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第14話 今靴を履くからそこで待っていて 4


「『私を大学に行かせるっていうあの約束、なかったことにしていいからね』これが一週間前に出て、今に至る。春から少しずつ少しずつ積み上げてきたものが、一気に崩壊した気分だ」


 語っていて、さいの河原にて積み石を鬼に崩されて泣く子の姿に自分を重ねていた。


 俺の話が終わると柏木と月島はどちらも皿に盛られたいちごに手を伸ばし、口に運んだ。


 そう言えば高瀬は苺が好きだと言っていたな、と思い出して切なくなる。女の人は本当に苺が好きだ。家を出て行った母親もそうだった。よりいっそう切なくなる。


「素敵ねぇ」柏木が瞳をきらめかせて、

「俺は君を大学に行かせる」月島が低い声で茶化す。


「ヒカリゴケの幻想的な光に包まれる中」柏木が両手を握り合わせて、

「本気になって、俺と一緒に大学を目指そう」やはり月島がぼそぼそとつぶやく。


 柏木が懲りずに「映画のワンシーンみたいに」と続けたので、

「もういいよ」と俺が食い止めた。放っておくと、いつまでもやりかねない。


「でも、どうすんの?」と柏木は真面目な声で言った。「結婚をやめさせるなんて約束しちゃって。タカセヤとトカイって、この街じゃ結構強い会社よ?」


 そんな、百も承知の懸念を持ち出されても、今の俺では「なんとかする」と虚勢を張ることしかできない。

「もう、なんとかする。曲も完成させるし、高瀬の政略結婚も壊してみせる。全部、なんとかする!」


「ずいぶんと前向きなようで」月島は、子どもの無鉄砲さをからかうようだ。


 少し間があって、何かを考えていた様子の柏木が口を開いた。

「あのさ、悠介。洞窟の中でその話をする時に、優里の手とか握ったりしたんじゃない?」


 それは言うのが恥ずかしくて、黙っていた情報だった。ここまでオープンにしておいて今更隠すこともない、と思い直す。「握った」


 それを聞いて、ようやく自白を取り付けた刑事のように「ふぅ」と月島が息を吐き出せば、柏木もどこか「アホくさ」とでも言いたげな顔で首を回した。


「なんだよ」


「キミってさ」と月島は言った。「バカなの?」

「は?」


「簡単な話じゃん」と柏木は言った。「なんとなく『そうかな』とは思っていたけど、答えはカンタンよ」


 柏木と月島はそこで顔を見合わせた。二人の言いたいことは共通しているようだ。無言の譲り合いを経て、柏木が口を開いた。

「優里も、悠介のことが好きになってる」


「まさか」と俺は反射的に声を出していた。「まさか高瀬が俺のことを……」


 月島は呆れたように肩をすくめた。

「考えてもみなよ、神沢。不本意な政略結婚。時間の経過と共に増す後悔。日々近づいてくる“3年後”。あきらめきれない大学進学の夢。そこに現れたのが、同じ夢を持つキミだ。高瀬さんの中でくすぶっていたいろんな思いを、全部受け止めたわけだ。優しく手を取って。高瀬さんにとって神沢は、さながら白馬の王子様ってところなんじゃない?」


 柏木はうなずいて同意を示した。「これで全部納得だよ。そりゃあ優里はあたしによそよそしくなるわけだ。だって恋のライバルなんだから」


「勉強はできるのにねぇ」と月島は俺の頭を見て言う。「こういうことになると、この男は途端に脳みそが働かなくなる」


 これには、ぐうの音も出ない。


 気づけばいつしか、この二人の間にあった遺恨やわだかまりはある程度解消しているように思う。今はむしろ妙な連帯感で結びついている。女はわからん、と心でつぶやく。


 柏木は言った。「優里は初めてなんじゃない? 人のことを好きになったのが。だから自分の気持ちの扱い方がわからないのよ。それで、つい、言っちゃった」


「あの約束、なかったことにしていいからね」

 一言一句覚えている俺がそらんずる。目の前の二人は深くうなずく。


「私のあの台詞も、地味に効いたんだろうねぇ」月島はくつくつ笑う。


「神沢はこの街にいる限り、誰とどんな大学に行こうと、本当の幸せを手に入れることはできない」

 やはり覚えている俺が言って、月島はあごを引いた。


 俺は苺を一つ食べた。なんだか妙に甘酸っぱかった。


 恋愛相談、というから打ち明けたので、肝心の相談をすることにした。

「だとすれば、俺はどうすればいい? 俺は高瀬が好きだ。高瀬も俺を好きだと仮定する。でも二人の心の距離は、出会ってから一番遠くなってしまった。二人にこれを聞くのは、本当に悪いとは思うけど」


 月島が先陣を切った。「いっそ、告っちゃえば」

 奥行きのあるその瞳に、よこしまな色が浮かんでいる。これは、罠だ。「却下」と俺は言う。


 柏木も「押し倒しちゃえばいいんだよ」などとふざけて真剣に答えてくれないので、やはり自分でどうにかするしかないなと諦めかけていると、真面目な顔つきに戻った月島が口を開いた。


「神沢。こういうのって、時間にゆだねるしかないよ」

「時間、か」


「あー、そんな感じだねぇ」と柏木は言った。「ま、なるようにしかならないんだから、あんまり難しく考えないで、今はとにかく風邪を治すことに専念しなさい。夏風邪は長引くと厄介だから」


 ――なるようにしかならない。


 やや大袈裟な言い方をすれば、自分の運命と対峙たいじしている現在の俺は、さて、その言葉を肯定的にとらえるべきか、否定的にとらえるべきか。



 ♯ ♯ ♯



 俺は風邪薬を飲んで、ベッドで体を休めている。脇から体温計を取り出す。熱は食事をする前より、わずかに上がっていた。


 柏木と月島は、仕事を終えて迎えに来た柏木の叔母さんの車で帰っていった。帰り際、月島が「お泊まりセット、無駄になっちゃった」と言ったことで第四ラウンドの火ぶたが切られ、俺はと言えば、鼻血が噴き出るのではないかと思うほど、ぎょっとさせられた。おそらく熱が上がったのは、そのせいだ。


「高瀬が、俺のことを好きになっている」

 口に出すと、実はこの部屋に聴衆がいて、「馬鹿じゃないかおまえ」と罵られるんじゃないかという被害妄想に襲われる。


 何度イメージしてみても、それは俺の中で、いつまでもかたちを留めてくれない。骨のないたこみたいに。


 高瀬の気持ちが俺に向いているというのなら、もはや体調など省みず跳ね上がって喜ぶところであるけれど、そういう気にならないのは、やはり彼女の晴れ渡った顔をもう一ヶ月近く拝んでいないからだろう。


「時間に委ねる、と言っても」

 つぶやいて、俺は月光の明かりを頼りに、壁のカレンダーを見る。


 思えば7月はじめの月島襲来がすべての発端だった。


 期末テストがあり、バンドの練習が始まり、柏木が「世界一幸せな家族計画」を公表した。夏休みに入り、「共同で曲を作る」という大義名分を伴ってようやく高瀬と会話ができるようになったのが、今日のことだ。気付けば7月も最後の週である。


 3年後。


 事あるごとに俺は3年後と言っているが、実際のところ、そんなに時間の猶予があるわけではない。


 恐いだけなのだ。一日一日その時がひたひたと近付いてくる、その事実が。


 2年と8ヶ月後、このままいけば、高瀬はトカイの次期社長と結婚することになる。


 それはすなわち、俺と彼女が大学のキャンパスを一緒に歩く未来は、どこか別の次元へ吹き飛んでしまったということだ。


 果たして、時間に委ねている場合なんだろうか。それとも俺がせっかちなだけなのだろうか。


 たしかな焦りが、ぞくぞくっと全身を余計に熱くさせる。


 無意識のうちに、右手の拳で、枕を殴りつけていた。殴れるものならば何でも良かったみたいだ。手元にあったのがレンガではなくて助かった。


 だめだ、もう今夜は寝てしまおう。そう思って枕に頭をうずめたその時、スマホが鳴った。


 俺は身を起こし、スマホを見た。高瀬からメッセージが届いていた。


 件名には「詞ができました」とだけあった。


 画面をスクロールさせる。


 高瀬がこの世に生み出した歌詞を、目で追いかける。




 君の温もり 風が運んで

 私の中に 居場所をつくる

 緑の季節に 交わした言葉

 時間を止めて もう消えないで


 いつかどこかで失くしてきた自分

 君の中でだけ 生き続ければいい


 あの日手を伸ばした光 もう掴めないのかな

 心のまま歩けたなら どんなに素敵だろう

 扉を開いて 君は私に 手招きするの

 今靴を履くから そこで待っていて


「待っている」と俺はささやく。歌詞はまだ続いている。


 夢の中でも 星に願った

 君の光が 消えないことを

 雪が溶けて 春が来るように

 涙の後は 笑顔でありたい


 たとえかげろうのような命だとしても

 彩りのある世界を 見せてくれたから


 あの日手を伸ばした光 もう届かないのかな

 真白なまま歩けたなら どんなに幸せだろう

 暗い森で 私は迷って 君を探すの

 靴を履いただけじゃ どこにも進めない


 時間はとても意地悪で いつも私を苦しめるけど

 今なら顔を上げられる そんな気がしてるんだ

 夢見人だって 誰かが笑っても

 私を支えているのは 


 そこで歌詞は終わっていた。


 画面を下にスクロールすると、「最後の一文がどうしても決まらなかったので、もう少し考えさせてください」とあった。


 扇風機をつけて、熱暴走しそうな頭をクールダウンさせる。


 ほどなくして、一つの考えが浮かび上がってくる。


 もし、もし、この詞にモチーフとなった主人公がいるとするならば、そしてそれが若い女の子だとするならば、その少女は、高瀬をおいて外に誰が思い浮かぶというのだ?

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