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第14話 今靴を履くからそこで待っていて 2


「38.7℃」と体温計には表示された。


 ここまでしっかりした風邪をひいたのは久しぶりのことだった。俺は自室のベッドの上で「みんなに移してないといいんだけど」と独り言を言った。


 高瀬とのきわめて事務的な話し合いの結果、決まったのはおおむね以下の3点だった。


 1、一曲目に演奏することになる『Pleasure of life』は作詞作曲者である葉山太陽という男の生き方を象徴するかのような、情熱的かつ扇動的でアップテンポなナンバーなので、メリハリをつける意味でも、俺たちは落ち着いたバラードを目指す。


 2、まずは高瀬が詩を作る。作曲経験のない俺が少しでもそこから着想を得られれば、という狙いだ。とにかく時間がないので、早ければ今夜中にでも、完成した歌詞を高瀬がスマホから俺に送る。


 3、一週間という納期は不服もあるが、なんとかして守ろう。今回は太陽のピンチに違いない。つまりフェスではきっかり二曲演奏しようじゃないか。彼の未来のためにも。


 補習を終えた太陽と柏木、それに加え月島が合流した頃には、俺の体調の悪さは「なんのこれしき」と虚勢を張ってごまかしきれなくなっていた。


 結果、俺だけは早退するよう他の4人に勧められた。俺はそれを甘んじて受け、帰宅し、少し眠り、今に至る。月が出ている、真夏の夜だ。


 腹が減ってきた。何か用意して食べるべきだ。そして薬を飲むのだ。今日は居酒屋の仕事が休みで助かった。こういう不測の事態があるから、週に四日という勤務形態にして正解だった。


 俺はベッドから起き上がり、部屋を出て、階段を降りる。熱があるから、できるなら火を使った面倒な料理はしたくない。栄養的には不十分でも、今日一日くらいなら「レンジでチン」でも許されるだろう。


 俺はわりあい用意周到な人間なので、冷凍庫にはその期待に応える食品がきちんとストックしてある。仕方がない。いたわりという調味料の効いたおかゆや煮込みうどんを作ってくれる母親など、俺には存在しないのだ。


 炒飯とボンゴレビアンコ、どっちにしようかな。どっちも胃に来るぞ、風邪の時に食べる料理じゃない、と思って階段を降りきったその時、家の呼び鈴が鳴った。


 玄関のドアスコープから外を覗くと、よく知った顔があった。風邪をひいて心細かったというのもあって俺はほっとして鍵を開けた。


「よっ、来てやったぞ」開口一番、恩着せがましく柏木が言った。「ゴハン食べた?」


「いや、これから作ろうと思っていたところだけど」咳をこらえる。


 見れば、彼女は大きく膨らんだ紙袋を胸の前で抱えている。

焼くから・・・・


「は?」声が裏返る。


「お好み焼き! 今から焼くから。うちのお店から持ってきたんだよ、これ」


 袋の中を覗き込むと、そこにはお好み焼きのタネらしきものが入った容器やソース、金属へらなんかがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。


「一人だと風邪の時大変じゃん? だからあたしがなんとかしてあげようと思って来たの。さ、入れなさい入れなさい」


 俺の返答を待たず、柏木は花柄のサンダルを脱ぎ、家に上がり込む。考えてみれば彼女の私服を見るのはこれが初めてだ。


 シンプルな白のTシャツにデニムのショートパンツという出で立ちは、当然ながら肌の露出面が多くて、視線のやり場に混乱を生じさせる。そしてその格好は、議論の余地がなく彼女に似合っていた。改めて骨格と肉付きの良さに感心する。


 素脚が美しい。制服のスカートから覗かせる脚とはまた違うおもむきが、そこにはある。


 もう何も面倒なことは考えず、後ろからぎゅっと抱き付いてしまいたい衝動に駆られる。でももちろんそんなことはしない。すべてが終わってしまうから。


「ねぇ悠介、ホットプレート出して」

 柏木はダイニングテーブルに紙袋を降ろして言う。


「そんなものうちにはない」と事実を告げると、彼女は「はぁ?」と呆れ返った。

「ホットプレートがない家なんてあるの?」


「うちがそうだ。家中ひっくり返しても、出てこないよ」


 俺の中でホットプレートは、幸せな家庭を象徴するアイテムの一つだ。すなわち我が神沢家には無縁なアイテムの一つということでもある。


 柏木は腰に手を当て、髪をかき上げる。くびれが顕著けんちょになる。

「今から買いに行くわけにもいかないし、フライパンでなんとかすっか」


「それにしても」と俺はつぶやいた。「お好み焼き……か」


「なによ」文句でもあるの、というように柏木は下唇を突き出す。


「いや、俺、風邪だからな?」

 もう少し身体にやさしいものを食べたかった、というのが本音だ。冷凍食品よりは断然ましではあるけれど。


 柏木は口の前で人差し指を振ると、得意になってまくし立てた。

「甘いわね。風邪だからこそ、ガツンと食べて体力つけるんでしょうが! うちで一番の看板メニュー、豚モダンスペシャルを用意してきたから。残さず食べるの。わかった?」


 なんとそれには、焼きそばも入っているらしい。胃薬はどこにあったかな、と俺は先回りして部屋を見渡した。


「それじゃちょっと台所借りるよ。期待して待ってて」

 柏木はゴムで後ろ髪を一つに束ね、紙袋からエプロンを取り出して着用する。彼女らしくない、無地できわめて実務的なエプロンだ。きっと店でもそれを身に着けて、仕事にあたっているのだろう。


「店の手伝い、今夜はいいのか?」


「そんなこと気にしない気にしない。ほら、細かいことは考えず、病人は大人しく座って待ってなさい」


 これは俺の推測だけど、柏木はそれなりに無理をしてこの時間を作ったんじゃないだろうか? だとすれば俺は彼女に感謝する必要があるだろう。ま、今日がたまたま定休日だった、というだけかもしれないが。敢えてそこまでは問うまい。それは野暮というものだ。


「助かったよ」と俺が言って彼女が微笑んだところで、信じられない音を耳が拾った。


 またしても家の呼び鈴が鳴ったのだ。


 俺が立ちすくんでいると、出ないの? という顔つきで柏木がこちらを見るので、仕方なく応対することにした。新聞は取らないし、幸運を呼び込む壺も買わない。それだけははっきりしている。毅然きぜんと断ればいい。


 リビングを出て、再び玄関に向かう。柏木も興味があるのか、距離を保って背後からついてくる。俺は再びドアスコープから外を覗く。そこには、この状況下ではあってはならない顔があった。


 命の恩人を粗末に扱うこともできず、俺はドアを開けた。


「ハロー。元気?」と買い物袋を提げた月島は言った。「あ、風邪だっけか、あはは」



 ♯ ♯ ♯



「お好み焼きはないでしょ、お好み焼きは」という月島の先制攻撃で、第一ラウンドは幕を開けた。


「悠介は『助かった』って言ったもん」と柏木が主張すれば、「風邪の時くらい消化に良いものが恋しいよね」と月島が俺の胸中を見抜いたように言ったから、さぁ大変だ。


「もういい、帰る」とふて腐れる柏木をなだめ、「あっそ、帰れば」と冷たく言い放つ月島をたしなめた。疲れた。おそらくこの時点で俺の体温は39度を超えただろう。


 柏木に対する当てつけのように「食べやすくて体力のつくもの作るから」と宣言した月島と、俺が「食べてみたいな、豚モダンスペシャル」と言ったものだから、帰宅を取りやめやる気が復活した柏木の第二ラウンドが始まった。主戦場はキッチンだ。


 まな板やコンロ、洗い場をどちらがどのように使うか、主導権を巡って、激しいつばぜり合いが繰り広げられた。


 言うなれば常に柏木は溶岩のように熱く、月島は氷塊のように冷めている。高瀬と柏木は正反対の二人だな、と事あるごとに思っていたが、柏木と月島もまた別の面において、性質がまるで逆である。


 いずれにしても、今この家の台所で競って料理をしている二人の背中には、決して小さくない荷物がでんと存在しており、それによって彼女たちは苦しみ、その解決を――何かの巡り合わせの妙で――俺に求めている。俺は今一度、そのことをきちんと認識するべきなんだろう。高熱はあっても、まだそのくらいの判断はつく。それだけは、さいわいだ。


 そういう背景もあって、頼むからやめてくれという消化器の訴えを無視して、俺は「全部食べる」と宣言してしまった。


 結果、ダイニングテーブルには大量の料理が皿に載って、競うように湯気を立てている。テーブルを挟んだ向こう側には柏木と月島が並んで座り、対岸の俺を緊張の面持ちで見つめている。


 おそらくこの二人は、俺が病人であることをとうに忘れている。第三ラウンド、ということなのだろう。どちらの料理が美味しいか、それを「悠介」もしくは「神沢」、あんたが判定しなさい。きっと、そういうことなのだろう。

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