人の海というのはちょっと大袈裟だけど、少なくとも人の大河と評せるくらいには、地平線のそばまで観客で埋め尽くされていた。それが3500人という数の力だ。照明がえらく眩しい。
エレキギターとアンプをつなぐ。その手つきのたどたどしさと言ったらない。他のメンバーも、それぞれの持ち場について準備を進める。
前方中央にボーカルの柏木、少し引いた位置の右方に俺、左方にベースの月島、そして最後列に、右からキーボードの高瀬とドラムスの太陽が並ぶ。
柏木の「やっほー」の声で
「どうもー、みなさーん! 未来同盟です!」
静かでまばらな拍手が起きた。最後に登場してきた謎の高校生バンドの実力を推し量っている。そんな感じがある。
「この日のために、一生懸命練習してきました。聴いてください。『Pleasure of life』です!」
太陽がスティック同士を当てつつ、「ワン、トゥー、スリー、フォ」とリズムを作り、イントロが始まる。
まずはギターとベースだ。
俺は、
太陽のドラムが勇ましく加わり、高瀬のキーボードが全体の調和を担う。月島のベースも安定感を見せている。ここまで一つもミスはない。いける。柏木が歌い出す。
『Pleasure of life』は迷いながらも前を向いて進み続ける道程での、葛藤や喜びを表現した、熱のこもったロックナンバーだ。
初めて聴いた時はボーカルがちりちりパーマの声だったということもあって、これは男の曲だなと感じたものだが、柏木が歌ってみると――これが不思議なことに――主人公は高校生くらいの女の子でもおかしくないように思えた。
というよりも柏木は、この歌を完全に自分のものにしていた。
明瞭で通った声は曲の雰囲気にぴったりだったし、歌詞の中にある青さや脆さ、強さや無鉄砲さといった要素は、まさしく彼女の中に眠る輝きだ。
歌唱力に関しては特別優れているとは言い難いものの、聴く者の耳に残る歌い方を彼女はどういうわけか会得していた。
だから観客が徐々に曲に乗り始める。曲調に合わせて手を上げ下げし、体を揺らし、リズムに身を委ねる。
柏木が観客の視線を一手に引き受けてくれているおかげで、俺は自分の演奏に集中することができる。数分前では考えられなかったことだが、今は、爽快ですらある。
「演者が楽しんでいないステージなんて、お客さんもしらけちまう」
太陽は夏のはじめにそう言っていた。その言葉の奥に潜んでいたものが、今ならわかる気がする。
音楽は、楽しんでこそ、音楽だ。
曲は一番のサビに突入する。柏木はマイクスタンドを握りしめ、全ての聴衆に訴えかけるように、力強く歌い上げていく。
照明が熱いのか、額には汗が光る。降ろしている長い髪が舞う。その姿はテレビで見るような一流女性ボーカルと遜色ないほど|
はっきり言えば、これまでのバンドと比較すれば、ギターとベースが劣っているのは明白だった。
しかし柏木のパフォーマンスには、そういったマイナスの側面を覆い隠してしまうエネルギーがあり、サビの最後「Pleasure of life」と二度繰り返す頃には、地鳴りのような歓声が舞台に浴びせられたのだった。
間奏に入り、少し余裕ができた俺は、ちらりと斜め後方の太陽を見やる。
「この調子だ」彼の目はそう返してくる。
俺たちはやれる。このままなんとか走りきる。そう言い聞かせて、再び六弦に全意識を集中させる。
ただこの時、一つの問題が舞台上で静かに起こり始めていたことに、俺は気が付かなかった。
♯ ♯ ♯
二番は一番の繰り返しなので、それほど気を揉む必要がない。
この一ヶ月弱、幾度と失敗しては太陽に叱られ、柏木に
曲の半分を折り返す。柏木は調子がついて来たのか、アドリブでジェスチャーを加えるようになった。声の張りが一段増し、後方の俺たちを鼓舞する。
遠くにぼんやり、かすかにではあるが、ゴールテープが見え始める。
違和感を、確かな違和感を、俺の耳が感じ取ったのは、二番のサビに入る直前だった。
一つの音が聴き取りにくくなった。いや、より正確に言えば、
俺は舞台上に視線を散らす。
やはり後方の太陽と高瀬も何事かと、目を動かしている。三人の視線は共通の一人を捉える。月島だ。月島の動きが、完全に止まっていた。
視線を落とし、唇を噛みしめ、力なく佇んでいる。左手で四弦を抑えてはいるものの、右手が動いていない。きっと、動かせないのだ。何があったかは、なぜそうなってしまったかは、わからない。でもとにかく、それではベースの音が出るわけがない。
ドラムの方に目をやれば、太陽が何度も大きくうなずいていた。「よくわからんが、とにかく続行だ」きっと、そういうことだろう。
ベースの音を欠いたまま、曲はサビに入る。どこか物足りない感じは否めない。
もちろん聴衆も、異変に気付き始める。耳からだけではない。目にも、石像のように立ち尽くす
サビの最も重要なところで、柏木のボーカルが、やや上ずった。戸惑いが声に現れてしまったようだ。
焦りは伝染する。
俺もなんでもない簡単な場所を間違ってしまう。元より豊富な経験があるわけじゃない。一つの音が消えたとなると、こちらも調子が狂ってくる。そして、修正が利かなくなってくる。
再び、間違いを犯す。この一週間は一度もやらなかった、つまらない初歩的なミスだ。これで完全に頭が真っ白になった。そしてまた、手の震えが舞い戻ってくる。
残酷だが当然、曲はそれでも続く。
まともに機能している楽器は、キーボードとドラムだけだ。
最後のサビへ向けてギターとベースで盛り上げにかかる場面であるのだが、それが二つとも働いていないわけで、結果、ロックとは言い難い鋭さを失った単調なメロディを3500人へ垂れ流してしまうことになる。
ちりちりパーマの「お客さんは神様だ」が思い出され、余計にうまく弾けなくなる。後方を振り返ることができない。柏木を見ることもできない。
ただ、確実に観客の熱気が冷めていくことだけは、肌で感じ取ることができる。
この大河のどこかでこの演奏を見守っているであろう、芸能事務所の社員さんに心で訴える。
どうか、太陽の技量だけは真っ当に評価してあげてくれないか、と。