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第12話 この聖域に立ち入ることは決して許さない 1


 柔らかな日差しに包まれた平日午後のハンバーガーショップの一角には、周囲のにぎやかさとは一線を画し、明らかにただならぬ空気が流れていた。


 たとえるならば、子どもたちが無邪気に走り回る公園の片隅で、世界の行く末を決定づける極めて重要な首脳会談が行われている。そんな感じ。


「私と結婚しない?」

 目の前の都会的な少女は、俺をまっすぐに見据えてたしかにそう言った。


「友達になろう」とか「付き合ってよ」じゃない。いきなり「結婚」と来た。飛び級もいいところだ。どこでどうなったらそうなるのか。


 三度ほど頭で月島の台詞を繰り返した後で、俺の中にじんわり浮かんできたのは「そんな馬鹿な」という思いだった。


「月島。それは何かの冗談だよな?」

 顔色をうかがうように問う。回答はすぐにもたらされた。


「神沢には、これが冗談言ってる人間の顔に見える?」


 月島の眼差しには魔術的な深みがある。彼女にそのようにして見つめられると、不思議と自分が実体を持った存在ではなく、概念か何か、そういった形而上の存在に思えてくる。


 ただ、概念に求婚する人間はまずいないので、俺は安心して、その小さな顔を隅から隅までしげしげと見つめた。


 前髪がかかる一対の眉は丁寧に手入れが施され、瞳は黒曜石を丸めたような奥行きと輝きがあり、それでいて、澄んでいる。


 小高い鼻には自信と気高さが感じられ、啓示的な台詞がいつ飛び出してもおかしくない唇は、神秘性に満ちている。頬にはまだ十代の少女特有の未熟さが垣間見える。


 ごくごく客観的な意見として、いとけなさと大人っぽさが共存するその顔だちはとても素敵だ。そして頭の形が美しい。だからこそショートヘアが似合うんだな、と納得する。


 月島が発する魅力は、高瀬の純和風的な美とも、柏木の直球的な色香とも、異なる性質のものだ。ではその魅力の根源にあるものは何だろうという疑問はさておき、少なくともその秀麗な顔のどこにも、戯れの心は滲み出てはいない。すなわち、これは、この提案は、ということだ。


「神沢。キミすごい顔してるよ。魂抜けてるって! ほら、普通の顔に戻った戻った!」


 俺ははっとして、表情を作り直した。そして、でもな月島、と心で呼び掛けた。普通の男ならいきなり本気で結婚を申し込まれたら、魂の一つや二つ抜け出るもんだぞ、と。


「それでは順を追って説明しますか」と彼女は言った。「なぜ私がキミに求婚するのか」

「頼む」と俺は言った。


「私さ、この街の生まれじゃないんだよね」と前置きしてから月島は語り始めた。「実家は代々東京でせんべい屋さんを経営してるの。結構歴史があって、さかのぼれば、徳川の何代かの将軍がうちのせんべいが大好物ってことで、江戸城に献上してたこともある。そんなわけで、東京から遠く離れたこの街でも、店の名前を出せば、知ってる人は知ってる有名店なのね。ちなみに現役でせんべいを焼いている私の祖父、東京都の名誉都民だったりする」


 彼女はそこでスクールバッグを手に取った。そして場違い感が印象的だったあの力士のマスコットをつまんだ。


「私ん、両国国技館のすぐそばなの。お相撲さんもよく、うちのせんべいを買いに来てくれるんだ」


 生粋の東京生まれ。


 どうりで月島はその外見からまとっている雰囲気に至るまで洗練されているはずだ、と俺は合点がいった。


「自慢はこのくらいにして話を進めると、そんなうちのせんべい屋、実は今ちょっとピンチなんだ」

「ピンチ?」


「跡継ぎがいないんだ。祖父母夫婦の間には娘しか生まれなくてね。その娘が婿に連れてきた人もせんべいを焼くなんて柄の人じゃなくて。ま、それが私の両親なわけだけど、そんな二人の間にも子どもは私しかできなかった。300年近く続いてきたお店が、後継者がいないがために、祖父の代で終わろうとしてるんだよね」


 ひとつ疑問があった。俺はそれを口にした。

「跡継ぎがいないって言うけど、それは、月島のお母さんじゃダメなのか? それにやる気があるなら月島自身が継ぐっていう選択肢だって」


 彼女はふふっとシニカルな笑みを浮かべ、肩をすくめた。

「それができたら苦労しないの。煩わしいしきたりってものがあるのよ。うちのせんべいは昔から人気があったから、偽物がよく出回ったらしくてね。それでいつからか区別が付くように、として一枚一枚のせんべいに三日月のマークを入れることになったの。もちろんそれだって真似されたら意味がない。だから独特の技術で、他の誰かが真似のしようがないよう、世界に一つだけの焼き印を使って三日月をせんべいに入れるわけだけど」


 月島はそこで言葉を切って「神沢、話について来られてる?」とこちらを気遣った。


 とても馴染みの薄い分野の話だけにいまいちピンと来ていなかった。でもそこは空気を察して、せんべい、しるし、三日月、と日本語を覚えたての外国人のように言って、うなずいた。


 彼女はうなずいて話し続けた。


「その技術は、外に漏れたら死活問題になるし、習得は簡単じゃないってこともあって、代々一人の男の人にしか伝承されてこなかったの。今はもし真似されたら法に訴えればいいわけだし、なにより、その気になれば女だってできないことはないと思うよ。でもねぇ、だめなものはだめなんだ。ほら、今でも相撲の土俵って女の人は上がれないでしょ。それと似たようなものなんじゃない? だから私のママも私も、店を継ぐことは不可能ってわけ」


 古い慣習を嫌いながらも、歴史あるせんべい屋に生まれた娘としては、それを宿命として受け入れざるを得ない。そんな口ぶりだった。


「そんなわけで」彼女は姿勢を正した。「店の未来は私に懸かっていたりするわけだ。つまり私が、月島家に婿として入ってせんべいを焼いてくれる旦那さんを東京に連れ帰れるかどうか、ってことよね」


 月島家の一人娘の視線は、まっすぐ俺に向いている。彼女はこの上なく涼しい顔をしているように見えるが、前髪の隙間から見えるひたいには並々ならぬ意志の強さを感じ取ることができ、俺はそれにたじろぐ。


「ここまで話せば私が何を言いたいか、もうわかるでしょ? 神沢。私と結婚して、東京に来てほしい。そしてうちの店を継いで欲しいんだ。もちろん今の歳じゃ、結婚は法律的に無理だから、高校卒業まで待つつもりでいる。祖父の代で店を終わらせたくないの。たかがせんべいだけどね、それでも世界一の味だって言って、愛してくれるお客さんも多いんだ」


 洒落た雑誌の誌面を飾りそうな、トレンドの最先端にいる女子高生が実家の家業を気に掛ける姿はなかなか印象的で、それだけで充分俺の胸に訴えてくるものがあるのだが――。


 それにしても一体どうなってんだ、ともう少しで口にしそうになった。


 ほんのついさっき、不慣れなギターをたずさえて野外ロックフェスティバルなんてもんに飛び入り参加することが決まったかと思えば、今度はまさかまさかの結婚話、そして東京行きのオファーである。


 こないだの春に続いて、どうやらこの夏も一筋縄ではいかなそうだ。


 俺がなにも喋れないでいると、月島は窓の外をちらりと見やってから、話を再開した。

「私さ、小学5年の時にパパの転勤に付いて来るかたちでこの街に来たんだよね。正直言って、この街のこと、少しも好きになれないんだ。とくに田舎っぽいところが。閉鎖的で排他的で変化を嫌う。なーんか、いかにもって感じ」


 この街を愛してやまない高瀬がもしこれを聞いたら、彼女はどう思うのだろうか?

「篠田先生はたしか、おまえが一人暮らしをしているって言っていたけど?」


「そう。パパの出向はこのあいだの3月で終わって、一足先に東京に帰っちゃった。私もついていくつもりだったんだけど、ダメ元で受けた鳴桜に受かっちゃったから、仕方なく東京へは帰らなかったってわけ。まぁここに残ったのは実はもう一つ大きな理由があるんだが……」

「もう一つの理由?」


 月島はどういうわけかそれには答えず、頬を染めて、咳払いをした。

「神沢だって、この街にはあんまり良い思い出はないんでしょ?」


 その問いかけは言うまでもなく父の起こした放火事件、そしてそれに伴う暗黒の日々を念頭に置いてのものだろう。俺はため息混じりに「まぁな」と返した。


「だよね」彼女は目を細めた。「完璧なんだよなぁ。神沢はこの街には愛着を持っていないだろうと思ったし、両親もいなければ兄弟もいないから、東京へ連れて行くことで家族の許可を取り付ける必要もない。家柄も何もあったもんじゃないから、うちに婿に入ることも問題ない。そして進路だって他の鳴桜生よりは不確定だ。大学へ行くって言いはしたけど、厳しいのに変わりはないわけでしょ? つまり、総合すると、うちの店を継いでくれる条件は一から十までばっちり整っているってことだ」


 家柄も何もあったもんじゃないから。ここまではっきり言われると、かえってすがすがしい。


「条件は整っている」俺は頭の中でそうつぶやいて、すぐに「そんなことはないだろう」と思い至った。それどころか、一番肝心な前提が抜け落ちているじゃないか。これはおまえの生涯の伴侶を決める結婚でもあるんだぞ、気持ちはどうするんだ、と。


「なぁ、月島。条件は完璧だとは言うけれど、俺を結婚相手になんか選んでいいのか? 気付いていないかもしれないが、おまえはここに入店以来、客の視線を釘付けにしているんだぞ。言い寄ってくる男だって多いんだろう? なにもわざわざ俺みたいな傷物に、実家のせんべい屋さんと自分の未来を託さなくたっていいだろう」


 そこに気持ちの存在しない婚姻――トカイの次期社長との政略結婚が既定路線となっている高瀬ではないけれど、こんなに虚しいものはない。


 俺の発言を聞いた月島はがっくり肩を落とし、テーブルに肘を突いて、家計簿の帳尻が合わなくて嘆く主婦のように頭を抱える。そして怒りと落胆が混在した視線を俺に向けて、口を開いた。

「神沢。君さ、ひょっとしてバカなの?」

「は?」


「あのさ。いくらなんでも、条件が適合しているってだけで男に『結婚してほしい』なんて言うわけないでしょ」

「というと?


「もう、言わなきゃわかんないかな」彼女は右手で顔を扇いだ。「私が神沢にこんな話を持ちかけたのは、キミのことが好きってのが、大前提としてあるからに決まってるじゃん。3年前からキミのことが好きでした。それがさっき言いかけた、わしがこの街に残った最大の理由じゃ、アホんだら」



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