「あんたたちかい。ようし、今日はひとつ、よろしく頼むよ」
“鉄板焼かしわ”の店主にして、柏木の
歳は30代後半だとは思うが、そのスタイルの良さや、潤いと張りのある髪によって、まったく経年による衰えを感じさせない。
明瞭な目鼻立ちは、自身に降りかかった多くの問題に白黒をつけてきた過去を物語っているようで、右の口元には多くの男の視線を受け止めてきたであろう、妖艶なほくろが際立つ。
“きれいなおばさん”
この言葉は、まさしくこのお方のためにあるのだなと思ったけれど、きっと“おばさん”と聞くと、封印されし門をこじ開けて
「昔はけっこう遊んでいたらしいけど、いざ『結婚相手』ってなるとなかなか見つからないんだって」と姪の柏木は話していた。これほどの美人が独身というのは、世界のどこかにいるはずのいずみさんの運命の人は一体どこで道草を食っているのか、と首をひねりたくもなる。
「良く来てくれたねぇ」美熟女はチャーミングな声で言った。「今日はたんまり仕事があるから、存分に働いてもらうよ。ま、あんたらは若いし大丈夫だろう」
いずみさんは俺が
今日のために招集された労働者四人の自己紹介が終わると、早速俺たちは、いずみさんと柏木に仕事のやり方を教わることになった。
注文の受け方から、ビールの注ぎ方、ドリンクに入れる氷の数に至るまで、いずみさんには一定の美学があるらしく、俺たちは修得しなければいけないことがたくさんあった。
「鉄板焼かしわ」は平均的なコンビニエンスストアくらいの広さではあるけれど、四人がけのテーブル席が六卓、宴会を楽しめる座敷の部屋が五室ある。
確かにこれらの客席が全て人で埋まれば、女性二人だけで対処するのは無理だろうと店舗を見渡して思っていたのだが、いずみさんはそんな心中を見通してか、俺の肩をつんつんと指で突き「今日は埋まるのよ、全部」と片目を
俺は元より居酒屋で働いているので、こういった場所での仕事となると、他のメンバーたちよりも一日の長がある。人間不信者だが接客となれば愛想笑いくらいは浮かべられるし、生ビールの注ぎ方だってお手の物だ。
引き続きフロアで柏木が教官となり太陽、高瀬、月島の指導にあたり、俺はいずみさんに呼ばれ、厨房で仕込みに入ることになった。
「あんた、料理得意なんだって?」いずみさんが初対面とは思えないほどフランクに話しかけてくる。誰かさんと同じだ。「たいそう美味しいカレーを作れるそうじゃない」
柏木、と喉元まで出かかって、場をわきまえねばと反省した。
「晴香さんから、聞いたんですか?」
「あの子、あんたの話ばっかりなのよ。口を開けば『悠介』だもの」
あはは、といずみさんは愉快そうに笑う。
「実物の悠介に、ようやく、こうして会えた」
フロアから柏木の大声が聞こえる。
「ほら優里、そんなんじゃダメだよ! もっとお腹の底から声を出すの! はい、もう一回!」
「厳しいなぁ……」これは、高瀬のか細い声だ。「注文入ります! モ、モダン一丁!」
「まだまだ!」と叫ぶ柏木の声には、たしかな悦びが滲み出ていた。
あの女、と俺は眉をひそめる。あの女、さては実技指導にかこつけて『夏風邪』の件の憂さ晴らしをしているんだな、と。
いずみさんは俺の顔をまじまじと見ていた。
「いやぁ。それにしてもあんた、
嬉しいやら虚しいやら、複雑な気持ちになる。
「母をよくご存じなんですね」
「そりゃ知ってるさ。有希子さん、うちの兄貴と付き合い始めてからは、よくここにも来てたんだから」
この建物は、よくある「店舗兼家屋」だ。
一階が「鉄板焼かしわ」で、二階が柏木家の居住空間となっている。約20年前、自分の母親が父以外の男と逢瀬を重ねた場所で、俺は今から勤労しようとしている。まったく、おかしな人生だ。
「まぁ、なんだ。その、申し訳なかったね」
いずみさんは気まずそうに耳たぶを
「うちの兄貴のせいでさ、あんたにはいろいろと面倒かけたでしょ」
「やめてくださいよ」と俺は言った。彼女は俺の人生に訪れた不幸に何一つ責任を負っていない。「いい年をした大人の決めたことですし、残された人間は、僕に限らず、みんな苦しんだはずです。晴香さんも含め」
柏木はもう二度と実の母に会うことができないのだ。
いずみさんは唸る。
「あんたずいぶんしっかりしてるのねぇ。たいしたもんだ。本当に晴香と同じ高校一年生?」
発育の良い柏木に日々そわそわさせられている身からすれば、「あいつこそ僕と同じ高校一年生ですか」と問い返したいくらいだった。
その柏木の声がこちらにも響き渡る。
「優里、お金を稼ぐってのは大変なことなんだよっ! ほら、愛を込めて!」
「晴香、私にだけ恐いって」
怯えた声の高瀬に同情を禁じ得ない。フロアに行って彼女の味方につきたいけれど、今は難しい。太陽と月島の苦笑いの声も聞こえてくる。
「さてと。仕込みに入るよ、悠介」
いずみさんに従い、俺は、大量のネギと紅生姜を細かく切ることになった。いずみさんは隣のまな板で、やはり山盛りのキャベツを一個一個刻んでいく。
「キャベツの切り方はちょいとコツがあるから」と彼女は言う。
包丁を使っているからまな板に意識を注いでいるつもりではあるけれど、母親の残像がどうしても視界にちらついてしまう。
この家には高校生時代の柏木恭一
とりとめもなくそんなことをぼんやり考えていると、ふいに「馴れそめ」という言葉が意識の一部に引っ掛かった。
もしかすると俺はそれを知っておいた方がいいんじゃないだろうか? そんな声が天啓のように自分の体に降りてくる感覚があった。しかし根拠はない。知ったところでどうなる、という反対意見も脳裏をかすめる。ネギの
「どこに行ったんだかねぇ、あの二人。あんたにもまったく心当たりないんでしょ?」
いずみさんのその質問で、何かが吹っ切れた。迷うなら前に進もう。多少の痛みは覚悟の上だ。
柏木恭一と俺の母・有希子の逃避行には、依然謎が残る。話を聞くことで何かの取っ掛かりにはなるかもしれない。
俺は一旦手を止め、「いずみさん」と呼びかけた。