちゃんのことを好きでも、報われることはないんです」
しっかり者には違いないが、幼馴染みのこととなると精神的な
太陽が全て、と言ってもいいかもしれない。彼女の最大関心事は学校の成績でも体重計が示す数値でもスマホの新機種でもなく、いつだって“陽ちゃん”なのだ。
「日比野さん、そんなヤケにならないで」
高瀬はそこまで言って、突然こっちをちらりと見た。神沢君も励ましの言葉をかけてあげて! そう顔に書いてある。
「高瀬の言う通りだ」俺は思い付くまま口にした。「諦めることないって。どうせ今回も、長く続かないさ」
「最近読んだ恋愛本にはですね、一度別れた男女が復縁すると次は長く続く傾向がある、と書いてありました。互いの欠点がよくわかっているし、同じ失敗は繰り返したくないという心理が働くんだそうです」
高瀬はため息をついた。
俺もため息をついた。
一人の女子生徒が大きな図鑑を何冊も抱えて、カウンターにやってきた。貸出希望なのだろう。
我々は業務の邪魔にならぬよう横に退いた。そして顔を見合わせた。
「どうしよう」と高瀬は言う。
「どうしよう」と俺も言う。
「葉山君の気が日比野さんに向く方法、なにかないかな?」
「とにかく星菜だよ」と俺は返した。「まずは星菜に向いている気持ちをどうにかしないと」
「また今回も、葉山君は遊ばれているんだよね?」
「たしか動物園に行った時、星菜は電話で太陽以外の男と喋っていたんだよな?」
高瀬はうなずいた。「それもずいぶん楽しげに」
「星菜はまた二股をかけているぞ、と太陽に教えるのも一つの手ではある」
「でも確定ではないんだよね。たとえばさ、星菜さんがすごいお兄さんっ子で、そのお兄さんと久々に電話で話していたとかあり得るわけで」
「とりあえずその電話の相手が誰なのか特定できれば――そしてそれが本命のカレシだったら――太陽の目を
「そうだね」
「問題はどうやって特定するか、だ」
「そうだね」と高瀬は繰り返した。困難な任務に違いなかった。
図鑑の貸出業務を終えた日比野さんだが、今度は別の男子生徒に「本を一緒に探して欲しい」と頼まれ離席した。
俺と高瀬は何か良い策はないか考えた。先に口を開いたのは高瀬だった。
「星菜さんって、たしか
「そう言ってたな」
「こうなったら、私たちで南高に行きますか」
「はい?」
「潜入捜査するの」彼女は拳を握る。
「潜入、ですか」
「だってね、電話の相手、一番怪しいのは南高の男子生徒でしょ。もしかしたら南高の中では星菜さんが校内の誰かと交際しているのは公然の事実かもしれない。だとしたら、意外と簡単に確証を得られるはず。もしそうでなくても、何か手がかりくらいは掴めるんじゃない?」
高瀬は熱かった。日比野さんのためという側面はもちろんあるのだろうが、それ以上にまるで、羽田星菜という女の化けの皮を剥ぐことが世界平和に寄与すると信じきっているようでもあった。
それくらい彼女の表情からは強い執念を感じた。
「あのさ。今回の件に関しては、ずいぶん意欲的だよね。どうしたの?」
「このままじゃ面白くないでしょ」高瀬は唇を尖らせた。「人が丹精込めて作ったサンドイッチをあんな風にけなされて、黙っていられないって。私、本当に悲しかったんだから」
そこから彼女はわざわざ、例の、星菜が隠れた名店・
俺は黙ってそれを聞いていた。それにしても、羽田星菜もとんでもないお方を敵に回してしまったものだ。
「お二人は、本当に仲が良いんですねぇ」
突然そんな声が聞こえたから、驚いた。
声の主は日比野さんだった。案内を終え、いつしか席に戻っていた。彼女はカウンターに肘を突き、手の平に
「羨ましいです。神沢さんと高瀬さんは、付き合い始めてどのくらいになるんですか?」
「あああ」高瀬はろれつが回らない。「あのね、日比野さん。なにか勘違いしてる」
「そそそ」俺も言葉が出てこない。「そうそう。そういうんじゃないから、俺たち」
「そうだったんですかぁ」日比野さんだけが饒舌だった。「わたし、てっきりお二人はお付き合いしているものだとばかり思っていました。とても良いムードなので。あぁ、そうですか」
居心地がたまらなく悪くなった俺は、意味もなく咳払いをしたり、首の骨を鳴らしたり、デフォルメされた紫式部が読書の尊さを説くポスターを見つめたりしていた。
「あの、そろそろ時間ですので」と恋に悩める図書委員は言った。「陽ちゃんのことでまた何か変化がありましたら、教えていただけますか? お手数お掛けします」
♯ ♯ ♯
「さっきの南高に潜入するって話だけどさ」図書室を出た俺はそう切り出した。「星菜の身辺調査をするとなると、俺たちは南高の生徒に接触しなきゃいけないよな?」
「そうだね」と隣で高瀬は言った。
「俺はあまり戦力にはなれないぞ。だってほら、南高には、中学時代の俺をよく知る生徒が何人も進学しているから」
見ず知らずの人間に女の子――それも校内で指折りの美人――の話を聞いて回るというだけでも一苦労なのに、そのうえ、面識のある生徒に気付かれないよう立ち振る舞う必要があるとなると、まともな調査ができるわけがなかった。
人間不信者で、なおかつ暗い過去を持つ男は、探偵業には向いていない。
「よくよく考えてみれば、私もだな」高瀬は肩をすぼめた。「私もできれば中学時代の同級生に会いたくないし、というか見つかったら潜入しているのがばれるし、もし鳴桜の先生とか呼ばれたら一大事だ。ただでさえ春の遭難の件で、私たち要注意人物なのに」
暗い過去があると、人間不信者ではなくても、探偵業には向いていないらしい。
高瀬は眉をひそめた。
「いっそのこと、星菜さん本人に聞ければいいんだけどね。彼氏はいますか? 何人いますか? そのうち誰が本命ですか? って」
「何人いますか、って、聞く側に元から悪意がなければ出ない質問だよな」
可笑しくて俺は笑う。
「ま、それができたらはじめから苦労しないんだけど」
「そうだよね。葉山君に近い私と神沢君に、まさか胸中を打ち明けるわけないよね」
「俺の場合、仮に顔見知りじゃなかったとしても、星菜の本心を引き出せるだけのスキルはないけどな」
「私もだよ」高瀬は苦笑いする。「私もすぐに人と仲良くなれるタイプじゃないもん。白紙だね、南高潜入作戦」
すぐに人と仲良くなれるタイプじゃない――。
高瀬のその発言を聞いた俺の脳内に、ある人物が降り立ってくる感覚があった。
そいつは口元に独りよがりな笑みを浮かべ、いかにも偉そうに両手を腰に当てている。マントを羽織り、BGMには鐘が鳴り響くおまけつきだ。
「なんか良いアイデアないかなぁ。日比野さんをなんとかしてあげたいな」
そう肩を落としてつぶやく高瀬に、俺は胸を張って言った。
「潜入作戦、諦めることはないぞ」
「え? どういうこと?」
「一人だけいるだろ。すぐに人と仲良くなれるどころか、人の心にノックなしで