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第18話 同じ星の下に生まれたふたりは同じ痛みを共有している 3


 別荘の敷地を出て石段を降りていく。電灯はないが、邸宅と月の明かりで、なんとか波打ち際までなら見通すことができる。たき火の跡が、なんとも侘びしい。


「久しぶりだよね、こうやってふたりきりになるの」と柏木は浜辺に着くと言った。「悠介の家にゴハン作りに行った時だって、月島来ちゃうし。もうこの夏は本当についてない」


 そこで柏木は「夏風邪!」と声を張り上げた。夏、で思い出したらしい。

「あれ、ひどくない? あの歌詞の曲をさ、あたしに歌わせるつもりだったんだから。いくら国語が苦手でもね、なんとなく意味はわかるっての。心の広い晴香ちゃんだから笑って許せるけど、普通だったら絶交モノでしょ。優里もなかなかあなどれないね。さてはあたしに対する宣戦布告、ってことなのかしらん?」


 たしかにそう言われてみると、あの件の高瀬には、ラブホテル街に自身の医院を開業する性病科の医師にも負けない意地の悪さや黒さがあるように思えなくもない。


「それはそうと」と柏木は隣で言った。「なぁんで今までずっと黙ってたの。占いの話」


 俺はなんとなく目についた流木を手にとって海に向かって投げた。波がそれを回収する。「仕方ないだろ。言ったら、おまえ、その気になるし」


「いいじゃん、その気にさせれば!」

 柏木はキャミソールの肩紐かたひもがずり落ちそうな勢いでそう言って、実際落ちて、少し恥ずかしそうに紐を元の位置に戻した。

「ていうか、悠介って、占いなんか信じるんだ?」


「俺もはじめは笑い飛ばしたさ。何が運命だって。何が“未来の君”だって。でも占い師の言葉は今のところ気持ち悪いくらい全部的中しているんだ。これはもう、いくら俺だって信じるしかない」


「そして、悠介はその“未来の君”ってのは、優里のことだと思ってる」

 柏木も俺にならって木の枝を放り投げた。とてもきれいなフォームで、俺よりも飛距離に恵まれる。


「思ってるよ」

 確信している、とまでは言えなかった。なんだか悔しかったので、もう一度投げようと木を拾い上げたところで、柏木にそれを奪われてしまった。


「ザンネン」と甘くささやいて、彼女はその木の先っぽで俺の胸を軽くつついた。「悠介の“未来の君”は優里でも月島でも他の誰かでもない。このあたしです」


「おまえならそう言うと思ったよ」すぐその気になると思ったよ。


「コンキョはあるの?」と柏木が尋ねてきた。「優里が“未来の君”だっていう、根拠」


「根拠……」俺はつい言葉に詰まってしまう。


 春の夜に占われた「もうすでに出会っている」「未来に困難を抱えた」という点は、三人に共通するところだ。決して高瀬だけに当てはまる条件というわけではない。


「あたしにはあるんだな。根拠が」

 柏木は今までで一番大きく振りかぶって木を放った。美しい弧を描いて、それは海面に着水する。

「ちょうどいい。優里もなんか最近変わってきたし、月島も本気みたいだし、そろそろ切り札を出しますか。ついにが来たみたい」


 柏木はふんふんと鼻歌交じりに周囲を散策し、適当な木を拾い上げた。まだ自分の投てきに納得いかないのかと思ったが、今度は投げるわけではなかった。彼女はそれで砂浜に字を書いていった。やがて現れた3文字の漢字を見て俺は思わず目を剥いた。〈有希子〉とそこにはあった。


神沢かんざわ有希子ゆきこ。悠介のお母さんの名前でしょ?」


 それはまぎれもなく、俺を捨てた女の名前だった。

「おまえに母親の名前を教えたことないよな? どうして知ってる?」


 柏木はそれには答えず、〈有希子〉の横から上にかけて、線を引き始めた。傘だ。相合い傘のかたちになっていく。そして出来た空白に〈恭一〉と書き込んだ。恭一?


「あたしの父親」と柏木は言った。「悠介のお母さんが家を出た理由――それは、あたしの父親の柏木恭一かしわぎきょういち。二人は昔、付き合っていたんだよ」


 嘘だろ、と喉元まで出かかったが、いくら柏木だって、いや、柏木だからこそ、こんな嘘をつくわけがない。


 本当のことだよ、と彼女は俺の心を読んだかのように前置きして、話し始めた。

「あたしの父親と悠介のお母さん――恭一と有希子さんはね、あたしたちと同じ鳴桜に通う高校生で、二人は交際していた。そして将来を約束するほど愛し合っていた。でもそんな二人だけど、何かがあって別れちゃった。それぞれ別の人生を歩むことになって、それぞれ別のパートナーとめぐりあい、結婚して、子どもができた。それが、あたしと悠介」


 口の中がえらく渇いている。足下に砂はあっても、ここは砂漠ではないはずだ。でも喉はからからで、唾すら飲み込めない。言葉が、出てこない。


 柏木は続けた。

「時間は過ぎて、あたしたちが小学6年生の秋、恭一と有希子さんは再会した。あの街のどこかで。まためぐり逢った二人は、全てをなげうってどこかへ旅出った。残された配偶者はそれぞれ、悲惨な末路をたどる。悠介のお父さんは放火事件を起こして、私のお母さんは命を絶った」


 ふいにめまいに襲われ、危うく倒れそうになる。柏木が隣から体を支えてくれる。


 短い沈黙の後で、彼女は口を開いた。


「話を整理するね。あたしは父親と一緒にどこかへ駆け落ちした人が有希子さんという人だと知っていた。有希子さんのことは叔母さんが教えてくれた。有希子さんには一人子どもがいて、それが男の子でどうやらあたしと同じ歳らしいってことも。写真も見せてくれた。父親と一緒に映った高校時代のツーショット。きれいな人だった。


 そしてあたしも高校に入った。びっくりしちゃった。同じクラスの後ろの席の男子生徒が、写真の中の有希子さんとそっくりだったんだもん。それであたしはその男子生徒に運命を感じた。あたしから積極的に話しかけるようになった。家にも行った。そしてお母さんの写真を見せてもらった。あたしは確信した。その男子生徒が有希子さんの一人息子だって。それが――」彼女は俺の肩に手を置いた。「――悠介なの」


 柏木のこれまでの言動で謎だった部分が解消されたわけだけど、それでもちろん気分が良くなるというものでもなかった。俺は気付けば「悪い」と口にしていた。「俺の母親が迷惑かけたみたいで」


「何言ってんの」と彼女は言った。「お互い様でしょ」


 言われてみれば、たしかにその通りだった。


「悠介。これまでにいっぱいつらい思いをしてきたんでしょ?」


「それなりに、な」

 俺は母親がいなくなってからの日々を思い出す。自分の置かれた環境をどれだけ呪い、自分の存在価値を何度疑問に思ったことだろう。


 叫び出しそうな日もあれば、眠れない日だってたくさんあった。俺をこの世界につなぎ止めていたのは、いつだってか細く弱々しい糸だった。


「あたしもさ、こう見えても苦労したんだ。それなりに、ね」


 具体例なんか聞かなくたって、涙にくれる幼き日の柏木が俺には容易に想像できた。そして彼女も孤独に打ちひしがれた俺が想像できるだろう。俺たちふたりにしかわからない苦悩がある。


 柏木は言った。

「だからこそあたしの望む未来は、世界一幸せな家庭を築くってことになるんだよ。想像してみて、悠介。だって最高じゃない? あたしの父親と有希子さんが幸せと思わなかった家庭で育った子ども同士が一緒になって、あの二人以上の幸せを、世界一の幸せな家庭を手にしているなんて」


 それを聞いて、腹の底からじわじわと熱いものが込み上げてくる。


「そいつは傑作だ。ある意味最高の復讐だ」俺は思わずそう口にしていた。


「そうでしょ」

 柏木は誇らしげな笑みを浮かべた。そして足下にあった相合い傘を踏みつけてめちゃくちゃにした。

「見返してやるんだよ! このままじゃ面白くないじゃない! どんな理由があったってね、だめなものはだめなんだよ。親はね、子を捨てちゃだめなんだよ! なにやってんのよ、あいつら、本当に、もう……!」


 そこで喋るのを打ち切った柏木だったが、この件については、その気になればいつまでだって言葉が溢れ出てくる――声からはそんな響きが聞き取れた。


「ごめん」と彼女がささやく。「かまわないよ」と俺が返す。


 柏木は負の感情を体外へ追い出すように一度息を大きく吐いた。

「とにかくこういう理由であたしは悠介の運命の人――“未来の君”はあたしだって確信してるの。でもあたしが“未来の君”かどうかは別として、悠介、どうか、これだけは忘れないで。同じ星の下に生まれたふたりは同じ痛みを共有している。悠介にはいつだってあたしがいるから」


 柏木、と俺はその名をつぶやくことしかできない。


 胸には様々な思いが浮かんでは消えていく。寄せては引き返す波みたいに。


 彼女はしばらくのあいだ、瞳をかすかに潤ませて俺を見つめていた。そして冗談とも本気ともつかない声色でこう言った。

「よし、捨てられたモン同士、キスでもしてみっか」


 ここは夏の夜の海だ。そして若い男女で二人きりだ。それも運命的に深いつながりがある二人だ。


 それらも併せて考えると、おいおい本気なのか? と思って胸が高鳴った。

 しかし「ひゃっはー」という柏木の声が聞こえたことで、俺の中に芽生えた口づけへの期待は、きれいさっぱり波にさらわれていった。


 彼女はこんなに可笑しいことが世の中にあるか、というくらい声を上げて笑った。


「ふざけんな」と俺は照れ隠しで言った。


「まぁまぁ」柏木が俺の顔を覗き込んできた。「あたしさ、この夏、なにかとがんばったでしょ?」

 それは否定のしようがない。屋上へも行っていない。俺はうなずいた。


「じゃあがんばったご褒美ってことで、悠介。一つだけあたしのお願いを聞いて」


「お願い?」


「海を、一緒に見ていよう」

「海を?」


「そう。それだけでいいから」

 彼女は俺の左隣に腰を下ろした。

「なんにも喋らなくていいから。しばらく悠介とふたりきりで、こうしていたいの」


 実際、俺たちはどんな言葉も口にすることなく、星空の下で肩を寄せ合って、夜の海を眺めていた。水平線の向こうが、明るく染まり始めるまで。


 それは穏やかで、とても優しい時間だった。

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