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第13話 色彩を欠いた風景、君が誇る風景 5


 明くる日、昨日までとは打って変わって、街には寒気が入り込んでいた。


 7月と言えどもこの街では、昼間でも20度を下回る日が決して珍しくない。今日のように前日との温度差が10度以上という日もあるので、体調管理には気を払う必要がある。


 空には一面に灰色の雲が敷き詰められ、青空がのぞくことを許さないでいる。


 晴れ間を見たからといって俺の心にも陽光が差し込むというわけではないけれど、無慈悲な曇天のせいで、どんよりとした気分に拍車がかかっているのは間違いなかった。


 放課後、俺は一人で秘密基地に向かった。できることなら下校してしまいたかったが、太陽の未来が懸かっている。そういうわけにもいかない。


 扉を開け、室内の状況を把握した途端、俺の心臓は早鐘はやがねを打ち始めた。


 高瀬がひとりで窓際に佇んでいたのだ。


 キーボードを挟んで目が合い、背筋が伸びる。まともに正面から彼女の顔を見るのはいつ以来だろう? しかし今はその均整の取れた美しさに浸っている場合じゃない。


 何か喋らなくては、という思いが口を勝手に動かした。

「高瀬、久しぶり」


 ついさっきまでH組の教室で同じ空気を吸っていたのに、久しぶりはないだろう。皮膚の内側からそんな声が聞こえる。


 彼女は無言で作り笑いを浮かべると、すぐに意識を楽譜へ転じた。


 話さなければいけないことはたくさんあるのに、これでは……。つい、内心で嘆く。


 仕方がないので俺はエレキギターとテキストを手に取り、高瀬とは不自然なくらい距離をとって練習を始めた。もちろん顔が合わないよう、彼女には背を向けて。


 音色、とは言いがたい不細工な音が鳴る。


 振り返って「だから俺は楽器は苦手だと言ったんだ、太陽の奴」と小言でも言えたなら、どんなにいいだろう?


 今までの高瀬ならきっと「最初はみんなそうだよ、頑張ろう」とか「神沢君ならできるよ」って励ましてくれて、それで本当に俺はやる気が回復してしまうのだ。


 でもそんなことにはならないだろうから、俺は黙々とギターのコードを身体に馴染ませることにした。


 高瀬の姿を見ることはできなくても、彼女の奏でる音を聴くことはできる。


 もうすでに彼女は、自分のパートの仕上げにかかっているようだ。


 曲の冒頭から弾き始め、納得いかない場所があれば立ち止まり、いろんな風に弾いてみる。俺のような音楽の才が無い人間にはよくわからない、ちょっとした違いだ。そして満足のいく弾き方を見つけたら、楽譜にメモを書き込んで(何かを書き記す音がする)、また演奏を再開する。


 その一連のルーティンがとても手慣れていて、俺は振り返って「さすがだな高瀬、プロみたいだ」とでも言いたいところだが……いや、もうやめておこう。


 そこで途切れることなく続いていたキーボードの音がぱたりと止んで、後には俺のみっともない音だけが残された。


 どうしたんだろう、と俺は思った。ほどなくして、上履きで床を踏む音が聞こえてきた。そしてそれはこちらに近づいてきた。


「神沢君」と高瀬の声がした。俺は手を止めて振り返った。「お話があるの。ちょっといいかな」


 俺はうなずいた。


 彼女は椅子を一脚持ってきて、俺の斜め前に位置を定め腰掛けた。俺はギターをかたわらに置き、彼女が話し出すのを待った。


「なんか、ごめんね。……いろいろあって混乱してて」


「高瀬が謝ることはないよ」


「月島さんって、あんな風に見えてすごいよね。きちんと神沢君のことまで考えられてる。自分のことだけじゃなく、神沢君にとって何が幸せなのか、まで」


 どう相づちを打てばいいかわからず、俺は高瀬の顔を見続けていることしかできない。


「晴香もすごいよ」と彼女は続けた。「神沢君と世界一の家庭を築くとか、ああやっておおっぴらに言っちゃうんだから。さすが晴香だ。そして、晴香の好きな男の子って、神沢君だったんだね」


「柏木は」慌てて口を挟んだ。「赤い糸がどうとか言っていたけれど、俺はあいつには運命なんか感じてないからな」


 高瀬はそれを受け流すように、乾いた咳払いをした。そして窓の外に顔を向けた。

「神沢君の運命の人――“未来の君”は、月島さんなのかもね。中学生の頃に神沢君の命を守って、今度は神沢君を幸せにしようとしている。月島さん、言い方はちょっときつかったけれど、言っていること自体は間違ってないもん」


 彼女は軽く息を吐き、椅子から立ち上がると、俺の真正面へと移動した。

「私ね、きのう一晩じっくり考えたの。神沢君は、何が本当に自分の幸せになるのか、もう一度ちゃんと考えたほうがいいよ。選択肢はいくらだってある。なにもね、大学にとらわれる必要はないと思うんだ」


「高瀬、それはどういうことだ? 何が言いたい?」


 凍てつきそうな間の後で、高瀬は痛いほど優しい笑みを見せて、それに答えた。


「私を大学に行かせるっていうあの約束、なかったことにしていいからね」

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