目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第22話 その目に明るい未来が映りますように 3


 羽田はた星菜せいなを一目見て真っ先に俺の頭に到来したのは、美しいものを目にした感動でもこの季節に露出の多い格好は体に悪いぞという親心にも似た差し出がましさでもなく、不気味な柄の毒蛇に捕食対象としてにらまれたような本能的な恐怖感だった。


 それくらい高校生としては不相応で妖しい輝きを彼女は放っていた。


 星菜は言った。

「こんにちは。あ、時間的にこんばんは、か」


 鼻に掛かった甘ったるい声が、嫌でも耳に残る。彼女は待ち合わせの時間から30分以上遅れて、ようやく夜の市営動物園に現れた。


「この時期って、何着て外出ればいいか迷うでしょ? 鏡の前で服を選んでいたら、いつの間にか時間が経ってて遅れちゃった」


 想像に違わず、なかなかマイペースな娘であるらしい。


 率直に言って、羽田星菜はきれいな女の子だった。それは認めなきゃいけない。


 個人的に染髪は好きではないけれど、彼女には明るいブラウンの髪色がよく似合っていたし、これから舞踏会に行くつもりなのか? と問いたくなるくらい、アイシャドウとチークが見事に決まっていた。


 自分をより美しく見せ、男心を掴む術を星菜は知り尽くしていると言っていいだろう。


 もし俺に今の3倍くらいの勇気と剛胆さがあれば、一つ星菜に言っておきたかったことは、初見の俺に対する戦略的な上目づかいだけはやめてくれ、ということだ。


 それは、太陽にやれ。


南高なんこうに通ってるんだよな」

 太陽は俺たちに星菜を紹介した。夏に会った、ちりちりパーマや大岩のことがすぐに思い浮かんだ。私立南高はよほど自由な校風らしい。包容力があると言っても良い。


 俺と高瀬も順番に自己紹介すると、星菜は「同い歳だから呼び捨てでいいよね」と馴れ馴れしく言った。「ユースケとユーリ。オッケー、覚えた。あはは、ユー・ユーコンビなんだ」


 高瀬は星菜とは調子が合わないらしく、愛想笑いを浮かべた。


「で、この二人は付き合ってんの?」と星菜は言った。


「そういうんじゃないんだ」と太陽が答えた。「困難な状況から大学を目指す、ってことで目標が一致しててな。勉強ばっかりしてる二人だから、たまにはこうして外の空気でも吸わせてやろうと思って連れ出したんだよ」


 ふーん、と興味なさそうに相づちを打ちつつ、星菜は高瀬と俺の姿を観察し始めた。


 彼女の視線にはぎらりとした鋭利さがあり、こちらとしては、品定めされているみたいで良い気分ではない。


 俺が着ているダンガリーシャツのそでに目をやった時、部屋の隅に虫が巣くっているのを見つけたかのように星菜が顔を引きつらせたのを、俺は見逃さなかった。


「さ、行こう。太陽、みんな。今夜はウサギさん、抱っこできるかなぁ?」


 星菜が作為的な声でそう言って太陽の隣に歩み出た後で、一体袖に何があるのか、俺は密かに確認した。すると目を凝らしてようやく気付く、小さな糸くずが縫い目からほつれていたので、仰天するしかなかった。


 その糸くずを摘まみ、星菜の華奢きゃしゃな背中を視界に入れ、一人笑う。


 このひとつの手抜かりを通して、俺という人間のステータスや来歴を見抜いたというのか、と。


 間違いない。羽田星菜は、その可憐な仮面の奥に、強靱な毒腺どくせんを隠し備えている。「男殺し」の異名をとる彼女が使う武器は、きっと遅効性の毒だ。



 ♯ ♯ ♯



 動物園は普段なかなか見ることができない、動物の夜の姿を見ようとする人たちで賑わっていた。


 俺はイベントも人の多く集まる場所も好きではないが、夜という環境下だとそれほど肩が凝らないで済むのは、生まれながらの日陰者であることを示しているのだろうか。


 俺と高瀬の関係は一言では言い表せないほど複雑で微妙なものだけど、それは太陽と星菜についても同様に言えることだった。


 この二人は一旦は男女として致命的な終わり方を迎えていることを忘れてはならず、星菜のオープンな性格を考えれば、俺と高瀬に見せびらかすようにして「太陽、腕を組んで歩こう」と言い出してもおかしくないけれど、そうしないのは、二人の間に完全には修繕しきれていない亀裂が残っているからに他ならなかった。


 動物自体にさほど興味を引かれない俺は、動物を見た高瀬の反応を最大の楽しみにして順路を進むことにした。


 もちろん俺たちだって、密着して歩くことなどしない。いや、できない。腕を組むなどもってのほかだ。


 それでも、手を少し伸ばせば体に触れることができる距離でずっと高瀬が寄り添ってくれたのは、望外の喜びだった。


 ホッキョクグマの毛の色は実は白ではなく透明なんだよ、と博識を披露したと思ったら、アムールトラの赤ちゃんに飼育員がほ乳瓶で授乳させる様子を見て、「家で飼ってみたい」と間の抜けたことを言ってくれたりもして、彼女の隣にいると、退屈することは一瞬たりともなかった。


 もっとも盛り上がったのは、ゾウ舎に立ち寄った時だった。


 高瀬が咳払いをして、少し誇らしげな顔をして口を開いた。

「このゾウさんの名付け親は、実は私なんだよ」


 本人以外の三人は、大きな象と小さな高瀬を交互に見遣った。両者の縁を辿るように。


「市が公募をかけてね。『この子の名前を決めてあげてください』って。あれは私が小学校の高学年の時だったかな」


 ああ、すっかり賞状コレクターと化していた頃か、と俺は納得した。


 自分が小学生ということはもちろん、時代背景や世相に至るまでを考慮に入れた上で、どんな名を応募しどんな葉書はがきの書き方をすれば企画担当者の意識をくすぐることができるか。深く思索する聡明な少女の姿が、俺には容易に思い浮かんだ。


「優里すごーい!」と高い声を出した星菜は高瀬に擦り寄り、次に「本当だ」とわざとらしく口に手を当てた。


 星菜はゾウを紹介する看板を見ていた。


 そこには名を授けられたゾウの前で、背広を着込んだ市のお偉方えらがた数人と並んで、写真に写る幼少期の高瀬の姿があった。


 理知的な少女は――おそらく市側に指示されたのだろう――ゾウに対して願いを込めた直筆のメッセージボードを持っている。


 星菜はこんな間近に名付け親がいることを周囲の客に伝えたくて仕方ないようだった。


 それを察知した高瀬が照れながら「いいって」と食い止める間、俺と太陽は肝心のゾウの名を確認して、声は出さないが、二人して顔を見合わせて微笑んでいた。微笑まないわけにはいかなかった。


 このめすのインド象は、とても素敵な名前を小学生の高瀬にプレゼントされたようだ。


 遊び心あふれる、住民票を模したゾウのプロフィールの氏名欄には、「未来」とあった。


「その目に明るい未来が映りますように」

 写真の中の少女は、まっすぐ前を見据え、その願いを掲げている。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?