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第10話 いつまでだって輝き続ける 4


 俺と高瀬は一緒に校門を出て一緒に街を歩いていた。


 さいわい下校のピーク時間ではなかったから、校門から人気ひとけが少なくなる地点までの間で知った顔と鉢合わせはしなかったが、もしかすると校舎内のどこかの教室から目撃くらいはされたかもしれない。


 それならそれでかまわないさ、と俺は腹をくくる。誰がなんと言おうと、俺は一分一秒だって高瀬と共有する時間を増やしたいのだ。つまらないことなんかいちいち気にしていられない。時間は、有限だ。


 よく晴れた六月の夕方を歩く俺の隣には、高瀬がいる。いまだに信じられない。見飽きた下校途中の街の景色は、彼女の横顔が映り込むだけで、とたんに優雅な風景へと様変わりする。


 高瀬とは数日前にサバイバル体験で共闘している間柄とはいえ、日常に戻ればなんてことはない臆病な男子高校生である俺は、いかにも青春の一ページというべきこの状況に少なからず緊張していた。


 そのせいで、高瀬に関する知りたいことなど田沢湖を埋め尽くすくらいあるのに、それをうまく質問にして切り出すことができない。


 よくよく考えれば俺は高瀬優里という女の子について知っていることに著しいかたよりがある。


 三年後にトカイとの政略結婚が控えていることをはじめ、今日までの生い立ちや自己の人間性に対する内省といった、いわば彼女のトップシークレットともいえる情報は把握しておきながら、誕生日や趣味のような会ったその日にでも知り得る情報は知らなかったりする。


 季節柄すっかり半袖を着る人が多くなったとか、今年は例年に比べ雨が少ないとか、そういうとりとめのない話でかなりの時間を浪費してしまい、二人で歩ける道もそう多くはなくなってしまった。彼女はいつも高校から徒歩で約十分の停留所から自宅方面へ向かうバスに乗るらしい。


 人の誕生日なんてかたつむりの求愛行動くらい無関心な俺ではあるが、それが恋する人となると事情は違ってくる。


 当然の欲求として高瀬がこの世に生をたまわった日付を俺は知りたかった。もしまだ彼女が今年の誕生日を迎えていないなら、プレゼントを贈ることだって可能なのだ。


 ただ今の二人の微妙な距離感でそれを問うと、彼女に自分の好意を察知されてしまうような気がして、俺はなかなか質問することができない。


 そこで高瀬が口を開いた。「神沢君ってさ、誕生日いつ?」


 俺は思わず吹き出しそうになる。隣であっけらかんとしている高瀬を見て、そりゃあそうだ、と反省した。誕生日を聞いたくらいで恋心を疑われたら異性となんの話もできなくなる。考えすぎの性格も本当にどうにかしなくちゃいけない。


「10月21日だ」と俺は冷静を装って答えた。「そういう高瀬は?」


「それじゃ神沢君の方がちょっとだけお兄さんだ。私は12月22日なんだけど……」


 どういうわけか彼女はそこで眉をひそめた。俺はその理由が思い当たった。

「そんな日に生まれて、、って思っているんだろう?」


「わかった?」と高瀬は言った。「そうなんだよねぇ。いつもクリスマスと誕生日のプレゼントが一緒にされちゃうの。年末でなにかと忙しい時期だから、家のパーティだって一回にまとめられちゃうし。これってどう考えてもすごい損だと思うんだよな」


 誕生日を祝ってくれる家族がいるだけいいじゃないか、とも思ったが、なにはともあれ、これをきっかけにして俺は彼女のプロフィールを聞くことができるようになった。


 血液型はA型(血液型占いを認めるわけじゃないがなるほど納得だ)

 好きな食べ物はいちご(料理名を挙げてくれれば、特訓したのにな)。

 嫌いな食べ物はのびきったそば(それ、好きな人いるんだろうか?)。

 趣味は文房具収集(アイドルの追っかけとかじゃなくてよかった!)


 特技については、聞かないのが彼女のためだろう。例の「一つを極められないんだって」が出てきて、渋い顔をさせてしまうから。


 俺は質問を続けた。

「休みの日はなにをして過ごしているの?」


「お母さんとショッピングに行ったり、新しく出来たお店でランチ食べたりしてるかな」と高瀬は言った。「私のお母さん、週末に私を連れ出すために、暇さえあれば地域の情報誌をチェックしてるんだ」


 このあいだそこ行ったよ、と彼女は道路の向こうを指さした。そこには見るからに高級そうな店構えのレストランがある。青白赤のトリコロールが掲げられ、風に揺れている。やけに目立つから俺にも見覚えがあった。


 過疎化の進むこんな地方都市でいったいどういう人がこんな洒落た店を利用するんだろうと常々思っていたのだが、隣にいた。なるほど、こういう人なのだ。


「天気の良い日はね」お嬢様の声は弾む。「ちょっと遠い温泉まで車で行って、日帰りで帰ってきたりもするよ。あとは公園で犬の散歩かな。うちね、ボーダーコリー飼ってるんだ」


 フランス料理店でランチ。温泉。ボーダーコリー。うん、と俺は思わずうなる。さすがブルジョアは我々庶民とは違う。

「お母さんとは良好な関係なんだ?」


「そうだね。私が結婚話を受け入れてからは、なおさら気を遣ってくれているみたい。さすがに遭難の件は叱られたけど」


「そっか。なんか安心した。高瀬は家で孤立してるわけじゃなかったんだな」


「うん。私とお父さんの関係がぎくしゃくしているだけ。お姉ちゃんも『時代遅れだ』って言って、政略結婚に反対してくれるし」


 それはよかった、と聞き流したいところだが、一つの言葉が引っかかった。お姉ちゃん?


「お姉さん、いるんだ?」

「うん。鳴大めいだいの文学部に通ってる」


 立ち入るようで悪いけど、と前置きして俺は気になったことを尋ねる。

「あのさ、トカイとの結婚話って、普通に考えればまずはお姉さんのところにいくものじゃないの?」


 それを聞くと高瀬は手を振って苦笑いした。

「あの人は絶体ムリだもん。結婚とか、家庭に入るとか、そういうの。昼間から平気でお酒は飲むし、たばこも吸い放題だし、部屋は散らかり放題だし、昼夜逆転生活だし。トカイさんにうちのお姉ちゃんを嫁がせたら、一日もしないうちに送り返されるんじゃないかな」


「そりゃまた……」ずいぶんと自堕落なお姉様ですね、と心で続ける。


「それよりなによりあの人」高瀬は語調を強めた。「男遊びが激しすぎるの」


 高瀬の上品な口から飛び出した下品な言葉に俺は驚く。


「男の人を服を着替えるみたいに気分次第でとっかえひっかえして、おまけにきれいなかたちでなんか別れないから、未練のある男の人がストーカーみたいになっちゃうし。朝帰りなんて日常茶飯事で、私が登校しようと玄関のドアを開けたら家の前でキスしてたりするし。もう、とにかく、最低な姉なの」


 隣を歩く優等生の貞淑さや淑やかさは名家である高瀬家ならではのものかと思っていたが、案外そうでもないらしい。これが俗に言う反面教師というやつだろうか?


 いずれにせよ高瀬は純潔なままでいてくれと思いふと横を見ると、彼女はいまだに唇を尖らせていた。

「だからね、結婚に反対してくれるのは嬉しいんだけど、なんだか面白くないのよね。お姉ちゃんがもっとしっかりしていれば、こうはならなかったかもしれないじゃない? それなのに他人事みたいにさ……」


 そこで彼女ははっとして喋るのをやめ、口に手を当てた。


「なんだかいつの間にか、愚痴っぽくなっちゃったな。ごめんね、神沢君」


 俺は彼女に頭からつま先まで優等生であることなんか求めていなかった。腹を立てたっていいし、愚痴を言ったっていい。


「なぁ高瀬」と俺は言い聞かせるように言った。「我慢しなくていいからな。家族に理解者はいるって言うけど、家だと胸にたまった全ての思いを吐き出せはしないと思うんだ。結婚のことを考えると、叫び出したい時もあるだろう。表情を崩したっていい。汚い言葉を使ったっていい。俺が全部聞いてやるからさ、これからは言いたいことは全部言ってくれよ」


 ヒカリゴケの洞窟での誓いを思い出し、結婚なんかさせるもんか、と心はたける。

「というか高瀬は三年後、大学に行くんだから。俺に任せておけ」


 話し終わった後に後悔するのは俺の悪い癖だ。ちょっとこれは格好つけ過ぎたかもしれない。


 見れば高瀬は隣でくすくす笑っていた。

「言ってる神沢君が、赤くなってどうするのよ」


「ごめん」その通りだ。「似合わないことはするものじゃないな」


「でもありがとう」と高瀬は言った。「なんか、すごく楽になったよ。そんな風に言ってもらえて」

「それはよかった」と俺は言った。



 ♯ ♯ ♯



 気がつけば俺たちは高瀬がいつも使う停留所に到着していた。ちょうど彼女が乗るバスが向こうの交差点を左折し、こちらに向かってくる。二人だけで過ごす放課後も、そろそろおしまいだ。


 高瀬は俺の正面に回り込んで、口を開いた。

「なんだか私ばっかり、神沢君に元気をもらってるな。こんなのよくないよね」


 そんなことはない、君はある意味俺にとって大空に君臨する太陽なのだ、と俺は心で語りかけた。ただ存在してくれているだけで俺はそこからエネルギーを得て生きていける。燦々さんさんと輝く笑顔を向けてくれるのなら、光合成して大輪の花だって咲かすことができる。めぐりめぐって、俺はその花を供物として捧げているだけにすぎない。


 高瀬はバスが速度を落として車体を路側帯に寄せると、一度天を仰いでから話し始めた。


「あのね。さすがに神沢君の大学資金を私ひとりでどうにかすることはできないと思うけど、それでもね、私も神沢君が大学に行けるために、できるかぎりのことはしてみようと思うんだ。まだまだ時間はたっぷりあるもの。なにかしら良い手立てはあるよ、きっと。


 だから、神沢君も本気で大学を目指すんだよ。何があっても絶対に諦めちゃだめだよ。神沢君の未来は、行き止まりなんかじゃないから。神沢君はあの奇跡のヒカリゴケみたいに、いつまでだって輝き続けるから」


 彼女の言葉が終わると、バスが鈍い音を立てて停車した。ただ一人の乗客を迎え入れるべくドアが開く。


 俺と高瀬はただ見つめ合う。

 無言ながらもあらためて誓いを立てるように。

 二人だけの世界をそこに形作るように。


 彼女は小さく一度うなずくと、艶のある髪をふわりと回転させて、バスのステップを軽快に駆け上がっていく。


 俺はその背中になにか言葉をかけようかとも思ったが、そうはしなかった。

 今日ばかりは無言の別れが俺たちにふさわしいだろう。

 言葉が不要な場面だって時にはある。


 高瀬は前から二番目の席に腰掛ける。

 バスはゆるやかに動き始める。俺は窓越しに彼女を見つめる。

 じょじょにその横顔は、遠ざかっていく。


 彼女は最後に、こちらをちらりと見遣った。


 その顔には微笑みがあった。


 いや、ひょっとすると、他の誰かなら笑みととることができないかもしれない。それほどそれは、微妙で繊細な表情の変化だったから。


 でも俺だけは――世界で俺一人だけは――わかる。


 それは高瀬が心から余計なものを取り払った結果、浮かべることできたピュアな笑顔であるということを。


 声が出るわけでも、頬が膨らむわけでもない。

 手を叩くわけでも、腹を抱えるわけでもない。

 だがしかしそこにはたしかな安らぎがあった。


 そんな笑顔を彼女がもっとたくさん見せられるようになればいい、と俺は遠ざかるバスを眺め思う。


「高瀬、こんなに君のことを好きになってしまって、俺はどうしたらいいんだよ」


 もし今宇宙人が地球に飛来して80億人の中から俺を選んで拉致し、頭を開いたところで、きっと彼らにとって有益な情報は得られないだろう。


 俺の脳内は高瀬優里という一人の女の子で埋め尽くされているのだから。


 季節は様々な生命の息吹をつかさどり、俺に多くの出会いを与えてくれた春から夏へと、今まさに移ろうとしている。数えて16度目になる今年の夏は俺に対しどんな試練を課し、俺はそこから何を獲得するだろう?


 全身を焦がすようなじりじりした太陽光線を受け、例年より暑い夏の到来を予感しながら、俺は一筋縄ではいかない物語が新しい季節に待ち構えていることを覚悟した。






                          第一学年・春〈終〉 



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