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第23話 これが運命の悪戯というものなのか? 3


 観覧車が動き出す気配は一向になかった。そして天空のキッス・ショーが終わる気配はもっとなかった。


 人の接吻をいつまでも凝視しているほど俺も高瀬も悪趣味な人間ではないので、我々は太陽と星奈のいるゴンドラに背を向けて座り直した。もちろん手はつないだままで。


「夜景、きれいだな」と高瀬は窓の外を見て言った。「きっとここが、この街を見渡せる一番高いところだよね」


 俺はうなずいた。「そうだろうな。タワーも山もない街だから」


 この観覧車は地理的に街の中央部にあるので、360度、全方位に夜の明かりを確認することができる。


 いつかテレビで見た神戸や長崎のきらびやかな夜景からすれば大きく見劣りするけれど、高瀬にとってはどんな街のそれより、思い入れのある景色に違いない。


「あの辺りが鳴桜めいおう高校で」

 彼女の右の人差し指は、西の方角を起点としてゆっくり東へ移動していく。

「あそこの河原で花火大会があって、夏フェスの会場はそのすぐそばで、橋の手前に神沢君のお家がある。そして、あはっ、葉山病院は大きいねぇ。病院っていうより、温泉のホテルみたいだ」


 俺もおそるおそるゴンドラの外に視線を転じた。ライトアップされたタカセヤの鮮やかな赤看板があちこちに点在していて、よく目立つ。トカイの青看板もタカセヤに対抗するように配置されていたが、わざわざここで宿敵の名を出すこともない。

「こうして空から見てみると、今さらながら多いな、タカセヤさん」


 高瀬は誇らしげに微笑んだ。そして歌い始めた。

「『ウィズ・ユア・デイズ ウィズ・ユア・ファミリー あなたのそばにタカセヤ』」


 それはタカセヤのコマーシャルソングだった。


 夕方頃にテレビをつけるとしょっちゅう流れているし、なおかつ覚えやすいメロディなので、この街の住民ならば市長から幼児まで知らない人はいないはずだ。


 とはいえ、社長令嬢直々の歌声を耳にできる市民は俺くらいなものだろう。


 これは一消費者としての意見だけど、と前置きして俺は言った。

「あの明るい赤の看板もすっかり馴染んだよ。洗練されていて際立つし、前よりずっと良くなったよな。5年くらい前だっけ、変えたの」


 赤は購買意欲と食欲をかき立てる、食料品を扱う企業としてはもってこいのコーポレイトカラーに思えた。


「そうでしょう?」と高瀬はなぜか得意げに言った。「それまでのは、くすんださび色で、なんとなく暗かったじゃない」


「たしかに」

 良く言えばレトロ感たっぷり、悪く言えば社会主義国の道路標識を彷彿とさせる――5年前まではそんな看板だった。


「神沢君。今の明るい看板に変えようって提案したのが私だって言ったら、びっくりする?」


「嘘?」びっくりした。


「本当だよ。ちょうどトカイさんがあからさまにウチを意識し始めた頃でね。ほら、向こうは青を前面に押し出しているでしょ。だったらこっちも負けていられない。何か手を打たなきゃ。そう思って、家でお父さんに『明るい赤にしてみたら?』って言ったら、それが採用されたんだよね」


「そういうのって、本社の会議で決まるものじゃないんだ?」


「タカセヤの実情なんてそんなもんだよ」とタカセヤの娘さんが言うのだから、そんなもんなんだろう。


 市民に愛される象に名前を授けたり、市内で一番目立つ看板を考案したり、この娘はいったいどれだけこの街に影響を与えているのだろうと感心し、隣を見れば、どういうわけかその横顔には影が差していた。


「こういうところが私のだめなところなんだ」と彼女はつぶやいた。


「……高瀬?」


「こうやって、過去の栄光にすがって、馬鹿みたい。あれも私、これも私って。ゾウさんの名付けの話を持ち出した時に心では後悔していたのに、また繰り返しちゃった」


 高瀬は自嘲ぎみに、ふふっ、と笑う。


「中学くらいから対象を一つに絞って打ち込んでいた人たちが、いろんな分野で頭角を現し始めてさ。そうなると器用貧乏な私は、すぐに彼らに追い抜かれちゃって。今はもう、ずっと遠くに背中があって。それがちょっと悔しくて。


 私、人に知って欲しくて仕方ないんだろうな。昔は何をやっても一番だったんだよ、こんなところに私の名前が残ってるんだよ、って。そういうところが、中学生の頃は人を不快にさせていたのかもしれない」


 夏に海で、小中学生時代の高瀬をよく知る、大岩という男に遭遇した日のことを思い出した。


「高瀬は中学校であまり良い目で見られていなかった」というようなことを彼は言った。こともあろうに本人がいる前で、だ。


 あれ以来高瀬は、俺や柏木といったお馴染みの面々以外とはどこか距離を置いて接しているように感じられた。


 彼女は表立って顔には出さないが、いつだって何かと戦っている。


 俺は何を言うべきか少し考えてから口を開いた。「高瀬、映画は見る?」


「映画? 最近はあまり見ないかな」


「俺さ、夜眠れない時なんか、よくテレビでやってる映画を見るんだ。深夜だから、外国の戦争映画が多いんだけど」


「うん」


「そういう映画で、決まって主人公を困らせるのが、胸にいくつも勲章をつけて威張り散らす上官の将校なんだ。歴戦の日々を、長々と、目を細めながら話したりするものだから、やっぱり隊の中でもそんなに好かれていなくてさ。制作側の意図としては『こういう人イヤでしょ?』っていうのがあるんだろうけど、俺はそんな将校のことが嫌いになれないんだ。胸で輝く勲章一つ一つは、国を民をあるいは愛する人を、命を賭して守ってきた証だ。威張いばってなにが悪い。誇ってなにが悪い。俺はそんな風に、目をこすりながら、よく思う」


 少しだけ、右手に力を込める。


「だから自慢でもひけらかしでも構わないからさ。俺には遠慮なく話せよ。いくらだって聞いてやるから。まだまだ胸には、たくさん勲章があるんだろう?」


「また今日も」と高瀬は不服そうに言った。「神沢君が良いところを持っていった。どうしてこうなっちゃうかな」


「なんか、ごめん」謝るしかなかった。


「でもね、今日の私には、とっておきがあるんだよ」

 高瀬は身体をこちらに向けて言った。


「とっておき?」


「そう、とっておき」

 明るい顔で彼女は繰り返す。そして空いている手で髪を耳にかけ、おほん、と声の調子を整えた。

「春にね、神沢君の大学進学のため、私もできる限りのことはしてみるって言ったじゃない?」 


「ああ、よく覚えてる」


「その最初の挑戦として、私ね、小説を書いてみようと思うんだ」


 “小説”と聞いて、両目の奥で光が弾け散るような感覚があった。意識のどこか深いところでは、雷鳴が轟いている。


「神沢君。どうかした? 私、なんか、まずいこと言ったかな?」


「いや、そんなことはない」

 俺はよほど険しい顔をしていたらしい。

「悪い。続けてくれ」


「小説の新人賞ってね、賞金がけっこうおいしいんだ。ある有名出版社の主催する新人賞だと、大賞になるとけっこうな金額がもらえちゃうんだよね。神沢君の大学二年生以降の学費をまかなうには充分な金額が。これ、狙わない手はないでしょう」


「高瀬、小説なんか書けるのか?」


 愚問だった。この才媛さいえんならば、その気になればある程度の域に達したものを仕上げてくる。


「自信はあるんだ」とやはり彼女は言った。「文才があるかどうかはわからないけれど、賞がかかると強いのが私だから。過去の受賞作の傾向とか、時代の流れみたいなものを分析して、胸の勲章をもう一つ増やせるようがんばってみる」


「なんか情けないような気もするけど」と俺は本音を口にした。

「というと?」


「だってほら、人が獲得した賞金で大学に通わせてもらうなんて、なんだか甲斐性がないだろ?」


「そんなつまらないこと気にしなくていいの」高瀬はたしなめてくる。「大学進学への支障が、神沢君の場合はたまたまお金だった。ただそれだけのことでしょ。余計なこと考えないの」


 彼女は俺の目を見て、それにね、と続けた。


「私の大学のために神沢君がになっている役割を考えたら、これくらい安いものだって。普通の人ならばいくら札束を積まれたって断る大仕事を、神沢君は|け合ってくれているわけだから」


 そう言われると自然と身が引き締まる。俺も彼女の目を見てうなずいた。


「内容はまだ全然決まっていないんだけどね」と高瀬は言った。「世界観とか、テーマとか、主人公とかそういうのは白紙なんだけど、書き始めたら神沢君にも読んでほしいんだ。そして意見を聞かせてくれるとうれしいな」


 雷鳴が、再び訪れる。今度は、鼓膜のすぐ近くに。


 いったい、どうなっているんだ――?


 これではまるで、母・有希子と同じじゃないか。


 そう思うと、途端に頭がきりきり痛み始めた。


 高校時代の俺の母親も、強く恋をしていた人の小説を読み、批評を与える日々を送っていた。


 その背景や目的は違っても、俺は母と同じ道を辿ろうとしているのか?


 これが運命の悪戯というものなのか?


 悪寒が背中を襲い、身震いしていた。


 母とその恋人(柏木晴香の実父・恭一)は、高校卒業と同時に離ればなれとなる定めにあった。


 では、それでは、俺と高瀬の行く末には何が待っているというのか。


 時を越えた奇妙な符合は、悲劇的な末路を示唆しさしているのだろうか?


 頭痛と寒気と震えを鎮めてくれたのは、他でもなく高瀬の手の温もりだった。

「神沢君、大丈夫?」


「運命なんかに負けない」と俺は頭を振って言った。「負けていられるか」


「え?」高瀬がきょとんとするのは当然だった。けれど俺は続けた。


「絶対負けない。俺たちは大学に行く。前に高瀬は言ってくれたもんな。俺はもっとポジティブになっていいって。前向きにならなきゃ」


「そう、だね」高瀬は少し時間を置いてから、優しく微笑んだ。


「最高の小説に仕上げよう。そのためには厳しいことも言うかもしれない」


「神沢君の『厳しい』は本当に厳しそうで、ちょっと今から恐いな」


「覚悟しろ」俺が少し意地悪な顔をしたところで、ぐぅん、と何かが起動するような鈍い音がした。


 それからすぐに消えていたゴンドラのライトが灯り、観覧車は再び動き始めた。


 どうやら高瀬との夜空での語らいは、そろそろ終わりを迎えるようだ。


 ゴンドラが再び動きだしたことで、俺たちの視界に映る風景も変わった。街の果てにある施設を確認し、俺は胸の高鳴りを覚えた。


「あ、鳴大めいだいだ」高瀬の目にも同じ施設が留まったようだ。「やっぱり空から見ると大学のキャンパスってすごく広いね!」


「そうだな。なんせ牧場まで持っているくらいだからな。俺たちが目指す鳴大は」


 高瀬はどことなく不自然な咳払いをした。そしてため息を漏らした。

「鳴大って、近いようで、遠いんだよね」


 どう返すべきか真剣に考え、俺は「違う」と言った。

「違う、高瀬。遠いようで、近いんだ」


「おー! えらいえらい。さっそくきちんと前向きじゃない。口だけじゃなかった」


 俺は彼女の意図に気づいてはっとした。

「なんだよ。もしかして、試したのか?」


 高瀬はにんまりとして、唇を限界まで開いた。そこで俺は初めて、この娘に八重歯があることを知った。彼女は右手で無垢なVサインを作っている。


 このままいつまでも夜空をただよっていたいくらい素敵な笑顔を見て、俺の心はどんな日の夜9時よりも温もりに包まれていた。


 だが俺だって、遊ばれたままなのは面白くない。


 だから言ってやった。

「高瀬さん、星菜ほどじゃないにしても、意地悪だ」

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