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第12話 この聖域に立ち入ることは決して許さない 2


 月島が俺のことを好いていた。それも3年も前から。


 それならばたしかに、この放課後、俺の元に訪れたほとんどの疑問は解消される。


 おのずと脳裏には、中学時代の苦い思い出が蘇ってくる。まわりから存在そのものを疎まれ、一人の人間として、若者として、あるいは男として、全く輝きを発することができなかった日々の記憶。


 3年間一緒のクラスだった月島は、俺の惨めな姿を同じ空間で見て、よく知っているはずだ。

「月島が知っているのは、全然ダメな俺だろう?」


「ダメなんかじゃない」と彼女は即答した。「全然ダメなんかじゃない。私の中でキミは、とても強い人なんだ」


 なんとなくきまりが悪くなって、視線が泳いでしまう。そんな俺が可笑しいのか、一瞬くすりと艶美な笑みを浮かべてから、月島は続けた。


「そりゃあたしかに神沢は、お父さんが事件を起こして、中学校ではああいう立場に追いやられてたよ。私の周辺の子たちも、はっきり言うけど、キミのことを嫌っていた。神沢になんの個人的な恨みがあるのか知らないけど、ぼろくそに言う人も多かった。教師連中も『ざまあみろ』と言わんばかりに、ほったらかしだったしね」


 それを聞いて陰鬱な気分になったが、「それでも神沢の目は死ななかった」と彼女はすぐに言葉を続けた。


「キミの目は、クラスの誰よりも、未来をしっかりと見据えていた。どんなに陰口を叩かれても嫌がらせに遭っても、学校を休まなかった。決して逃げなかった。私には、苦境にめげないそんな神沢が立派に思えたし、この人になら、うちのお店を任せられるなって感じたの。女ってね、抜け目なく物事を見てるんだよ。誰がなんと言おうと、神沢は強い人だ」


 そんなことはない、と思って俺は首を振った。

「月島。おまえもよく知っているように、俺は全てが嫌になって、一度は生きるのをやめようとしたことがある」


 神沢、生きなきゃ! 俺が屋上から飛び降りようとしたその時、背中にかけられたその声は、今でも鮮明に耳に焼き付いている。


「同じ掃除当番で三階廊下の清掃にあたっていたあの日、おまえが屋上に現れなかったら、声を張り上げてくれなかったら、俺は今こうして生きてはいないだろう。そんな俺は決して強くなんかないよ」


「でも結果的に君は生き続けて、問題なく中学校は卒業したし、この地域では一番難しいとされる鳴桜高校にも合格した。それは充分強いと言えるんだ。少なくとも私が神沢と同じ立場だったら」そこで彼女は下唇を噛んで「絶対に無理だもの」と言った。


 なんとなく気まずかったし、口を潤したかったので、新しく飲み物を注文することにした。今は炭酸が恋しい。月島にどうするか問うと「同じものを」と言うので、カウンターへ行き、サイダーを二つ頼んだ。


 待っている間、俺はひそかに座席の月島を見た。彼女はどことなく気怠そうな顔でスマホをいじっていた。その姿はどこからどう見ても一般的な定義によるところの女子高生だ。


 とても実家が経営するせんべい屋の未来を案じているようには見えないし、俺のような朴念仁ぼくねんじんに恋をしているとも思えない。ひざがきれいだな、とテーブルの下に伸びる細い脚が目に留まり感想を抱く。


 席に戻り、サイダーで喉の渇きを解消する。しばらく無言の時間が流れる。


「神沢はこの街に居続けることの意味がわかってるの?」長い沈黙の後で月島はそう切り出した。「いつどこで、放火犯の子であるキミに後ろ指をさす人間に会うかわかんないんだよ? ここはとっても狭いコミュニティだ。神沢はずっと肩身の狭い思いをして暮らさなきゃいけない。そんなのって、生きているって心地する? 幸せに、なれる?」


 それは月島のイメージからは想像しがたい、極めて現実的で、地に足がついた意見だった。耳が痛いけれど、逃げ出すわけにもいかない。


「『なにがあっても平気だ』っていう自信が神沢にあるのなら、別にいいんだよ。それなら私はもうなにも言わない。でもね、キミが体感した苦痛は、たとえ一度ではあっても命を絶ってしまおうと思えるほど、救いのない苛酷なものだったはずだ。この街に住み続ける限り、その痛みはいつ君にまた襲いかかってくるかわからないんだよ? そういう意味でも、東京行きはキミにとって悪い話じゃないと思うんだけどな」


 氷湖のど真ん中に佇んでいると、まわりの氷が音を立てて割れていく。俺はそんな錯覚に襲われる。それほどに彼女の一つ一つの言葉は、俺の逃げ場を奪っていく。


「東京はいいよ」月島は俺に染み込ませるように言った。「いろんな人が、いろんなものを背負って、未来を抱えて、毎日を生きている。みんな自分のことで精一杯で他人のことなんかいちいち気にしない。もちろんキミの過去だって。キミはなんにも気にすることなく、東京でのびのび生きればいい。人生をやり直すと言ってもいい。東京はキミを受け入れてくれる」


「東京は俺を受け入れてくれるかもしれないけど、おまえのご家族はどうなんだ? けっこう由緒あるせんべい屋さんなんだろう? 俺は婿入りするってことで両親の挨拶ひとつ用意できなければ、父親なんか獄中にいる人間なんだぞ。そういうの、抵抗はないんだろうか?」


「そりゃあね、当人が凶悪犯ってならいくらなんでもマズイけど、身内に問題があるってくらいなら、うちの人は全然気にしないよ。むしろ独り身でよく生きてきたって、キミのこと褒めるんじゃないかな。そこは安心してかまわない。うちの家族、アクは強いけど、基本的にはいい人たちだから」


 真夏の夕立のように突然降って湧いた縁談ではあったけれども、月島自身の気持ち、俺の置かれた状況、月島一家の受け入れ体勢、どれをとってみても、俺が月島家に入り次期せんべい屋店主となるのが、今なら自然なシナリオのように思えてくる。


 月島涼と結婚し、東京の片隅で来る日も来る日もせんべいを焼き続ける日々――。


 確かにその未来には、前に進むためにはいつだって何かが不足している境遇を嘆く俺も、自らに対するそしりの声や冷酷な視線に怯えて小さくなっている俺も、この世に生まれてきたことそのものに疑問を呈し色彩を失う俺もいないだろう。


 いるのは、一切合切のしがらみと面倒から脱却した神沢悠介だ。


 いや、になるのか、と思って俺はちょっとした感動を覚える。


 名前なんて便宜的に与え/与えられる記号でしかないという認識に立っている俺は、姓名の半分が変更となることに取りたてて抵抗を感じない。


 それが自らを苦しめてきた忌まわしき〈神沢〉の姓が取って替わられるというのならば、なおさらのことだ。むしろ、めでたいではないか。


 新しい場所で、新しい名前をまとって、新しい家族と暮らす生活。それは月島が言う通り、まさしく人生のやり直しと称して間違いないだろう。


 先ほどから俺の脳内の一部分には、ツアーコンダクターみたいに「東京行き」と書かれたペナントを涼しい顔をして掲げる月島がいて、意識はそっちへずるずると手繰り寄せられる一方だった。


「これは、まったくもって悪い話ではない」

 俺の中に棲息している天使も悪魔も大統領も裁判長も、異口同音にそう訴えている。


 いやいや待てよお宅ら、と俺はそこに口を挟んだ。忘れてはならないぞ、それでは高瀬と歩む未来はどうなるというのか、と。


 月島の強力な引力に引き寄せられていく俺ではあったが、元いた場所で、寂しげな表情を浮かべて、「めざせ鳴大!」ののぼりを手にしてしゃがみ込む高瀬の姿が思い浮かび、慌てて自身をたしなめる。


 春の終わりに、初めて高瀬とふたりきりで下校し、バスに乗り込む際に彼女が俺に向けてくれた言葉が心に蘇ってくる。


 高瀬は俺に「本気で大学を目指すんだよ」と言ってくれた。俺の未来は行き止まりなんかじゃない、とも。


 それは暗中模索の日々を余儀なくされていた俺に対し、どれだけ強烈な光を与えただろう? 


 それまでは自分が立てた大学入学計画に対し、絶対的な自信を持っていたわけではなかったけれども、あの日の高瀬のおかげで迷いは鮮やかに断ち切れたはずだ。


 俺は大学に行く。いや、高瀬と共に大学に行く。


 俺はとてつもなく多くの欠陥を抱えた人間ではあるけれど、だからといって、一度立てた誓いを簡単にやぶれるほど軽薄な人間でもない。


「月島の指摘は正しい」と俺は彼女の目を見て言った。「俺はこの街にいる限り、かなり肩身の狭い思いを強いられ続けるだろう。たとえばこの店の中にだって、あの図書館放火事件のことを覚えている人は必ずいて、もし俺がその犯人の息子だと知ったなら彼らは汚物でも見るような眼差しを俺に向けるんだ。ここはたしかに、排他性のある典型的な地方の街だから」


 周囲を見渡して、話し声が他の客に聞こえていないか確認する。大丈夫だ。続ける。


「でも俺はどうしても大学に行きたいんだ。そして大学に行くなら現実的に考えてこの街の国立・鳴大しかあり得ない。だから俺はこの街を離れないよ。その大学だって今のままじゃ四年間通うことはできない。俺が進もうとしている道は、どうやらいばらだらけのようだ。もしかすると途中で息絶えてしまうかもしれないし、無事に出口を見つけたとしても、その頃には血だらけで、その先に進むのは困難なのかもしれない。でも俺はこの茨の道を進んでみるよ」


「せっかく私がその茨の道を迂回する、安全なまわり道を用意してあげたって言うのに?」月島が呆れたように言う。「私がキミを幸せにしてあげるって言ってるのに?」


「中学時代の俺を肯定的にとらえ、実家のせんべい屋を救うため、その俺に白羽の矢を立ててくれたことはとても感謝している。でも俺は見てみたいんだよ。この道の先にあるものを」


「変態マゾ野郎」

 月島はそれだけ言うと、額に手を当て、口をつぐんだ。目論見もくろみが外れた軍師みたいに。


 俺は気まずくて彼女と目を合わせることができない。


 喫煙者ならば、一服しそうながしばらくのあいだ流れた。


 月島は何かを考えながら、すっかり冷めたであろうポテトを口に含み、俺は窓の外の道行く人たちをわけもなく眺めていた。


「これは負け惜しみじゃないぞ」と彼女は言った。「私としても即答でOKをもらおうなんて思ってなかったけどね。こんなお願いをさして悩みもせずに安請け合いされても、それはそれでどうなのっていう感じするし。あえて茨の道を進む。うん、それは、神沢らしいといえば神沢らしいのか」


 その口ぶりにはどこか、自分を納得させるような響きが感じられた。そろそろ店を出て少し歩かない? と月島が提案するので、俺はうなずき、残っていたチーズバーガーを口に放り込んだ。


 そのあいだ、彼女はきびきびとテーブルの上を片付けていく。さりげなく俺のハンバーガーの包み紙まで自分のトレーに乗せて捨てに行く姿に、ちょっとした好感を抱く。

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