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第11話 その声が死神を退けた 4


「おお、まだ校内に残っていたか、神沢」


 連日の野球部の指導でこんがり赤黒く日に焼けた篠田先生が、緊張感のある顔つきで待ち構えていた。たしか今は地区大会の真っ最中のはずだ。


「おまえを呼び出したのは、実はちょっと頼まれて欲しいことがあるからなんだ」


 その声色には校則を破った者を咎める響きは感じられない。俺はほっとして「なんですか?」と返事をした。


「1年A組の月島涼つきしますずという女子生徒を、おまえは知っているか?」


 月島涼。


 二度、三度と、呪文を唱えるように頭の中でその名を繰り返す。


 知っているどころじゃない。その名は、海底に沈む古代人の遺跡のように、いかなる干渉もこうむることなく、俺の深いところで静かに眠り続けている。


 月島涼。他でもなく彼女こそは――。


「はい。僕と月島は中学では三年間ずっと同じクラスでしたから」


「なるほど、それでか……」先生は腕を組んでうなずいた。「実はな、月島は今、警察の厄介になっているんだ」


「警察?」


「昨日の夜にちょっとした事件を起こして、補導されてしまったようなんだ。無駄な混乱を生みたくないから生徒に知らせるつもりはない。おまえも、頼むぞ」

 篠田先生は口にファスナーを閉める仕草をした。


 補導。それは俺の中の月島涼像からは、あまり想像できない言葉だった。彼女は非行に走ることで何かの獲得を、あるいは何かからの解放を望むようなタイプの女の子ではない。


「月島は東京の親元を離れ市内のマンションで一人暮らしをしているんだが、その事情を知った警察側は、保護者の代わりとしてうちの教師を月島の迎えに寄越せと言ってきた。ところがA組担任の斉藤先生は今出張で富良野ふらのにいる。帰ってくるのは三日後だ。そこで学年主任と生活指導担当を兼ねている俺の元に、お鉢が回ってきたというわけだよ……」


 一秒でも多く野球部のために時間を費やしたいのに、他クラスに在籍する生徒のトラブル処理に追われる自分の立場を呪っているのか、古くなった鮭とばを噛んで歯が欠けたような顔をして篠田先生は説明を続ける。


「月島本人と今、電話で話し合ってみたんだが、月島はよくわからないことを言い出してな。そこで出てきたのが、神沢、おまえの名前なんだよ。『H組の神沢悠介を一緒に連れてきてくれなければ、私は帰りません』あいつはたしかにそう言った」


 先生はそこで一旦口をつぐみ、目を血走らせて俺の顔を覗き込む。


「これは校則違反ではないから、別に責めるわけではないんだが、おまえらもしかして、交際していたりするのか?」


 なぜ俺がそんな風に月島涼に指名されたのか、いくら考えてもその理由はわかりそうになかった。俺は彼女との交際を否定した上で、先ほどから気になっていたことを聞いてみることにした。

「月島はいったい何をして補導されたんですか?」


「昨日の夕方頃、月島は家路につく途中で若い男に声をかけられたんだ。ま、平たく言えばナンパだな。男の誘いが執拗だったのか、月島は思わずしまったらしい。当たり所が悪くてな、その男は鼻骨を折る怪我をしてしまった」


 先生は顔をしかめて自身の隆々とした鼻を触った。


年端としはのいかない女に声を掛けて袖にされて殴られて、警察沙汰にする男も男だが、まぁ罪には違いない。というわけで、今から先生と一緒に警察署に行ってくれるか、神沢。あさってなんだよ、準決勝は。今年は甲子園が狙えるんだ。人助けだと思って」


 俺は極力厄介ごとは避けたい人間ではあるけれど、職員室に呼び出された理由が居酒屋関連ではなかったことで、心は羽が付いたように軽くなっていた。


 野球少年がそのまま大人になったみたいなこの人が、春の無謀な宝探しの件を不問にしてくれたという点も、忘れてはならないだろう。


 月島涼――中学校の屋上で死神を退け、俺をこの世界につなぎ止める声を放った人物。


 俺と同じく鳴桜高校に進学した彼女はどういうわけか今、俺を求めている。


 様々なことを総合的に考えると、これはどうやら断るわけにはいかなそうだ。


「わかりました。行きましょう」


 俺が言うと、篠田先生はにかっと破顔して、出発の準備を始めた。



 ♯ ♯ ♯



 篠田先生の運転するRV車に乗って、15分ほどで市の中心部にある警察署に到着した。


 道中で「雑用を頼まれて時間がかかりそうだ。心配は要らない」とスマホで三人に連絡を入れておいた。


 車を降りて建物の中へと入っていく。犯罪の加害者家族としてはできることなら生涯関わり合いになりたくない場所だが、今日だけはやむを得まい。


 先生が受付の女性といくつか言葉を交わす。つややかな脚を持つ、きれいなお姉さんだ。国家権力にあまりそぐわない美脚の持ち主に、俺たちは奥へと通された。


 場所が場所だけに、難解な数字パズルでも解いているかのような小難しい顔をした制服姿の警官がたくさんいて、何もしてないのに変に縮こまってしまう。


 女性警官は「こちらです」とチャーミングに言って、扉を開いた。殺風景な部屋の中には、見覚えのある女の子が無表情でたたずんでいた。


 肩に掛かるか掛からないかというくらいのショートカットがその小さな顔にとてもよく似合っていて、無駄のないシャープな曲線を描く顎は、肯定的に見れば利口な、否定的に見れば冷たい印象を受ける。


 実際、俺の知るかぎりにおいて彼女は、その両面をあわせ持っている。


 他の鳴桜生と同じ制服を着用しているはずなのに、その着こなしは、どことなく都会的だ。色白で華奢なその身体は、多くの男の「守りたい」という保護本能をくすぐるはずだ。


 スクールバッグには派手なストラップやピンバッジ、何かのキャラクターをデフォルメした小さなぬいぐるみなどが飾られている。見れば、その中のひとつに恰幅の良い力士がいて、気のせいだろうが、場違いそうな顔をしているように感じられる。


 いかにもといった感じのオシャレな女子高生――月島涼その人だ。


 久しぶりにきちんと正面から見た彼女は、元々大人びてはいたけれど、より子供っぽさが抜けたように感じられた。


 月島は俺の姿を確認すると、口角を上げて、かすかな微笑みを見せた。それはどことなく計画的な笑みだった。


 俺たちの視線の交換を尻目に、篠田先生は椅子に腰掛ける。それから女性警官の差出す書類に片っ端からサインをしていく。月島も指示を受け、誓約書か何か、そういったものにペンを走らせる。文章一文一文に、目を通しているようには見えない。


 それが終わると、肩幅の広い偉そうな男の警官が部屋に現れて、えらく重厚な話を始める。なんだか俺まで補導された気分になってしまう。おそらく月島の耳に、彼の言葉は入っていない。


 冗長で形式張ったその話が終わると、はれて月島は自由の身となった。


 先生は「ご迷惑をおかけしました」と警察官たちに頭を下げる。それにつられてなんとなく俺も腰が低くなる。当事者である月島は素知らぬ顔だが。


 歩いてきた経路を戻り、三人で外に出る。結局俺の存在になんの意味があったのかは、署内ではわからなかった。はたから見れば、あの男子生徒は何しに来たのだろうとさぞ不思議だっただろう。


 篠田先生は「同じ公務員だが警察は嫌だな、偉そうで」と言って笑うと、俺たちの顔を見た。

「月島、腹は減っていないか。どうだ、これから三人でラーメンでも食いに行くか」


「いえ、結構です。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 月島が軽く頭を下げて言う。その台詞には感情というものがまるでこもっていなかった。


「それなら俺は高校に戻るが……神沢はどうする? 一緒に先生と学校へ帰るか?」


 予想外に事が早く済んだので、高瀬にもう一度会いたい気持ちもあって「そうですね」と答えようとした矢先、月島が電光石火に開口した。「彼は置いていってください」


 彼? 誰? 俺、か。


「きのうのこともあるので、彼に


 実に淡々と、それが至極当然の俺の役割であるかのように彼女は言った。自分の意思をないがしろにされるのはあの「柏木様」で慣れているとはいえ、これには驚いた。


「なるほどな」何がなるほどなのか、とにかく篠田先生は納得した。「了解だ。それじゃあ神沢、あとは頼んだぞ」


 大きな手の平をこちらに示し、篠田先生はRV車に乗り込む。手早くシートベルトを締めエンジンを駆動させると、「気をつけて帰るんだぞ」と常套句を言って、アクセルを踏み込んだ。


 車が走り去り、警察署前には俺と月島、制服姿のふたりが残される。


 これではなんだか、愛の名のもとに反社会的なことをやらかした不良高校生カップルみたいに見えなくもない。


 謎の多い月島の真意を探るべく、何かを口にしたいのだけれど、まともな会話を交わしたことがない彼女に、どんな口調で、どんな言葉で話せばいいか、すぐには思い付かなかった。


 するほほどなくして「あはは」と隣で月島が笑い始めた。

「守ってもらいます、だって。ドキッとした?」

 横から俺の顔を覗き込む月島。前髪がはらりと蠱惑こわく的に揺れて、ドキッとしてしまう。

「神沢、久しぶり。悪かったね、こんな場所まで呼び出して」


 警官も教師もいなくなったことでかしこまる必要が無くなったのか、月島は中学時代と同じ口ぶりで言った。謝っているようで、謝意は感じない。下手に出ているようで、どこか上から目線。月島涼とは、そういう娘なのだ。


「い、いや、別にかまわない」

 俺はぶっきらぼうに返した。月島の歯切れの良い口調に戸惑っていた、というのもある。


「でもね、こうでもしないと、神沢とふたりきりになれそうになかったから。だってキミ、高校に入ってから、ずいぶん忙しいみたいじゃない」


「こうでもしないとって……俺と会うために、こんな手の込んだ真似を?」

 補導からしてそもそも月島の画策の一部だったのかと思ってつい仰け反ったが、彼女はそんな俺を引き起こすように、まさか、と言った。


「まさか。こんな辛気臭い場所で一晩過ごして何の見返りも無いのもしゃくだから、良い機会だと思って、篠田センセにキミを連れてきてもらうよう話したんだよ。他人のことなんてまるっきり興味の無かった神沢がこうして来てくれるとは、正直思わなかったけどね」


 月島には中学時代の自分の全てを知られていることを今更ながら思い出し、俺は気まずくて視線を外した。


 彼女は言った。

「これからちょっと付き合ってよ。キミには聞いてもらわなきゃいけない大事な話があるんだ」


 どうやら月島が俺を呼び出したのは、その話とやらをするためだったらしい。居酒屋の仕事が始まるまでは、まだだいぶ余裕がある。昨夜の悪夢のせいで寝不足なのは否めないが、断れる雰囲気でもない。


 俺はうなずいて、彼女の後をついていった。

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