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第10話 いつまでだって輝き続ける 2


 林間学校が終わり、また高校へ通う日々がやってきた。


 教室での高瀬は顔色もすこぶる良く、疲れが残っているのを少しも感じさせなかった。


 俺と高瀬がヒカリゴケの洞窟で身を寄せ合って一夜を明かしたという情報は、1年H組の生徒であればもちろん誰もが知るところであり、俺たちは事実・虚構・憶測の入り混じった混沌とした風評に晒されることになった。


 それでも太陽と柏木の協力もあり、なんとかうまくやり過ごすことができたように思う。


 ただそんな状況だから、教室内で高瀬とフランクに会話することは難しくなってしまった。


 俺としてはいたわりの言葉の一つでも彼女にかけてやりたいところだったが、それをやるとゴシップ好きの連中に冷やかしを入れる材料を与えてしまうことになる。


 俺は高瀬のそばに近寄ることさえ、自重せざるを得なかった。


 そしてよりによってと言うべきだろう。この日から我らが鳴桜高校では学力コンクールなる成績には一切の影響を与えないにもかかわらず体裁だけは定期考査と同じという、進学校ならではの七面倒臭い行事が行われていて、放課後も高瀬と会うことは叶わなくなってしまった。


 元は接点の多くない二人である。


 そうなってしまうと同じ教室にいても高瀬が遠く感じられて、凍えそうな寒さと強烈な空腹の中、ひとつの栄養食品を分け合って洞窟で様々なことを語り合ったのがはるか昔の出来事のように思えてしまうのだった。


 ただ、忘れてはならない。


 俺は緑の光に見守られるなか、たしかに彼女に約束したのだ。

「トカイの次期社長との結婚をぶち壊し、君を大学に行かせる」と。


 冷静になると、それにしても、と思う。それにしても俺は、大変な約束を高瀬と交わしてしまった。


 業務提携のためのトカイとの政略結婚をやめさせて、それでいてタカセヤとトカイに就業している人たち、それに加えその家族の生活までも守らなきゃいけない。


 この街の経済や流通のしくみなんて、そこら辺を飛んでいるカラスの方が詳しいかもしれないくらいの俺に、果たしてそんな大それたことができるだろうか?


 俺はどちらの会社の関係者でもなければ、市長でも市議でも町内会長ですらなく、この街のなんらかの決定になんの関与を持たない一介の高校生に過ぎない。


 現実的に考えれば誰が聞いたって「なにを馬鹿なことを」と一笑に付すだろう。


 近くの席の女子生徒と談笑して無邪気な笑みを浮かべる高瀬を見やり、俺は重いため息をついた。


 いっそのことあの宣誓は俺の幻想か、あるいは夢の中の出来事であった方がよかったんじゃないだろうか。


 高瀬をその気にさせるだけさせておいて、最後は「やっぱりゴメン、無理だった」となってしまっては、高瀬も俺もハッピーエンドで高校生活を締めくくることはできない。


 しかし具体的な妙案など持ち合わせていない現状のままでは、三年後の春にそうなってしまう可能性は非常に高いわけだ。


 相変わらず高瀬は背負っている荷物の重さとは裏腹に、痛々しいほど軽やかな笑顔を見せていた。それを目にするたび、約束を果たすために乗り越えるべきハードルの数や高さを想像し、心が折れそうになる。


 ただ今であれば、高瀬の笑顔は、もう一つの気持ちを俺の中に喚起させる。


 俺は高瀬を救うべく崖から転がり落ちていくなかで、彼女の笑顔をもっともっと記憶に収めたいと願ったのではなかったか? それはなにも向こう三年間に限ったことではなく、高瀬が高校卒業後も――20歳になっても30歳になっても――俺に向けてくれる笑顔だってその候補ではないのか?


 ならば飛び越えなければならない。それがどんな困難なハードルであったとしても。


 高瀬はヒカリゴケの洞窟で言ってくれた。「神沢君はもう少し顔を上げて生きていい」と。そしてそれは、伏し目がちな渡世を余儀なくされていた俺にとって、どれだけ大きな言葉だったか。


 であればやはり、弱気になっている場合じゃない。お返しをしなきゃいけない。


 なにがなんでも高瀬との約束を果たそうじゃないか。


 俺はあらためて彼女の笑顔を見て願う。

 あの洞窟での誓いが幻想ではなかったことを。

 高瀬が俺を信じて大学進学後の未来を真剣に考えてくれていることを。


 いざとなれば、と思って俺は奥歯に力を込めた。いざとなれば、世界中を敵に回してでもなんとかしてみせるさ。


 だって俺は君と違う未来を歩むなんてこと、ちっとも考えられないんだから。


 君が俺の“未来の君”であろうと、そうでなかろうと。



 ♯ ♯ ♯



 退屈な学力コンクールが終了し、一週間ぶりに放課後の自由活動が解禁となった。


 気がつけば六月ももう下旬。真夏の到来がもうすぐそこまで迫っている季節だ。


 俺は当番の掃除を終えると、校舎の隅にある旧手芸部室に足を運んでいた。我々の“秘密基地”である。


 少しだけ緊張して部屋に入ったけれど中には誰もいなかった。ただ代わりに、否が応でも目を引くあのヒカリゴケがガラスケースに入れられて、備え付けの棚にぽつんと置かれていた。さしずめこの春のといったところだろうか。


 そして壁には、柏木が葉山病院で俺に見せてくれた新聞の切り抜き記事が張られている。こういう演出を思いつく人間は俺には一人しか思い浮かばないが、その気立ての良い悪友は黒板に「活動再開日しょっぱなから悪いが、今日はライブだ。公欠にしといてちょ」とどこまでも暢気のんきな字でメッセージを残していた。


 久しぶりにメンバー四人が揃った上で林間学校の総括がなされることを想定していた俺は、すっかり拍子抜けしてしまった。


「なんだよ」とつぶやき長テーブルにバッグを放り投げると、ネクタイを少し緩めながら席に座り、だらしなく天を仰いだ。


 外にはきれいな青空が広がり、開け放たれた窓から入り込む暖かい風が肌を撫でていく。ランニングをしている野球部員の猛々しい掛け声や、吹奏楽部室から漏れ聞こえる楽器のチューニングの音は、自分が日常に帰還できたことをしみじみと実感させる。


 気分は、なかなか爽快だ。


 そんな風に俺が一人で初夏の風情に浸っていると、芝桜を踏まぬようそっと歩くような慎み深さに満ちたノック音が耳に届いた。


 彼女だろうな、と思い待っていると、案の定高瀬が現れた。

「神沢君、ひとり?」


「ああ、これ」俺は取り急ぎ姿勢を整え、黒板を指さした。


 彼女は「しといてちょ」でくすりと笑い、「葉山君もいないんだ」と言った。


「も、ってどういうこと?」

「晴香、帰っちゃったから。お店の手伝いがあるとかで」


 太陽も柏木も帰ってしまった。ということはどういうことか。高瀬もそれがわかったらしく、あからさまにもじもじした。

「あ、あのね!」

「うん?」


「神沢君。本当にいろいろとありがとう」と言って彼女はお辞儀をした。「同じ教室にいるのに、直接口で感謝を伝えるのが遅くなって、ごめんなさい」


 かまわない、というように俺は手を振った。

「いや、これで正解だよ。今は教室では会話をしない方がいい。H組の奴ら、あることないこと好き勝手言うんだから」


「ね」高瀬は気まずそうに笑う。「なんか私たち、噂になっちゃったね」


「まったく、どうしようもない。こっちは命だって危なかったっていうのに……」

 そうは言いつつも、他でもなく高瀬との浮いた噂は、あながちまんざらでもなかったりする。


 高瀬は戸を閉め、長テーブルを挟んだ俺の向かいの席に座った。そして嬉しそうに棚を眺めた。

「あれ、飾ることにしたんだね」


「らしいな。永久に光り続けるヒカリゴケ。世界中のこけ研究者が今あの洞窟の調査に躍起になっているそうだ。ある意味本当に宝物だったな」


 高瀬はうなずくと「新聞記事まで張ってあるんだ」と苦笑いしながら言った。


「大将殿、今回の件で全然懲りてないみたいだぞ。先が思いやられる」

「ふふっ、葉山君らしいね」


 それから俺たちはこの一週間のあいだに遠ざかってしまった距離を縮めるように、しばしとりとめのない話をした。購買部の幻のきなこメロンパンのことだったり、末永の新しい恋のことだったりを話した。


 しばらくしてだいぶ打ち解けてきたところで、高瀬は俺の目をまっすぐに見てこう切り出した。

「あのね、神沢君。実は折り入ってお願いがあるの。聞いてもらえるかな?」


 なんなりとお申しつけください王女様、と俺は心で言う。私は今やあなたの願いを叶えるためにこの世に存在していると言っても過言ではないのですから、と。


 俺がうなずいたのを確認すると、高瀬はスクールバッグの中から数冊の教科書とノートを取り出した。二つの瞳には、ヒカリゴケの洞窟で大学の話をしていた時と同じ輝きが広がっている。


 彼女は言った。

「一学期中間テストの勉強、私、ふて腐れていてさぼっちゃったから、いまいちあの範囲わかってないんだよね。でも大学受験の基礎になるところだから、このまま放っておいちゃだめ。しっかり身に付けないと。だから神沢君。一から教えてください」


 高瀬があの約束が果たせると信じない可能性だってもちろん考えたが、どうやらそれは取り越し苦労だったようだ。大丈夫だ。俺の言葉は、誓いは、彼女の中できちんと呼吸をしている。


 もちろん俺は最大限の笑顔でその願いを聞き入れた。


 暖かい風が二人の肌を撫でていく。


 気分は、とても爽快だ。


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