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第19話 世界はとてもカラフルだ 5


 響き渡る爆発音が、店舗の中にいる我々にも花火大会の幕開けを知らせた。


 先ほどまでとは打って変わり、閑散としている店内を見て「よくやってくれた。あんたたちは二階に行って花火でも見てなさい。後は私一人でなんとかなるから」といずみさんが言ったことで、俺たちはお役御免となった。


 太陽は花川先輩との約束を果たすため大急ぎで河原へ出発し、残された四人は階段を登り二階へ向かった。途中で柏木が「驚くよ」と言ったが、彼女の部屋に通されると、たしかにぶったまげた。


「わぁっ」まず高瀬が労働による疲れを感じさせない透き通った声を出し、それにつられて「おぉ」と俺の声も震え、おまけに月島まで「へぇ」と感心したように言ったから、目の前の光景が驚嘆に値するものであると評して良かった。


 柏木の部屋のベランダでは目をみはらずにはいられない、大輪の花火が俺たちを歓迎していた。


 ふふん、と柏木は得意になって、一人部屋の奥へ進む。

「すごいでしょ。河原までさえぎるものが何もないから、すごくきれいに見えるの。この場所、実は、一番の特等席だったりするんだ」


 彼女は部屋の電気を消し、ベランダの網戸を開け放った。それによってより鮮明に花火の色を感じることができる。


「蚊には気をつけてよ」柏木はTシャツから伸びた長い腕を指さして言う。「ま、この絶景のために、少しくらいは我慢しなさい」


 柏木の部屋は和室ではあるけれど、置かれている家具や施されている装飾は、いかにも十代の、それも若さを謳歌している女の子のそれだった。


 少なくとも生きていることに惑い、高校の屋上のへりに立つ子の部屋だという印象はどこにもない。


 とめどなく打ち上がる花火のおかげで、電気が灯っていなくても、部屋は明るい。手招きする柏木に応じて、俺たちはそれぞれ、花火を見るために最適なスポットを探す。


 高瀬は部屋からベランダに出て最前線に陣取り、月島は勉強机用の椅子に腰掛ける。その様子を見ていた柏木は少し迷ってから、高瀬の隣へ向かった。


 俺もベランダで見たかったが、そうすると月島に「夜空にも花、両手にも花じゃん」とか言って冷やかされそうなので、やむなく部屋の中央にあるテーブルの前に座ることにした。


 三人の女の子の後ろ姿は、率直に言ってとてもきれいだった。個人的には花火よりもこの光景をいつまでも眺めていたいくらいだ。休みなく働いた疲労からか、それとも花火に見入っているのか、彼女たち三人はしばらくの間、言葉を発することがなかった。


 俺はふと厨房で聞いた、いずみさんの話を思い出していた。


「二階の晴香が使っている部屋で、兄貴と有希子さんは放課後になると毎日のように小説について議論していた」と彼女は言っていた。


 まさしく今俺が呼吸をしている、この場所ということだ。


 父娘というあるじの違いがあるから、部屋のおもむきや雰囲気は20年前とは大きく様変わりしているだろうが、俺は恭一(意地でも敬称なんか使うもんか)と母の息吹を感じ取ることができないか、少しの間、意識を研ぎ澄ましてみることにした。


 二人はこの部屋でいったいどんな会話を交わしたのだろう? 


 もちろん今の俺と同じ年頃の若い二人だ。小説の話ばかりをしていたわけではあるまい。


 授業のこと、家族のこと、友人のこと、病気のこと、そして二人の未来・・のこと。


 話すべき話題には事欠かなかったはずだ。風通しの良いこの部屋で移りゆく季節を感じながら、二人はとても多くの時間を共に過ごしたはずだ。


 小説に対する見解の違いをめぐって、喧嘩になったこともあったかもしれない。恭一の発作が止まらず、手当てに終始した日もあるかもしれない。階下の家族の目を盗んでは口づけを交わしたり、抱き合った日もあるだろう。


 二人は自分たちの未来に何が待ち構えているか知らぬまま、一切の邪魔が入らないこの部屋で愛を育み続けたのだ。


 恭一と母も、夏の終わりの花火をこの秘密の特等席から眺めたのだろうか? 


 この静かな場所でなら心臓に爆弾を抱えた恭一も人混み嫌いの母も、落ち着いて花火を楽しむことができただろう。


 そう思い、ベランダに意識を向けた時、背中が――そこに寄り添って空を見上げる男女の背中が――視界に映り込んだ気がした。ほんの一瞬のことだ。肩幅の広い男の肩に、髪の長い女の子が、頭を預けていたのだ。


 俺は瞬きをして、再度ベランダを見つめる。


 しかし「たまやー!」と唐突に柏木が叫んだことで、若い男女の幻は驚いてどこかに隠れたのか、どんなに目を凝らしてもその後ろ姿をもう見ることはできなかった。


 疲れているんだ、どうかしている。俺は小さくつぶやいて、気持ちを切り替えた。


「ねぇ、ところで、『たまや』ってなんなの? どういう意味?」

 柏木が振り返り、月島に真顔で問う。


「なーんで、私が知ってる前提だ?」

「なんかさ、江戸っ子なら、知ってそう」


「江戸っ子……」小さな額に手を当て、月島は言葉を失う。


 柏木は続ける。「東京の人ってみんな花火見て『たまやー』って言うんでしょ?」


「そういうのを偏見って言うんだよ」


 実際、柏木はイメージだけで発言していたっぽいけれど、「でも、風情はあるよね」と高瀬がすぐにフォローを入れ、そして両手を拡声器にして「たまやぁ!」と彼女らしからぬ大声で叫んだ。


 すると柏木は何を思ったか「タカセヤー!」と、花火には何の関係もない宣伝を夜空に放ち、隣の高瀬と笑い合った。とても無垢に、とても無邪気に。


「馬鹿じゃないの」吹き出したのは月島だ。でも彼女はすぐに「いいぞー、もっとやれー!」と、最前線の二人を後方からはやし立てた。


 おいおいお嬢さん方、そういうのは近所迷惑になるからやめようよ、と思った俺は、果たしてつまらない男なんだろうか、それとも善良な市民だろうか。


 願わくば、後者であってほしいところだ。



 ♯ ♯ ♯



 ふいに外から風が流れ込み、風鈴を鳴らした。その風は少しだけ冷たくて、いよいよ季節が変わることを肌で実感させられる。


「あーあ、今年も夏が終わっちゃうねぇ」と柏木は寂しがる。ベランダで俺と同じことを感じたらしい。


鳴桜高校うちの補習って、本気なんだね。ここまでキツイとは思わなかった。バンドもあったし、全然遊べなかったんだけど! もう、最悪!」


 バンドはともかくとして補習は自業自得だろう、とこれは、おそらく俺以外の二人も思い浮かべた意見だけど、支離滅裂な反論が予想されるからか、誰もそれを口にすることはなかった。


「来年はやるよ」花火を背に、柏木は決意表明する。「来年の夏は遊んでみせます。そういうわけでご指導期待しているからね、上位の君たち」


「他力本願じゃ、成績は上がらないよ」

 実は成績は悪くない月島が、もっともな指摘をした。


「そうだぞ、みんなそれなりに忙しいんだから」

 そう言いつつも、柏木の口から来年という言葉が聞けたので、「その調子だ」とひそかに心で続けた。


「鳴桜高校に受かるくらいだから、晴香だってやればできるんだよ」

 高瀬は彼女なりに落ちこぼれを励ます。


「とにかく!」柏木は文字通り地団駄じだんだ踏んだ。「せっかくこんなに優秀な先生たちがにいるんだもん、活用するから。お願いね、頼みますよ」


 なんとなく不穏だな、と感じ高瀬・月島と顔を見合わせるも、「たーまやー」と再度柏木が陽気に叫んだことで、再び夜空に視線を転じることになった。

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