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第10話 いつまでだって輝き続ける 3


「ふうぅぅぅ」と高瀬は大きくのけ反って背伸びをした。夏服だから胸のラインがくっきり浮かび上がる。大きすぎず小さすぎず、とてもきれいなかたちだ。「けっこう勉強したね。すっかり夕方になっちゃった」


 この範囲がわかっていない、と不安がっていた高瀬ではあるが、いざ勉強を始めるとみるみるうちに穴は埋まっていった。中間テストまでの範囲は高校に入って最初の単元だからそれほど難度が高くないというのもあるが、それよりなにより、高瀬は吸水性の高いスポンジみたいに物わかりが良く、教える側としては非常に楽な生徒さんだった。


「さすがに疲れたか?」と俺は視線を胸から顔に上げて言った。


「ちょっとだけね」高瀬はずっと鉛筆を持っていた右手をいたわる。「ばっちり集中して勉強したから。でもさ、神沢君って勉強教えるのがすごく上手なんだね。びっくりしちゃった」


 実はちょっと自信があったりする。小さい時からよく同級生の勉強をみていたから。ここは謙遜するけれども。

「そんなことない。高瀬の理解が早いんだ」


 彼女は照れ臭そうに肩をすくめた。

「神沢君、将来やりたいことが見つからないなら、先生にでもなればいいのに」

「先生って、学校の教師のこと?」

「そう。案外向いていると思うけど」


 俺は自分が教師として1年H組の教壇に立っている姿を想像した。だめだ。すぐに身震いが起きる。太陽や柏木のような問題児は、自分も生徒の側だから付き合えるのだ。教師としてああいう連中を扱うとなると――。


「ははは」おのずと笑みがこぼれた。「向いてないよ。寛容さが足りなすぎる。受け持つクラスにあんな奴らがいたら、一ヶ月で職場放棄しそうだ」


 高瀬はすぐにそれがなのか思い浮かんだようで、壁の新聞記事を見てから「そうそういないでしょ」と言って笑った。


 俺は彼女の指導役に戻って、口を開く。

「とにかくこの調子だと遅れを取り戻すのにあまり時間はかからなそうだ。そうこうしているうちに今度は一学期の期末テストだから、追いつくのは早いに越したことはない」


「はい。よろしくお願いします。先生」

「教師にだけはならんぞ」と俺はいちおう釘を刺しておいた。


「あ、そういえば」と高瀬は思い出したように言った。「神沢君、肝心の志望大学はどうするつもり? ほら、明日には、進路希望調査票を提出しなきゃいけないでしょ?」


 彼女はバッグからファイルをしなやかに取り出すと、そこから一枚のプリントを抜き出して机の上に置いた。右上には「重要」といかにも重要そうに判が押されている。


「ああ、書かなきゃな、それ」高校生に戻った俺も自分のバッグを漁る。


「模試とかもあるし、早いうちに志望校を決めておいた方がいいよね。クラスの他の人たちを見ていると、大学だけじゃなくて、もう学部と学科まで絞り込んでたりするし」


 なんの障害もなく大学への道がひらけている連中がとても羨ましいが、それ以上に今は、高瀬が真剣になって大学のことを考えていることがなんてったって嬉しい。


 高瀬にならって俺も調査票を机に置く。言わずもがな全ての欄が空白だ。

「というか、俺の場合、現実的に考えれば志望校なんて消去法で一つしかないんだけどな」


「私も同じだ」と高瀬は言った。「いろいろ考えたけど、もし本当に大学に行くことになるなら、それはしか思い浮かばなかった」


 そこはどこなのか俺は考えた。すぐにある大学の名前が浮かんでくる。


 彼女がどういった理由で本当は望まない政略結婚を受け入れたかを考慮に入れれば、その答えはそんなに難しいものではない。

「それ、俺が当ててみようか? 高瀬が書こうとしている志望校、俺には確信がある」


「じゃあ私も当てる」と彼女は勝ち気になって言う。「神沢君が消去法で一校に絞るなら、しかない」


 1、2の3で言い合うことになって、「鳴大めいだい」と、二つの声は重なった。


 俺たちの住む街には小規模ながらも国立大学が置かれている。しかし小規模といっても国立大学は国立大学なので、主要学部は一通りそろい、偏差値も高く、合格するのはそう簡単なことではない。鳴大とはそこの略称だ。


「やっぱりな」と俺は言った。「高瀬ならそうだと思った」

「どうしてわかったの?」


「この街を誰よりも愛している。この街で暮らす人々も愛している。愛するあまりこの街を守るため政略結婚まで受け入れてしまった。そんな子がどこか他の街の大学を志向するはずがない」


 高瀬はうれしさと照れくささが混在したような笑みを浮かべた。それから言った。

「神沢君が鳴大を志望する理由は、言いにくいけど、お金だよね?」


「ああ。前に話した大学入学計画は、国公立大学の文系学部を想定してのものだ。授業料の高い私立大学はもちろん、同じ国公立でも、理系学部を目指した途端その計画は頓挫とんざしてしまう。下宿代のかかる他の街の大学なんて元から論外だ。つまり望む望まないに関わらず俺が行ける大学は地元の国立・鳴大しかないということになる」


「それじゃあふたりとも、『目指せ鳴大!』ってことだね」

 進学塾の広告にそのまま使えそうな笑顔で彼女は言った。握り拳のおまけまで付いている。


 ということは、と俺は心でつぶやいていた。ということは、絶望的な状況から大学を目指すってだけではなく行き先まで同じだっていうのか、と。


 俺は高瀬と一緒に鳴大のキャンパスを歩く姿を想像して、それはなんて極上な未来なんだろう、と興奮した。


「いけない」彼女の声が高揚を鎮めた。「もうこんな時間。神沢君、夜は居酒屋のバイトだよね?」


 俺は時計を見る。たしかに準備やらなんやらがあるから、そろそろ帰らなきゃいけない。

「ああ。今日はおしまいだな。勉強お疲れ様」

「うん。また明日、お願いします」


 俺たちは机に広げていた教科書やノートをバッグにしまうと、淡い光を発するヒカリゴケに別れを告げて、秘密基地を後にした。


 ♯ ♯ ♯


 高瀬の様子がおかしくなったのは、正面玄関の下駄箱まで来た時だった。歩くのを急にやめ、周囲をきょろきょろと見回している。


「どうした、高瀬?」

「あのね、私たち、教室でちょっとになっちゃってるでしょ? だから……」


 恥ずかしそうに頬を赤らめ言いよどむ彼女を見て、俺はようやく察する。このままでは二人きりで一緒に帰ることになるのだ。誰かにそんな場面を見られたら、せっかく下火になってきた噂をむざむざ再燃させてしまう。


「気付かなくて悪かった」俺は鈍さを詫びた。「どうする高瀬。先に行くか?」


 彼女は口を結んで考え込む。部活動が終わる時間にはまだ早いから、付近に人がまばらなのが救いだ。


 俺が全速力で走り去ってもいいよ、と口にしようとした矢先、高瀬は毅然きぜんと歩みを前へ進め、上履きを脱ぎ革靴に履き替えた。そして、言った。


「これまで一緒にいて方向だって同じなのに、別々に帰るのもなんか変だよね」暖かい風が外から吹き込み、彼女の髪と制服をはためかせる。「神沢君、一緒に帰ろう」


 凛としたそのたたずまいに、惚れ惚れしてしまう。実際、惚れているけれども。


「神沢君、一緒に帰ろう」

 高瀬はたしかにそう言った。これは幻聴じゃない。その言葉の持つ意味はもちろんとても大きい。


 少しだけ、時の流れが止まった気がした。


 表情がだらしなく緩むのを、どうにかして抑えなければならない。

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