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第19話 世界はとてもカラフルだ 6


 花火は時間の経過と共に、華やかさを増していた。


 序盤はそれほどぱっとしない演出の連続であくびが出たりもしたけれど、中盤以降はそのあくびを見て「舐めるなよ」と発奮したかのような、目覚ましいエンターテインメントショーを見せつけてきた。


 俺たちは明日から新学期だという現実もすっかり忘れて、ただ夜空を舞台にした芸術に目を奪われていた。


 赤、青、緑、黄色、紫、橙、水色――。


 色とりどりの光が現れては消え、心にその色を刻みつけていく。そして俺はそれを素直にきれいだと思える。 


 ふと、当たり前のようにそんな反応を示した自分がいることに、強い違和感を覚えた。


 それぞれの色をそれぞれの色として認識できる。花火を花火として楽しめる。それは決して当たり前のことなんかじゃない。


 実はこのことは気に留めておくべきなんじゃないか? そう、冷静になって自分に語りかける。思い出してもみろよ、と。以前の俺が今夜と同じ花火を見たとして、こうして心を動かされただろうか?


 孤独に日々を生きる中で、いつからか俺の瞳に映る世界からは色が失われていた。

 昼も夜も晴れの日も雨の日も、街の風景は決まって重いなまり色だった。

 シチューにもオムレツにも熟れた桃にも、食欲をそそられる色はなかった。

 信号からだって色が損なわれ、車にかれそうになったこともあった。

 中学校の屋上から見た風景には、間違いなく死の色が含まれていた。


 それほどまでに俺は追い込まれていたのだ。


 そうである以上きっと、夜空に舞い上がるこの花火も俺の目には差違を欠いたモノクロの光景にしか映らなかっただろう。


 しかし今の俺は、しっかりと色彩を認められる。さらに素晴らしいことには、心から美しいとさえ感じることができる。


 そしてそれはまぎれもなく、今目の前で夜空を見上げている三人のおかげだ。


 俺は功労者たちの背中を順に見つめる。


 月島がこの命を救い、高瀬に生まれて初めての恋をし、柏木とは同じ痛みを抱えている。


 彼女たちが俺の世界に再び色を与えてくれた。


 そう考えると、とたんに心の深い場所でなにかが震えた。


 その震えはどんなに抑え込んでも収まりそうになかった。気付けば、両の頬を伝って落ちるものがあった。


「どうした、神沢?」

 月島のその声に、ベランダの高瀬と柏木もこちらへ振り返った。


「悠介、泣いてる……の?」

 柏木がかがんで言った。


 高瀬は明らかに俺の情けない姿に気付いていたけれど、何も喋らないで優しくうなずくという選択肢を選んだ。そこで俺はたまらなくなってしまった。


 無意識に口から出たのは「ありがとう」という言葉だった。


「今の俺は、花火が心からきれいだと思える。それは、みんなが、色を取り戻させてくれたからだ」


 視界は潤んで、もう何もまともに見えやしない。それでもなんとか言葉を継いでいく。


「世の中がこんなに色で溢れているなんて、前は気付かなかったんだ。ひどい毎日だった。つまらない毎日だった。一人で生きていた毎日だった。いや、そもそも、生きているか死んでいるか、それさえもよくわからなかった。でも今ならわかる。感じることができる。俺は笑えるし、生きているし、世界はとてもカラフルだ」


 三人の顔を直視できないから、涙を拭って、夜空を見上げる。それでもまだ、花火はにじんで見える。


 柏木がベランダからこちらにやってきた。そして「こんにゃろう!」と言って俺の髪を両手でくしゃくしゃにき乱した。「どうしてくれんのよ、この空気。しんみりしちゃったじゃない」


「すまんすまん!」と俺は言った。「悪かったって」


 月島が椅子から俺を見下ろし、続く。

「感謝しろよー、ナキムシ」


 それは最も男子に言ってはいけない言葉の一つに違いなかったので、「うるせーな」と返すと、彼女は無表情を解き、いつくしむような微笑みをその小さな顔に浮かべた。


「神沢君」今度は高瀬が澄んだ声を出す。

「とにかく、わかるんだね? 花火がきれいだって」


「ああ」俺は深くうなずく。

「それだけでいいんだよ」と高瀬は言った。彼女の穏やかな顔は、より一層かすんで見えた。


 繰り返される花火の爆発音と静けさのリズムが絶妙で、心地よい。神経は妙に高ぶっている。「みんなに会えて良かった」と俺は言う。


「本当に、良かった。みんなの未来は、必ずなんとかするから。問題は山積みだけど、とにかくさ、前に進もう。ひとつだけ言っておくぞ、今の俺は、ちょっとおかしくなっている」


 最後のは照れ隠しとしても、これは偽らざる本心だった。


 高瀬だけじゃない。柏木と月島も、最後には笑顔で、高校を卒業させてやらなきゃいけない。それが彼女たちの苦悩を知り、また彼女たちに救われた者の、果たさなければならない務めだろう。


「ま、がんばってもらおうじゃない?」

 柏木が高瀬と月島に向けて両手を広げた。

「悠介が今言ったこと、二人とも忘れないでよ。約束が守られそうになかったら、蹴っ飛ばしちゃっていいから」


 蹴っ飛ばされるだけで済めばいいが――高瀬にならば一度蹴られてみたい気がしないでもないが――いずれにせよ、なんとも柏木らしいその発言のおかげで、しんみりした雰囲気は立ち消え、主役は再び花火となった。



 ♯ ♯ ♯



「終わったねー」

 ベランダで高瀬が可愛らしく背伸びした。


「すごかった。たいしたもんだ」

 映画の悪役が主役を嘲笑うような拍手をして、月島が感想を述べた。


 この街は好きじゃないけど、この花火だけは褒めてやってもいい。言外にそういう意思がぷんぷん匂っていたけれど、実際にそれを口にするほど、空気が読めない娘でもない。


「来年も来るでしょ?」柏木は言う。「来年も花火の日はお店、混むから。手伝ってもらって、それからここで花火見物。もう恒例行事にしちゃおう、うん」


 柏木特有の人の事情を無視した物言いに、三人が呆れて閉口したところで、一階から聞き慣れた声で「おーい!」と聞こえた。「みんな、助けてくれー!」


「葉山君だ」と高瀬が言った。


 何はともあれ、助けをわれている以上、彼の元に向かうしかない。


 俺たちは階段を降りて店舗へと出た。見ればテーブル席の鉄板で帆立貝や牡蠣かき、アスパラガスを焼きながら生ビールを楽しんでいるいずみさんに、太陽は文字通り、捕らえられていた。


「この子ねぇ、一目見た時から、いい男だと思ってたのよ。最近珍しい、この情熱的なギラギラした瞳なんか、特に私好みだわぁ。ああ、美味しそうっ!」 

 いずみさんは、くっはー、と豪快にジョッキをあおり、唇に泡を残す。


「あ、だめだ」柏木が諦め口調でつぶやいた。「ああなっちゃったら、うちの叔母さん、誰にも止められないから。今日はそういう日なんだ。朝まで飲む気だ。花火特需でがっぽり儲かったし、仕方ないね」


「おい、悠長に説明してんな、そこ!」太陽は椅子から身を乗り出して言うも、通路側に腰掛けるいずみさんにブロックされているため逃げることはできない。「朝までとか、シャレにならんわ。ちょっと本当に助けてくれって!」


 哀れな色男は仔猫みたいに襟首えりくびを掴まれて、再度椅子に座らされた。


 俺は友を憐れんだ。「ずいぶん早かったんだな、花火は今終わったばかりなのに」


「花川先輩、怒って帰っちゃったんだよ。短い時間しか会えないって言うから。そして戻ってきたら、このザマだ。ったく! 柏木家のせいで、踏んだり蹴ったりだよ!」


「可哀想に」傑作だ、とばかりに手を叩いて月島が笑う。


 いずみさんはぷりぷりの牡蠣を太陽に「あーん」と食べさせた。「あら、太陽君、年上好きだったの? ちょうどいいじゃない。私なんか、人生の大先輩よ!」


「葉山君、良かったね、叔母さんに気に入ってもらえて。結婚しちゃいなさいよ」

 柏木のその提案は冗談に聞こえなかったから、太陽は「ふざけんな!」と声を荒らげた。


「さ、行こう行こう。叔母さん、後はごゆるりと」


 めいの心配りにいずみさんは手を振って応じ、太陽に絡みついた。


「いいのかな?」高瀬が苦笑する。


「いいのいいの。叔母さん、仕事で忙しいからたまにはああやって発散させてあげないと」


 雨続きで散歩に行けない大型犬の元に投げ込まれたおもちゃのような友に「太陽も俺に色を取り戻させてくれた一人だよな」と心で感謝を告げる。



 ♯ ♯ ♯



 柏木が部屋の電気をつけ、俺は「さて」と息を吐いた。「そろそろ帰るか」


「そうだね、明日からいよいよ新学期だし」高瀬も続く。


「何言ってんの。あのね、実はもう一仕事残ってるんだよ」

 そう言うと柏木は、勉強机の引き出しから何かを取り出し、それを中央のテーブルに放り投げた。


「あ」月島の動きがぴたりと止まった。


 俺はその物体を確認する。それは夏休みの課題として一ヶ月前に配られた、分厚いプリントの束だった。今まさに刷られたように折れ目一つついていない。


「おい、柏木……」

 課題集を手に取る。優に50ページはある。俺は血の気が引くのを感じる。

「おまえこれ、一切手付かずじゃないか! どうするつもりだ!」


「教えてもらうつもりだ!」

 柏木は当然のように言って、お茶目に舌を出した。


 月島が偏頭痛を堪えるように頭をおさえる。

「それでさっき、私たちのこと、先生って」


「活用するって」高瀬は白い目で柏木を見た。


「だって」と柏木は駄々をこね始める。「補習もあって、バンドもあって、海にも行って、お店の手伝いもあって、その上こんなバカみたいな量の課題をやらなきゃいけないなんて、まともな高校生の夏休みじゃないもん! さ、教えてよ!」


 俺の手から課題集を奪い取ると、柏木はテーブルの前で威勢良くあぐらをかいた。はちまきを渡せば、「よし来た」と額に巻きそうな勢いだ。


「待てよ。今からこいつに教えるとなったら……」

 俺は時計を見る。時刻は夜の9時を回っている。


「徹夜、だよね」

 高瀬がおそらくは柏木の理解力を計算に入れた上で発言した。


「みんなの未来は、必ずなんとかするから」と柏木は俺の真似をした。「課題がこんな真っ白だとさ、明日あたしが学校でどんな目に遭うかわかるよね? ほら、さっそくピンチだ。明日だって立派な未来でしょ。なんとかしてみなさい!」


「逃げられないみたいよ、神沢」月島が悟ったように言った。

「やるしかないか」高瀬も観念したようだ。「晴香。厳しくいくからね」



 こうして時おり一階から太陽の悲鳴が聞こえる中、俺と高瀬と月島で教科を分担して、柏木の指導にあたることとなった。「鉄板焼かしわ」の一日お好み焼き食べ放題券と引き替えにして。


 出口の見えないトンネルに足を踏み入れた気分でもあったが、もはや引き返すことはできない。入口には強固な柵がめぐらされている。進むしかない。


 うっすら明るくなり始めた外を見て、俺はふと物思いにふけった。


 春が過ぎ去り、夏も終わろうとしている。大口を叩いたはいいが、結局俺は高瀬の政略結婚を覆す起死回生の一手も、柏木を二度と屋上に行かせないための隙がない論理も、月島が心の傷を克服し東京の実家で暮らすに至る道筋も見つけられないでいる。


 ひそひそ話をしている人が目に入れば、自分のことを笑っているのかと疑ってしまうし、大学に行くための資金が足りていないのは、相も変わらずだ。


 そして俺たち五人の未来は、依然として濁った雲によって光が遮られている。


 おいおい、一歩も前進できていないぞ。そんな声がどこからともなく聞こえてくる。これで果たして未来はひらけるのか? と。


 ただ、少なくとも、俺は一度失った色彩を取り戻した。

 太陽はバンドに戻り、仲間たちと共に前にも増して練習に励むようになった。

 高瀬は何があっても大学に行くと、たしかに俺に誓った。

 柏木は集中できる何かがあれば、生に惑わないことを認識した。

 月島は小さな身体に強い勇気を宿し、黒い心を持つ男を断罪した。


 なんだ、まずまずじゃないか。


 その歩幅は大きいものではなくとも、俺たちは着実に前に進んでいる。決して小さくない問題を抱えたまま、俺たちはこのまま進む。


 購買の幻のきなこメロンパンを裏ルートで入手する方法を企み、関係代名詞の用法のわずらわしさにため息を吐き、新学期に待ちかまえる50㎞に及ぶ強行遠足をサボる口実を必死で考える。


 それでいい。俺たちは今のところ、きっとそれでいい。


 そんな日々の中にこそ、未来に立ちこめる雲を散らす手がかりは埋もれているはずだ。


 俺は注意深く目を凝らし、見過ごすことなく、それを拾い上げなければいけない。時には彼らの手を借りながら。


 結局俺は、笑顔でこの夏を終えることにした。


 なにしろ俺たちにはまだまだ潤沢な“明日”が残されているのだから。下を向いてばかりもいられない。顔を上げよう。


 夢見人だって、誰かが笑っても、かまうもんか。


 笑う奴がいるならば、いっそそいつに柏木の課題を丸投げしてしまおうか。我ながら、それはなかなかいいアイデアだ。



 最後に、「どうやって中学校を卒業したんだ、よく鳴桜めいおう高校に受かったな」と呆れ返ってしまうほど英語の基本がわかっていない柏木に対して、昼間の理不尽なスパルタ指導の仕返しだとばかりに、学業に対しては割と妥協を許さないタイプの俺でさえ思わず「厳しすぎだ!」と止めに入るほど、それこそ鬼女の顔つきで英語のいろはを叩き込む高瀬がいたことを、蛇足だそくながら、付け加えておく。





                   第一学年・夏〈終〉



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