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第22話 その目に明るい未来が映りますように 1


 俺たちの1年H組で、今年度の教育実習生を迎えることになった。


 リクルートスーツのスカートから伸びる生脚がまぶしい、色香たっぷりの女子大生がやってきて、男子生徒諸君の目をぎらつかせた――ということはなくて、担任の後から教室に現れたのは、人畜無害な笑みを浮かべた小柄な男だった。


 北向きたむきです、と彼は名乗った。


 俺と高瀬が入学を目指している地元の国立・鳴大めいだいの四年生で、経済学部に籍を置いており、授業は現代社会を担当するという。


「まっすぐ、ひたむき、北向先生と覚えてください」

 教室の最後部まで、良く通る声だった。

「いっそ、ひたむき先生でもいいです!」と言って拳を握る姿から察するに、“ひたむき”というのが彼が20代前半の自身に設定したスローガンであるようだった。


 お世辞にもハンサムな顔立ちとは言えないし、背も高くはないけれど、今まさに実社会という戦場に足を踏み入れようとしている男特有の野性的な気配は漂わせており、そのおかげで、さっそく何人かの女子生徒の関心を引くことに成功しているようだった。



「日本に生まれた君たちは幸せなんだよ」

 授業の進め方にも余裕が見え始めたある日、北向は語り始めた。

「僕は去年、バックパック一つでユーラシア大陸を西から東まで旅をしてね。世界をこの目で見てきたんだ」


 現代社会の時間はいつも睡眠に充てている前の席の柏木だが、どういうわけかこの時ばかりは目もこすらずに、北向の話に耳を傾けていた。


「旅が東欧のルーマニアに差し掛かった時、僕は財布をすられてしまった。日本人は狙われやすいからそれまでも警戒していたつもりなんだけども、あの辺りのスリはレベルが高くてねぇ。犯人は年端も行かない少年だった。そりゃもう、僕も必死で追いかけたさ。異国で無一文になるわけにはいかないから。石畳の街の中を走って走って、彼が入っていったのは、驚いた。なんとマンホールの中だった。一瞬ためらったけれど、僕も泣き寝入りしていられない。思い切って、掛かっていたハシゴを降りると、中には居住空間が広がっていた。そう、そこが彼のホームだったんだよ」


 市民が等しく参政権を持つことの尊さを語るよりは、数段活き活きした口ぶりだった。


「まさか、ひ弱そうな東洋人が地の底まで追ってくるとは思わなかったんだろう。少年はとても攻撃的な眼差しで、僕を見た。まさしく窮鼠きゅうそ猫を噛むで、彼は今にも殴りかかってきそうな勢いだったけれど、奥の暗がりから声がして、緊張は和らいだ。現れたのは、女の子だった。少年のお姉さんなんだろうな。強い口調で彼女に何かを語りかけられた少年は、それまでの態度が嘘のようにしおれて、僕に財布を返してきた。そして地上を指さした。『出て行け』ということなんだろう。僕はハシゴを登り、その場を立ち去った」


 H組30人の反応を試すような間をわざわざ設け、彼は続けた。


「でもね、僕の脳裏には、少年のお姉さんが負っていた傷が焼き付いていた。彼女の右膝はざっくりえぐれていて、目も当てられないほど化膿かのうしていたんだ。僕は思った。『もしかしたら少年は、お姉さんの治療費が欲しかったんじゃないか』って。彼ら姉弟に、親はないみたいだったからね。途端に僕は居ても立ってもいられなくなって、そばにいたご老人に薬局の場所を尋ねた。もちろルーマニア語はわからない。意思の伝達手段は、身振り手振り、ジェスチャーだ」


 再現、ということなのか、実際北向は、腕に注射を打つような仕草を挟んだ。


「薬局で薬と包帯を購入すると、マンホールに戻ってハシゴを下った。再度僕の姿を見ることになった少年は、まるで『悪魔が来た!』みたいな目をしたけれど、僕が抱えていた袋を見ると、あら不思議、サンタクロースでも見るような澄んだ目に変わったんだ」


 最前列の女子生徒が、先ほどから、うんうんとうなずきながら話を聞いている。よほど興味をそそられるようだ。


 北向は続けた。

「結局少年とは、すっかり打ち解けてね。街を案内してもらったり、彼の友人たちとサッカーをして遊んだりした。ああ、そう言えば、ピッキングの技術も教わったりもしたな。ははっ、いったいそれをどう活用しろって言うんだろうね。『We are friends』。最後にがっちり握手をして、僕はその街を去ったんだ」


 若手俳優の名と顔を売ることが本旨ほんしの紀行番組から着想を得た、聞こえの良いエピソードのように思えなくもないが、この手の話に手応えを感じたのか、北向はすぐに次の美談を語り始めた。 


 それはカンボジアでの出来事だった。


 プノンペンの街角で俺たちと同じ歳くらいの痩せた少女に売春を持ちかけられた彼は、それならばと、ホテルではなく安いレストランに行き、彼女に食事を振る舞う代わりに、環境問題や核保有の是非について議論を持つ時間を共有したという。


「We are friends」は万国共通さ、と彼は自信満々に言った。その様は、蒙昧もうまいなる者に崇高な教義を説くようでもあった。


「衣食住が保証され、こうして教育を受けることができる君たち日本の若者は、幸せなんだよ」


 北向は満足げな顔をしてそう締めくくったけれども、それはどうだろう? と俺は疑問を抱かずにはいられなかった。


 世界的に多様化が進むこの時代において、国単位で区切りをつけて「A国民は幸せ」「B国民は否」と論じるのはあまりにも短絡的ではないか、と浮かんだのだ。


 ルーマニアにも何不自由なく人生を謳歌している富豪はいるだろうし、日本にだってやむなき理由に基づいた売春は存在する。だいたい、毎年毎年、一つの街がごっそり消えるくらいの自殺者が出ている現状をどう説明するのだ。


「幸せってなんだろう?」と考えてしまう最近の俺ではあるが、ひたむきと自負する男のひたむきな旅の思い出を聞いたからといって、「そうか、俺は気付いていなかっただけで幸せだったんだな!」と目の前に光が差すわけもなく、よほど挙手し、「現代の日本に生きる僕たちには僕たちなりの苦悩があります。衣食住が保証され、教育が受けられれば幸せというのは、先生の主観の域を出ないのではないですか?」そんな風に反論を試みようかとも思った。


 しかし、どうやら北向は、むしろそういう展開を待ち望んでいるようだった。


 国の名前なんか教科書でしか知らない、自己の苦悩をいくぶんマイナス軸へ下方修正して語りがちな高校生からの、青臭く脆弱な異議が出ることを。


 きっと彼には、反論を打ち破るだけの自信があったのだろう。


 敢えて餌をまいて、食いついたところを網に収める。その場面がおれの、最高の見せ場になる。


 挑発的な傾向を帯びた目つきで教室の30人を見渡す北向を見るに、彼のそんな心の声が、アイロンがけされたシャツの下から漏れ出しているようだった。


 学生気分が抜けない教育実習生ごときに「これだから日本から一歩も出たことがない頭でっかちは」と訳知り顔をさせるのだけは御免だったので、俺は挙手することをやめ、教科書の三権分立を説明した図に目を落とすことにした。


 少なくとも北向の言う「日本の若者」に、父が放火犯で投獄されたことが原因で、死の世界に居場所を求めるほど孤独を強いられた少年はカウントされていないのは明白で、そもそも抱いていた、一つ一つの言動から表情の作り方に至るまでおしなべて打算的な彼への嫌悪感は、このチープな幸福論を耳にして、揺るがぬものとなった。


 さて、ここで正直に打ち明ければ、順序は前後するが、俺はこの北向という男が、教室に現れたその瞬間からいけ好かなかった。


 なぜならば、担任の後ろから現れた北向が前の席の柏木に視線を転じた瞬間、彼の目に、絵画収集が生きがいの肥えた金満家が無名のギャラリーで至上の一枚を見つけたような、ぎとぎとした所有欲が浮かんだのを確認したからだ。

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