目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第24話 いつか羽ばたくその日のために 1


「悠介、ハロー!」


 柏木から夜中の1時に電話がかかってきたのは、夜間動物園でのダブルデートが終わって三日後のことだった。


「なにがハローだよ。何時だと思ってんだよ」

 眠りをさまたげられた俺は、スマホに向かって舌打ちした。

「だいたい、なんの用だよ。学校だと俺のこと見向きもしないくせに」


 教育実習生の北向きたむきに誘われた焼肉デートを止めなかったのがよほどしゃくにさわったのか、あれ以来柏木は、学校で俺の存在を完全に無視していた。


 前後の席という間柄は依然として続いているけれど、プリントなどを後ろの俺に渡す際には、振り返らないで肩の上から寄越す徹底ぶりだった。


「我慢の限界だよ」と彼女は電話の向こうで言った。「悠介が後ろの席から『おい、柏木、どうだったんだよ?』って聞いてくるの、ずっと待ってたのに」


「どうだったって……ひたむき先生の件か?」

「それ以外に何があるの」


 遅ればせながら、「どうだったんだよ」と俺は口にした。「ひたむき先生の課外授業は?」


「楽しかったよ。やけに話や趣味が合ったし、あたしがずっと欲しかったコスメをプレゼントしてくれたし、誰かさんと違ってすごく気が利くし」


 夜中に叩き起こされてまで自分に対するイヤミなんか聞きたくないので、通話を終えてやろうと思った。すると「でもね」と聞こえたので、スマホを耳元に戻した。


「でもね、話も合うし気も利くけど、一緒にいてもつまらなかった。だってあの人、こっちが聞いてもいないのに自分のことをやたらベラベラ話すの。そして一度それが始まったら止まらないの。自分に酔ってるみたい」


「例の『僕はバックパック一つで世界を見てきたんだよ』シリーズか?」


「それもあるし、地震のボランティアに参加したとか、子ども食堂の運営を手伝ったとか、そういうの。授業中とおんなじ。話してる方は気持ちいいかもしれないけど、聞かされてる方はたまらないよね。『はいはい立派ですねー』って心で乾いた拍手を送るしかない」


「北向はひたむきなお人だから。何事にも」

 皮肉の一つくらい言ったところで、バチは当たらないだろう。


「ま、北向先生がどういう人でも、お肉をたらふく食べたら帰るつもりだったけどね」


「そうなんだ」

「そりゃそうだよ。だってこんなお誘い、下心が見え見えじゃん」

「なんだよ、気付いていたのかよ。北向の下品な視線に」


「あのさ、悠介」電話越しに柏木の声は色気を増した。「あたし、何年いい女やってると思ってんの? 男のそういうギラギラした眼差しには、ものすごく敏感なんです」


 すごい女だ、と絶句した。いい女だし、すごい女だ。


「いたちに柏木晴香を15年も生きてないって」と彼女はごくごく自然に続け、俺は首を傾けた。


 イタチ・・・? よく昔話に登場するあの胴の長い動物が、なぜここで出てくるんだ?


 まぁいいや、と俺は思った。柏木との会話においては、細かいことをいちいち気に留めていたら、精神がもたない。イタチでもミミズクでも好きなだけお出ましすればいい。


「で、悠介」彼女は一転、不吉な声を出す。「夜間動物園、楽しかった?」


 俺はスマホをあやうく落としそうになった。「なんのことだよ」と一応とぼけてみる。


「行ったんでしょ? 優里と一緒に」


 真っ先に脳裏に浮かんだのは、「なぜ」でも「ちきしょう」でもなく「やはり」だった。


 やはり柏木に隠し事なんか無理なのだ。発覚するのがダブルデートの前ではなく後だったのは、不幸中の幸いと取ろう。


「あくまでも目的は、太陽と羽田星菜はたせいなの監視だ。俺と高瀬は、太陽と日比野さんをくっつけようとしているわけだから」


「すごいねぇ」と柏木はわざとらしく感心した。「優里もね、悠介と全く同じことを言ってたよ。声が少し上ずりながらってところまで一緒」


「高瀬から聞き出したのか?」


「やけに優里の顔色が良かったから、これは何かあるなと思って問いただしたら、白状した」


「友達の顔色が良かったら素直に『今日は元気そうだね』でいいじゃないか」


「二人とも、そんなにびくびくすることないのに。責めているわけじゃないんだから。だいたいあたしには、悠介と優里の行動に口を出す権利・・がないんですから」


 前回の電話で俺が使った権利という言葉が、彼女はすっかり気に入ったらしい。


「そういえば、動物園の観覧車が止まったってニュースになってたけど、まさかその時に都合良く悠介と優里が乗っていて、二人は手でもつないで未来を語り合った、なんてロマンティックな展開にはならなかったでしょ?」


 高瀬は果たしてどこまで打ち明けたんだろう、と思うと言葉に詰まったが「え、何この沈黙? もしかしてアタリ!? 適当だったのに」そう柏木が言ったことで、俺はほっと胸を撫で下ろした。


「あのな、そんな展開になるわけないだろ。小説の世界じゃあるまいし」


「だよねぇ」

 あはは、と呑気に笑う柏木は敏感なのか鈍感なのかよくわからない。


 彼女は話題の転換を匂わすように大きく息を吐き出してから、言った。

「それはそうと、今夜はね、こんな話をしたかったんじゃないの」


 動物園の件が本題にならないとは、よほど重要な話があるらしい。俺は耳をすました。


 彼女は言った。「あたし、あの人たちのことを探してみようと思って」


「あの人たち」すぐに脳内で、俺の母と柏木の父、と変換する。「探して、見つけ出したとして、どうするつもりだ?」


「殴りに行く」柏木は即答した。「安心して、悠介。殴るのはあたしの馬鹿親父だけだから。さすがに有希子ゆきこさんには手を出さないって」


「あまり穏やかじゃないな」


「そうでもしないと気が済まないじゃない!」柏木は甲高い声を出した。「もちろん殴るだけじゃなく、いろんなことを問い詰めるつもりでもいるよ。かなきゃいけないことは挙げたらきりがないわけだし」


「ひとつ確認したいんだけど、親父さんを殴りに行くその旅には、俺も同行することになるんだろうか?」


「あったりまえでしょ」と彼女はなんでわかりきったことを尋ねるんだという声色で言った。「悠介が行かないでどうするの。絶対参加だからね。いい?」


 俺はスマホを顔から離し、ひとつため息をついた。


 地球のどこに行く羽目になるかはわからないが、旅費が発生することになるのは間違いなく、さては柏木、俺に旅をさせることで金を浪費させ、高瀬と共に大学に行く夢をついえさせる意図が裏にあるんじゃないか? 


 そう勘繰かんぐりたくもなった。


 しかし冷静になって考えてみれば、まっすぐな性格の柏木がそんな参勤交代みたいなことを思いつくわけもなく、俺はいかなる抗議も喉の奥に押し戻さなければいけなかった。


 これは蛇足だが、そういうことを考えそうなのは、俺のまわりでは月島だろう。


 柏木は言った。

「悠介は気にならないの? あたしたちを捨ててどこかに逃げてから4年が経った今、あの人たちがどこでどうなっているのか。会いたくないの? 有希子さんに」


「気にならないと言えば嘘になるし、会いたくないと言えば、ま、それも嘘になる」

 俺は胸に少し痛みを覚えながら言った。

「でも今更会ったところでどうなる、と冷めた自分がいるのも事実だ。母親の顔を見たからといって親父の罪が消えるわけではないし、この街に帰ってきて俺と生活をやり直すなんてことには十中八九ならないんだから」


 母と会うことで、俺の幸せにつながる何かが得られるとは思えなかった。彼女の人となりを思い出せば、「ごめんね悠介」という言葉を引き出すことさえ困難なはずだ。


「柏木、あの二人を探すって言っても、何か手がかりはあるのか?」


「それがねぇ、笑えるくらい無いんだよね」

 実際彼女は、苦笑混じりに言った。

「いずみ叔母さんに聞いても、家の中をひっくり返しても、だめ。悠介、そっちはどう? どんな些細なことでもいいの。どこか思い当たる場所、ない?」


 柏木がいつになく熱心なので、俺は少し考える時間をもらい、母と過ごした日々を思い出してみることにした。


 しかし記憶のどこを巡り歩いても、そして目を凝らしても、やはりそれらしい手がかりは落ちていなかった。


「悪い」と俺は詫び、「簡単じゃないよねぇ」と柏木は落胆した。


 ふいに俺は、そんな柏木があわれに思えていた。


 俺とは違って、彼女は実の母をうしなっていることを忘れてはならかなった。


 その原因を作った父親に会い――実際に殴るかどうかはともかくとしても――きちんと話をし、心に整理をつけたいという思いは強くて当然だった。


 そしてその経験を経ることが、生きることに怯える彼女の|足枷あしかせを解く鍵となるかもしれない。俺はそう考えていた。


 柏木が前に進むために――翼を広げて、いつか羽ばたくその日のために――俺はここで諦めるべきではなかった。口を開く。


「柏木。もうこうなったら、おまえの鋭い勘に賭けてみよう。いくら忌み嫌っているとはいえ、おまえは柏木恭一きょういちの遺伝子を引き継いでいるんだ。さぁ、想像してみろ。おまえなら、どこに逃避行する?」


「カン……ねぇ」

「具体的じゃなくていい。思い付くまま、気の向くまま、なんとなくのイメージでいいんだ」


 一分待った。そのあいだ彼女はずっとうぅぅんと唸っていたので、俺は切り口を変えることにした。

「それじゃこうしよう。俺が二択でいろいろ質問していくから、『こっちだ』と思う方をおまえは直感で答えてくれ。あんまり難しく考えないで、ゲームだと思えばいい。こういうのが案外当たっていたりするんだ」


「うん、わかった。やってみる」


 俺はベッドから降りるとペンと紙を用意して、テーブルの前に座った。


「それじゃ、行くぞ。まず、日本か、国外か」

「日本」と柏木は答えた。俺はそれを紙に裏に書き記す。


「この街より北か南か」

「南」


「この街より東か西か」

「うーん、西かなぁ」


「東京か地方か」

「地方、間違いなく地方」


「都市部か農村部か」

「都市ではないような気がする」


「日本海側か太平洋側か」

「なんとなく日本海側っぽい」


「近くにあるのは、山か海か」

「山」


「暖かいところか寒いところか」

「夏は暑くて冬は寒い。あたりまえか」


「雪は降るか降らないか」

「どかっと降るかも?」


「うん、こんなところかな」


 俺は立ち上がってバッグから地図帳を取り出し、彼女にもそうするよう指示した。


「国内で、ここより南で、西で、地方で、都市部ではなく、日本海側。山の近くで、夏は暑く冬は寒い。そして冬にはどかっと雪が降る……」


 それらの条件に当てはまりそうな奥羽山脈の西側から北陸地方までの範囲を、余裕をみて広めに指でなぞっていく。目に入ってくるのはやはり、母親とは縁もゆかりもない地名ばかりだ。


 俺はそのエリアをスマホの向こうの柏木にも伝える。目印として言った山形市や金沢市を簡単に見つけてくれない彼女にじれったさを感じながらも、地図にしるしを付け終わるのを待った。


「うーん、けっこう広いなぁ」と柏木は言った。


「ま、最初の二択で、実は二人が海外に飛んでいたらもうその時点で全部水の泡だ。なにしろ|年端としはもいかない俺たちを捨てて自分たちの生き方を貫く、何を考えてるかわからない男女だ。想像も及ばないところに行っていたとしてもおかしくはない」


「でもなんとなくだけど、この辺にいるような気がしてきた」柏木は明るい声を出す。「よし。やる気が出てきた。あたし、このあたりを重点的に調べてみる」


「そうしてみろ」


 一拍間があって、「地図を見るといつも思うんだけど」と彼女は口にした。「北海道のこの細いところって、ちょっと踏んづけたら折れちゃいそうだよね。ポキッて」


「は?」何を言ってるんだ、と思いつつ北海道の地図に目を落とす。おそらく柏木は、長万部おしゃまんべ八雲やくもがあるあたりを心配していた。


「大丈夫だ。近くの海から大巨人が現れてそこを踏まない限り、折れる心配はない」


「そっか」

 脳天気にあはは、と柏木が笑う間、俺は長万部の近くに「伊達だて市」があるのを偶然見つけ、一つの謎が解けていく手応えを得ていた。


「あのな、柏木。これはおまえがこの先の人生で恥をかかないために言うんだけど」できるだけ優しい口調を心がける。「さっきおまえ、“いたち”って言ってただろ。たしか、『いたちに柏木晴香を15年生きてないって』とかなんとか」


「言ったね」柏木はけろっと答えた。


「あれ、いたちじゃなく、だて、だからな。伊達市の伊達で、伊達政宗公の伊達」


 嫌な沈黙が流れ、おそらく柏木は電話の向こうで顔を赤くしていると想像した。


 彼女の気質からすると、この後の反応は二通りある。派手に照れ笑いするか、派手に逆上するかのどちらかだ。


 平和主義者の俺はもちろん前者であることを願ったが、ゴング代わりの舌打ちが聞こえたので、スマホを耳元から遠ざけた。それでも声は届くから、すごい。


「何よげ足取って! 誰にだって間違いくらいあるでしょ! はいはい、大学を目指す人は賢くていいですね! 優里と仲良くお勉強して、仲良く大学に行ってください、バカ悠介!」


 賢いのか馬鹿なのかどちらなんだ? と聞く間もなく電話は切れていた。


 どうしたことだろう。


 ここ最近、柏木が激高して電話を切るのが恒例になりつつある。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?