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第19話 世界はとてもカラフルだ 3


「もうね、大恋愛」といずみさんは言った。

「大がついちゃうんですか」俺はさっそく胸にちくりと痛みを覚える。


「そう。学年一の秀才と、学年一の落ちこぼれの恋物語よ」


 予想はつくと思うけど、と前置きした上で「秀才は有希子さん、落ちこぼれはうちの兄貴ね」といずみさんは説明を補足した。そして、記憶を手繰たぐるように目を細めた。


「兄貴は背が高くて体格もがっちりしてたから女にモテたけど、誰かと交際することはなかった。生まれつき心臓が弱くてね。激しい運動は医者に止められてたんだ。『俺は期待に応えられねぇもん』って言うのさ。見栄っ張りな性格だから、デートやなんかで発作で苦しむ姿や薬を服用するところを、女の子に見られたくなかったんだろうね」


「でも僕の母とは深い仲になった」


 いずみさんはうなずいた。

「あんたのお母さんもさ、あまり活動的な人ではなかったでしょ? たとえば、旅行とかキャンプとか、そういうのは好まなかったはずだ」


「あまり、なんてもんじゃないです」

 動物園に連れて行って、と昔せがんだ時に母が見せた、いびつに曲がった眉と冷えきった目つきを思い出して苦笑した。

「人が嫌い、外が嫌い、ありとあらゆるアレルギー。これで活動的なわけないです」


 ははは、といずみさんは憐れむように笑った。

「何かしら通じるものがあったんだろうね、二人には。うちの兄貴も、有希子さんの前ではつよがりを見せずに済んだんだ」


 発作に苦しむ男をいたわる母の姿を想像するのは、スマホで本能寺の変を知る羽柴秀吉を思い浮かべるくらい、難しいものだった。俺はあのひとにまともに看病されたことなんて、一度だってないからだ。


「兄貴は高校入学前後から、小説を書くようになってね。私には意地でも見せてくれなかったから、内容はよくわかんないよ? でも賞に応募するくらいだから、それなりのレベルではあったんだろうさ」


 立派な図体のわりに、心臓には爆弾を抱える。高校では落ちこぼれのくせに、小説に情熱を傾ける。なんとなく、なんとなくではあるが、柏木かしわぎ恭一きょういちという人物の横顔が見え始めてきた。


 きっとある種の人たち――その代表格が俺の母だったりするわけだが――を惹き付けてやまない魅力が彼には備わっていたんじゃないか。そう推測する。


「小説の第一の読者は、僕の母だった」と俺は言ってみた。


「鋭いね、血ってやつかい」といずみさんは言った。「そうさ。うちの二階の、今ちょうど晴香が使っている部屋で、兄貴と有希子さんは放課後になると毎日のように小説について議論していたね。兄貴、『有希子の指摘は耳が痛いが、もっともだ。まったく、あいつは優秀な編集さんだよ』って言って笑ってたっけ」


 俺の父が市の図書館に放火をしたのは、母が足しげく通っていたから、というのが最たる動機だった。


 では、母は何を目的にして図書館に行くことを日課にしていたかと言えば、もちろん読書か、それに準ずる何か、ということになるだろう。まさか折り紙講座や空襲体験を聞くために行っていたわけではあるまい。


 そして高校時代の柏木恭一と母を結びつけたのは――二人の間にあったのは――小説だった。


 母は恋人として読者として、恭一の小説を磨き上げるため、助言を与え続けたのだ。この建物の二階で。


 ばらばらの珠に一本の糸が通り、一連の数珠じゅずになるように、俺の中でも情報の断片が一つにまとまっていく感覚がある。抜け落ちている珠も依然多いけれど、それでもぼんやりとつながりが見えてきた。


「息子のあんたには悪いけど、有希子さんってさ、なんだか冷たい印象があるでしょ?」

「冷たい印象しかないですよ」本心なので、すぐ口に出てきた。


「同じ女だからわかるけど、そんな有希子さんでもね、うちの兄貴には相当惚れ込んでいたみたいなんだわ。目がね、もう、熱を帯びていたよ」


「二人は惹かれ合っていたんですね」

「とても惹かれ合っていた」といずみさんは修正した。「結局兄貴の小説は大きな賞を取ることはなかったけど、二人は高校卒業まで、そんな風にそれはそれは仲睦まじく過ごした。本当にね、大恋愛だよ。てっきりそのまま結婚することになるんだろうと、私もうちの両親も思ってたんだけどね……」


 そこまで言うと、いずみさんは一旦包丁を置き、両手を振ったり揉んだりする。疲労が溜まってきたらしい。


「二人に何があったんですか?」俺も手を休めて尋ねた。「そんなに親密だった二人は、どうして別れて、それぞれ他の人と結婚することになったんですか?」


 俺の父は母よりは二歳年上で、なおかつ鳴桜高校の卒業生ではない。今いずみさんから聞いた話の流れからすると、いったい母の人生のどこで彼が登場することになるのか、まったく考えが及ばない。


「それがね、わからないんだよ」といずみさんは肩をすくめて答えた。「二人がなんで別れたか、詳しいところはわからないんだ。見栄っ張りの兄貴はどうしてもそれを教えてくれなくて。『別れたよ』――聞けたのは、その一言だけだ。鳴桜高校の卒業式の日だった。ただね、泣いてたよ。柄でもなく、わんわんと。大号泣。後にも先にも、兄貴が泣いているのを見たのはあの時だけだ」


 いずみさんはその後、恭一は高校時代のクラスメイトで市役所に勤務していた女性と結婚したと教えてくれた。その女性が、すなわち、もうすでに亡くなった柏木晴香の実母ということだ。


 俺はためしに父の名前を出してみたが、「聞き覚えがないわ」といずみさんに首を傾げさせるだけだった。



 ♯ ♯ ♯



 フロアでは引き続き、鬼軍曹の柏木による厳しい指導が続いている。


 もし竹刀でも持たせたなら、高瀬の身体に強烈な一撃をお見舞いしそうな勢いだ。時おり厨房とフロアの間にあるスペースから、余裕があるのだろう、太陽と月島がこちらに向けてピースサインを送ってくる。


「ところでさ、あんたたちのこのグループ、どういう集まりなの?」

 五つ目のキャベツを手に取り、いずみさんが尋ねてきた。俺はようやくネギの処理が完了し、今度は紅生姜を切り刻んでいる。


「よくある仲良しグループですよ」

 あの三人娘の未来は俺次第なんです、なんて口が裂けても言えない。


「ねぇ、悠介」

 いずみさんの声には、めいのそれによく似た、戯れの響きが聞き取れる。

「どの娘を狙ってるのさ」


「何のことですか」


「やだねぇ、惚けるんじゃないわよ。あんたらの年頃なんて、異性のことしか考えてないでしょ」


「そんなことないですよ」

 実はそんなことある。高瀬、柏木、月島のことを考えない日なんかあるわけがない。


「私があんたたちの歳の頃は、そりゃもうお盛ん・・・だったけどねぇ」

 いずみさんは派手に笑い、俺は何も聞かなかったように包丁を強く握る。

「本命、育ちの良さそうなお嬢様。対抗、うちの晴香。大穴、ショートカットの垢抜けた娘ってところかしらね?」


 俺は無言を貫く。黙っていればこの話題も自然と下火になるだろうと高をくくっていたが、いずみさんが「誰かもう食べちゃったの?」とささやいたから、危うく自分の指を切りそうになった。

「いい加減、そろそろ怒りますよ?」


「あらまぁ、赤くなっちゃってカワイイ」いずみさんは悪びれない。「でも父娘揃ってちゃんと同じような人を好きになるんだから、面白いもんだよねぇ。血は争えないってよく言ったもんだわ。あぁ、言っちゃっていいんだっけ? 晴香あのこがあんたに惚れてるの」


「大丈夫です。僕はもう知っていますから」


 それを聞くと彼女は包丁を離し、俺の肩に手を乗せた。

「悠介さぁ、高校出たら、晴香をもらってあげてよ。いつまでもウチにいられても困るんだよ。あの子がいたらおちおちオトコ探しも出来やしないもの。私だってね、もういい歳なんだ。身内の私が言うのもアレだけど、晴香っていいオンナでしょ? 脱いだらね、裸だってね、すごいんだから。きっと毎日寝不足になるわよ?」


「そうですか」

 俺は作り笑いを浮かべると、頭を空っぽにして紅生姜をひたすら刻む。

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