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第19話 世界はとてもカラフルだ 1


 その幸福の電話は、なんの前触れもなくかかってきた。


「神沢君。もしよかったら、花火大会に一緒に行きませんか」


 夏休みも残りわずかとなったその日の午前中、俺は自宅のリビングでTシャツにトランクスというどうしようもなくだらしない格好で、やはりだらしなく横になり、テレビで高校野球の準々決勝を観戦していた。


 街には熱中症警報が発令される暑さだ。扇風機は欠かせない。


 突然野球熱が芽生えた、というわけではなくて、他にやることが何一つとしてなかったのだ。夏休みの課題は終えているし、なにしろ炎天下の中だ。掃除をする気も買い物に行く気も起きない。


 テレビをつけると鳴桜高校うちを倒して地区代表になった高校を、二回戦で破った北信越地方の強豪校が出ていたので、きわめて遠いものではあってもこれも何かの縁には違いないと、そのチームを応援して時間をつぶすことにした。


 試合は白熱した展開になった。どちらも譲らぬ点の取り合いで、終盤になっても勝利の女神は態度を決めかねているようだった。


 9回裏に肩入れしていた高校が逆転サヨナラ勝ちのチャンスを迎え、ごくりと息を飲んだところで、スマホが鳴った。


 タイミングの悪さに思わず舌打ちをしたが、画面に表示された名前を見てすぐさま立ち上がり、姿勢を整えた。


 もう少しフォーマルな服装に着替えようかとも思ったが、さすがにそんな時間はない。やむを得ず下着姿のままでその電話に応じた。


「花火大会のチケットが二枚手に入っちゃって」という言い方を高瀬は選んだ。


 入っちゃいましたか、と俺は内心で合いの手を入れた。


 口ごもりながら高瀬は言った。

「晴香と行くと月島さんがなんだか可哀想だし、だからといって、一人で行くのもつまらないでしょ」


「まあ、そうだね」と俺は答えた。表情はゆるみきっている。


「もちろん居酒屋のバイトも含めて、その日神沢君の都合が良ければ、の話なんだけど」


 俺はもうこの時には有頂天だったから、偉そうに「ちょっと待ってよ」なんて言ったりして、ありもしないスケジュール帳をめくるフリなんかをしてみたりして、「えーと、おお、その日はたまたま空いてるよ」などと白々しい台詞を吐いたりした。


 高瀬からお誘いに対し、言わずもがな心の中で回答はすぐに出ていた。


 俺が働いている居酒屋は花火大会の会場から遠く、毎年閑古鳥が鳴くことから、そもそもその日は休みになっていたし、他にどんな重要な用事があろうとも――たとえばノアの方舟はこぶねの乗船券が配布される夜だったとしても――俺はそれをあっさりキャンセルして高瀬と二人で花火を見ることを選んだだろう。


「わかった。行こう」と俺は言った。


 良かった、と電話の向こうから聞こえた後で俺はあることを思いつき、それを口に出してみた。


「もしかしてさ、浴衣ゆかたを着て来たりする?」


「え」高瀬は言葉に詰まった。「神沢君、女の子の浴衣、好きなの?」


「え」と、今度は俺が困った。「嫌いでは、ないよ」


 純和風的な美しさを持つ高瀬の浴衣姿を見ることができる、千載一遇の機会には違いなかった。そして浴衣からのぞく高瀬の生脚を拝みたかったのも違いなかった。


「それじゃあせっかくだから、浴衣で行こうかな」と彼女は少し照れて言った。


 花火大会の開かれる河原のそばで待ち合わせることにして、通話は終わった。


 放心状態でテレビに目をやると、応援していた高校がサヨナラホームランをライトスタンドに放り込んだところだった。俺の脳内も、歓喜で、まさしくそんな感じだった。


「劇的サヨナラホームラン! 俺の勝ちだ!」

 何が勝ちなのかはよくわからないけれど、とにかくそう叫んでいた。


 ひとしきり喜びの感情を爆発させた後で、高瀬は俺に異性として好意を抱いているとみていいのだろうか、とふと考えた。


 あの柏木や月島がそう言うのだから、そしてこのように花火を一緒に見ようと誘いかけてくれるのだから、その可能性は低くはないんだろう。


 両思い――。そんな甘い言葉が頭をよぎる。


 冷蔵庫から冷えた麦茶を出して、グラスに注ぎ、飲む。気付けば「でもな」とつぶやいていた。


 俺と高瀬は、普通の高校一年生の男女とは大きく事情が異なる。


 両思いです。告白しました。付き合うことになりました――。そんなことにまるで意味がないのが俺たち二人なのだ。


 高校卒業までのあいだはそれで楽しいかもしれない。心の隙間も埋まるかもしれない。しかしその先では、まるで夢の時間は終わりだと言わんばかりに、現実が大きな口を開けて俺たちを待ち構えているのだ。


 残り約2年半交際し、卒業と共にさよなら、そして彼女は別の男の妻に――ヘドが出るほどくだらない物語だ。


 高瀬のあの柔らかく白い肌に自分以外の男の手が触れるところを想像すると、俺はみぞおちの辺りに何本もの冷たい針の先を当てられている感覚を覚えた。


 もう一杯麦茶を飲んで、深呼吸をする。雑念を払い、考えをまとめていく。

「今俺がすべきことは?」


 今俺がすべきなのは、好意の確認や、ましてや告白なんかじゃない。


 高瀬の前に立ちはだかるトカイとの政略結婚をぶち壊す手段を練る。やはりそれに尽きる。


 スマホを見て俺は「高瀬」と語りかけた。「高瀬、必ず俺が君の望む未来へ導いてやるから。今はどんなに劣勢でも、9回裏には逆転ホームランをぶっ放して、最後は笑って、俺たちの勝利で卒業できるから」


 まさか通話中じゃないよな、とヒヤリとした後で、それにしたって花火大会は楽しみに違いないぞ、と心は再度沸き立ち、小躍りして鏡の前へ向かった。


 高瀬の浴衣姿を見た際にどんな表情を作り、どんな言葉を掛けようか時間をかけて試行錯誤し「馬鹿馬鹿しいや」と思い至った。つい最近、海に行くことが決まり、同じ事をして無駄になったばかりだった。


 そして今回も、結論から言えば、この行動は時間の無駄にしかならなかった。



 ♯ ♯ ♯



「は!? 柏木おまえ、今、なんつった?」

 自慢の二重まぶたがわからなくなるほど、太陽が大きく目を剥いた。


「だーかーら」

 柏木は、腕を組んで繰り返す。

「花火大会の日、みんなには働いてもらうから」


 花火大会の誘いを高瀬から受けた二日後、俺たちは柏木の呼びかけで高校の秘密基地に来ていた。夏休みも終わりが近いので、心なしか校舎内は、新学期の準備でそわそわしている。


「働くって、どこで」

 月島が無表情で質問した。俺たちの背後の棚には、新しく野外フェスのトロフィーが陳列されている。


「うちのお店『鉄板焼かしわ』でだよ」柏木は当然のことのように言う。「うちのお店、花火大会の会場のすぐそばにあるから、毎年その日はとんでもなく混むの。『お好み焼きで一杯やってから』ってお客さんが多くてね。とてもじゃないけどあたしと叔母さんだけじゃ、手が足りないわけ。でもほら、ここには、八本も手があるじゃないですか」


 それを聞いて、太陽は呆れ顔で口を開いた。

「オレたちはあくまでも『互いの未来のために手を貸し合う』集まりだ。そんな近所の互助会みたいなもんには付き合えねーよ」


 友が起こしてくれた波に、今すぐ俺も乗るべきだと判断した。

「そうだぞ、柏木。だいたい常識的に考えてみろ。花火大会は一週間後だぞ。俺たちはそれなりに忙しい高校生だ。おまえ以外の四人が四人とも、一週間後の予定が空いているなんて限らないだろう」

 心で強く、限らないだろう、と繰り返した。見れば高瀬の口もそう動いたのが、少し可笑しい。


「なによ悠介。いつになく威勢が良いじゃない?」


 ぎくりとするも、なんとか平静を装う。


「悠介の言う通りだ」

 太陽は俺と高瀬の約束を知らないけれど、賛同する。

「オレは無理だぞ。その日は花川先輩と花火デートだから」


 高瀬がはっとする。

「花川先輩って、2年生一の美人って評判の生徒会副会長さんだよね?」


「そうそう。高嶺の花の花川さん、な」


「胸も大きいしねぇ」

 柏木が皮肉交じりに余計な一言を挟み、太陽が顔を赤らめて「うるせーよ」と返した。


 高瀬は案の定、海辺でたき火を囲んだ際の自らの暴走を覚えていないから、「あれ、晴香も葉山君の秘密を知っていたっけ?」と言いたげな澄ました顔をしている。


 月島がそれを見て、ぷっと吹き出す。


「太陽、恋愛を解禁したのか?」


 俺が聞くと彼は手を振った。

「こないだの野外フェスに出演できるようになったのは、花川先輩があちこちに奔走してくれたおかげなんだ。今回のデートが実はその条件だったんだよ。『私がなんとかしてあげるから、その代わり、花火大会の日は空けておきなさい』って。花川先輩には恩がある。だから、オレは無理だぞ」


 すごい男だ、と俺は素直に感心した。この件は頭の中の「葉山レジェンドノート」に書き留めておくことにしよう。


 柏木は偉そうに腕を組んだ。

「じゃあ葉山君はトクベツに二時間だけ抜けるのを許してあげる」


「は? おまえ何様なんだよ。今の話聞いてなかったのかよ。オレは無理だって言ってんだろ」


「花川先輩への恩があるならあたしへの恩はどうなるのよ」と柏木は恩着せがましく言った。「誰のおかげでフェスで恥をかかないで済んだんだっけ? 誰のおかげでノースホライズンは復活できたんだっけ? さぁ、答えてみなさい」


 そこを突かれると太陽は弱い。歯ぎしりしながら「柏木だ」と答えた。

「聞こえませんねぇ?」

「柏木様です!」


「わかればよろしい」女帝はうなずく。「それじゃ、みんな、よろしくね」


 慌てて「俺は行けないぞ」と断固主張した。するとすぐさま「私もちょっと無理かな」と高瀬が続いたことで、なんとなく不穏な空気が室内に充満してしまう。


「んー?」

 柏木は家の中は見せられないと目を泳がせる成金に税務官が向けるような眼差しで俺たちを見る。

「なにかあるの?」


「バイトだよ。居酒屋」俺はもっともらしい嘘をつく。


「私は――」

 高瀬は咄嗟とっさの出任せが得意なわけがなかった。

「私は、あのね、花火会場に近い『タカセヤ』でその日、イベントを、計画してて、でも人が足りないから、手伝わなきゃいけなくて。だから、私も難しいかな」


 しどろもどろ、とはまさしくこういうのを言うのだろうな、という口ぶりだった。柏木がそんな隙を見逃すわけがない。


「どうにかすること。いいね!」

 柏木のこめかみはやや吊り上がった。

「来週の日曜、午後三時には五人ともうちのお店に集合。以上!」


 ぱんっ、と彼女は一つ手を叩いた。まるで俺と高瀬の夢を覚ますみたいに。


 このようにして、高瀬の水着姿と浴衣姿を見る機会は来年以降の夏まで、おあずけとなってしまったのだった。 


 俺と柏木の関係についてここで述べれば、二人の間にある〈隠された関係性〉が明かされたとはいえ、俺たちは特別なにかをするということをしなかった。


 現在高校一年生である俺たちは、それがわかったところで、どうすることも出来ないからだ。


 柏木の言うような「共に親を見返す、二人で幸せを築く物語」を俺が仮に選んだとしたって、まずは高校を卒業しないことには話にならない。


 つまり毎日をこれまでと同じように生きていくしかないのだ。それは柏木も共通認識のようで、星空の下の告白などなかったかのように俺に接していた。


 そして長かった夏休みの最終日にして、花火大会の日がやってきた。

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