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第20話 この想いには価値がある 5


 日比野さんに再び会ったのは、翌朝の登校中だった。


「“陽ちゃん”はどう?」と俺は太陽の幼馴染みに話題を振った。「きのうはずいぶんと荒療治だったみたいだけど」


 スマホに届いた、救援を求める彼からの大量のメッセージを思い出していた。


 居眠りが主な授業中の過ごし方である太陽にとって、突然の猛勉強はさぞつらかったに違いない。


「ぐったりしていました。今日は遅刻かもしれませんね」


 こんな素敵な先生に朝起きられないほどみっちり勉強を教わるなんて、ちょっと羨ましい気もする。


「神沢さん、一体どうしたらいいんでしょう?」

 日比野さんは、熱帯雨林で虫除けを怠ったような顔で言う。

「陽ちゃん、隙あらばすぐにスマホに手を伸ばすんです。あれじゃ全然勉強になりませんよ」


 俺は少し考え、「いっそ、椅子にくくりつけちゃえば?」と提案した。「ちょっと気が早いかもしれないけど、太陽はこのままの成績だと、留年っていう恐れもある。あいつが後輩になるのなんて、なんかいやだ」


 それは冗談半分だったが、日比野さんは同調するように笑った。

「あぁ、それは名案ですねぇ。神沢さんのお墨付きをいただけたので、放課後にホームセンターで縄を買って帰るとします。あ、わたし、本気ですよ。やりますよ」


 そこで俺は太陽から聞いた話を思い出した。きっときのう彼が言っていた『呪縛』と今日比野さんが口にした『縄』がリンクしたのだろう。


 彼の間近で過ごしてきた日比野さんなら、太陽少年が体験した苦すぎる恋物語の顛末てんまつも把握しているんだろう。


 太陽の幼馴染みとして、あるいは(おそらく彼に恋心を抱く)一人の女の子として、彼女がこの件に対しどういう見解を持っているのか、俺はそれを尋ねてみたくなった。


「あのさ、日比野さん」慎重に言葉を選んで、“星菜事件”のことを切り出す。



 ♯ ♯ ♯



「愚の骨頂ですね」と日比野さんは容赦なく突き放した。「愚か、馬鹿、阿呆、間抜け、とんま。いくらでも出てきます。あの時の陽ちゃんを表す言葉は」


「男殺し」と俺は星菜のあだ名を言ってみた。


「陽ちゃんを利用していたのはなにも星菜さんだけじゃないんですよ。陽ちゃんは小さい時からずっと誰かに良いように使われてきたんです」


「小さい時から?」


 日比野さんはうなずいた。

「陽ちゃんの部屋には本屋さんみたいにずらっとマンガ本が揃っていましたし、いつも最新のゲーム機とソフトがありました。冬は暖房が、夏は冷房が効いていて、優しいお母様が美味しいお菓子とジュースを振る舞ってくれます。これ、男の子にとっては、楽園ですよね?」


 俺はマンガにもゲームにもあまり興味がないから共感できないけれど、わざわざ水を差す必要もない。「そうだね」


「ある時から、クラスの男の子たちが、毎日のように葉山家に遊びに来るようになったんです。陽ちゃんは『友達が出来たぞ!』って喜んでいましたが、わたしの目には明らかでした。その男の子たちの目的は、陽ちゃんじゃなくて、楽園であることが」


 それは学校で班決めなどがあると歴然となった、と彼女は解説した。


 いつも太陽だけが除け者にされてしまうのだった。彼は“友達”とはみなされていなかった。当の本人はいつまでもそれに気がつかずに、楽園の入場証であり続けたという。


「星菜さんに貢がされ続けた一年間を経験してようやく目が覚めたみたいですが、とにかく陽ちゃんは、小さい時からそうやって周囲に利用されてきたんです。その例は挙げればきりがありません」


 ある意味それは、今だって継続していると言える。


 太陽が女の子に抜群の人気があるとわかるやいなや、途端に彼に接近した男子は多い。もちろん連中は太陽自身ではなく、彼のおこぼれが目的なんだろう。


 マンガやゲームが女の子に置き換わっただけで、その構図自体は幼少期と何ら変わっていない。しかし昔と違うのは、今はそれを掌握した上で、えて、太陽がその薄っぺらい交友関係を続けているということだ。


 そしてその理由を、今ならば俺も知っている。戒め。


 俺は口を開いた。

「星菜って女は、太陽のことを『中身のない退屈な男』と軽んじていたらしい。でも俺はそうは思えないんだ。太陽は長い間誰かに利用されてきたにも関わらず、それに気がついたからといって、仕返しのようなことをしようとは考えなかった。女の子にもてるんだから遊ぼうと思えば好きなだけ遊べるのに、『人の心を雑に扱う行為』と言ってそれを嫌った。抜けているところも多いけど、俺はそんな太陽は充分中身のある奴だと思う」


「陽ちゃんのこと、よくわかってくれてるんですね」

 日比野さんのその声には、喜びが滲み出ていた。


「普通に女の子と会話はできるし、それを楽しむ余裕もあるとはいえ、今太陽は女性不信みたいなものにさいなまれている。根がピュアな奴だけに、星菜の一件はよほど応えたんだろう。あいつは『今のままで良い』と言うけれども、俺は克服すべきだと思ってる。やっぱり健康な十代の男が異性を信じられないでいるってのはあるべき姿じゃないし、何より、星菜との日々を思い出して苦悩する太陽は、痛々しくて見ていられない。太陽を星菜の呪縛から解放するため、俺はやれることをやってみるよ」


 それを聞くと彼女はしばらく黙り込み、眼鏡のブリッジを触った。そして言った。

「今、ようやく理解できました」


「なにをでしょうか?」つられてつい敬語になる。


「昨日の勉強中もそうだったんですが、高校に入学して以来陽ちゃんは、わたしと二人でいても神沢さんの話ばっかりするんです。『ようやく見つけた』『あいつといると退屈しない』『最高のダチだ』って。もう、嫉妬しちゃうくらいですよ」


 日比野さんはふふっ、と自嘲気味に笑う。


「人を見る目がなかった陽ちゃんですから、また騙されているんじゃないかと心配していたんですが、どうやらそれはわたしの思い過ごしだったようです。今なら納得です。神沢さんは、正真正銘、陽ちゃんの『ダチ』です」


 首筋のあたりにくすぐったさを感じていると、「失礼かとは思いますが」と日比野さんは続けた。

「神沢さんは人の痛みというものを身をもってご存じなのではないでしょうか。陽ちゃんはそんな神沢さんに、自分と似たところを嗅ぎ取ったんです、きっと」


 なるほど、と思った。たしかに俺の中学時代も痛みを伴う毎日だった。高校入学直後などは、そんな日々によって生み出された影がこの全身を覆っていたかもしれない。


「そうかもしれないね」と俺は言った。


「神沢さん」と彼女は言った。そして立ち止まった。「ひとつお願いがあります。あなたに出会ってから、陽ちゃんは変わりました。ようやく気が置けない男の子の友人を得たことは、陽ちゃんにとって、とても大きかったんだと思います。温室育ちの世間知らずなので、至らないところもあるとは思いますが、どうかこれからもそばで陽ちゃんのことを見守ってあげてください」


 母親が二人いるみたいだ、と太陽が言っていたのを思い出し、可笑おかしくなった。いずれにしても、日比野さんが太陽のことを親身に思っているのは、疑いようのない事実だ。


「わかってるよ」と俺は太陽と出会ってからの忙しくも充実した日々を思い出して言った。「あいつは俺にとっても大切な『ダチ』だから」


「それはよかったです」


「日比野さん、俺もひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」

 遊び心と好奇心が俺にそう言わせた。


「はい、なんでしょう」


「一度だけ、眼鏡を取ってみてくれないかな」

「え、眼鏡、ですか?」


「そう」

「そんなことでいいのなら」


 日比野さんは首を傾げるも、すぐに願いに応じてくれた。「あぁ」と、俺の口から感動と興奮に満ちた声がこぼれたけれど、きっと彼女は、何のことなのかわかっていない。



 ♯ ♯ ♯



「見ろよ、これ。痛々しいだろ?」

 太陽がシャツをめくって嘆いた。


 日比野さんは本当に俺の提案を採用したらしく、彼の引き締まった腹部には、生々しい縄の跡がついている。


 眼鏡美人の素顔を拝した翌日の昼休み、俺と太陽は再び高校の中庭に来ていた。


「椅子に縛り付けるなんて、まひるの奴が思い付きそうにないし、きっと誰かが入れ知恵したんだよ。ったく、どこの悪趣味野郎だ」


 灯台下暗しで犯人は隣にいるわけだが、自白しても面倒になりそうなだけなので黙っていると、太陽はうんざりといった顔で弁当箱を開いた。


 見れば、今日も母の愛に満ちた文句のつけようのない弁当だ。


 そこで俺は、あることに気がついた。


 前ほど太陽の弁当が羨ましくはないのだ。いや、正確には、母親が作ってくれるきちんとした弁当を持参できる太陽、そしてその人生、と言った方がいいかもしれない。


 心のどこを見渡しても、あまり綺麗とは言えないそのねじ曲がった感情は見当たらなかった。


 深呼吸をし、さらに考えを掘り下げていく。


 俺は今まで他の誰かの人生が羨ましくて仕方なかった。世界の全ての不幸が俺一人の元に狙いを定めて押し掛けているんじゃないか。そう思っていた節があった。


 だがそんなことは決してない。今ならばではなくそう思える。


 たしかに俺は太陽と違って母親の愛情のこもった弁当を味わうことができないし、フリーパスで医学部に行けるわけでもない。


 無愛想だから人は滅多に近寄ってはこないし、朝までゲームに興じる余裕などないほど日々多忙だ。


 でも少なくとも俺は、恋をした人に裏切られた経験はない。


 だから誰かに想いを寄せることができるし、その恋する人の言葉を、笑顔を、信じることができる。それは何物にも代えがたい大きな喜びに違いないはずだ。


 そして逆に言えば、それができない太陽は、大きな不幸の中にあるとも言える。


 俺の高瀬に対するこの想いには価値があるのだ。


 鮭の小骨が喉に刺さったとかで大騒ぎする太陽に俺は「感謝してるぞ」と声をかけた。


「はぁ? なんだよ突然」


「一から話せば長くなるから、省略する。とにかくおまえが『ダチ』でよかった」


 悩める友はきょとんとしていたが、打算のない笑顔を見せるまで、それほど時間はかからなかった。

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