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第8話 みんな私の本当の顔を知らないだけ 4


 苛酷になっていく黒川さんへの攻撃を見て、高瀬の心に罪悪感が芽生えなかったわけではなかった。彼女は何度も担ぎ手に「そこまでしなくても」と声を掛けたが、一度発生したのうねりは、もう誰にも止めることができなかった。


 高瀬は神輿の上にいるのが苦痛でしかなくなった。彼女は神輿から降りることを決めた。


 黒川さんへと向かっていたエネルギーが行き場をなくし、噛みつく相手を探していた時、とある事件が立ち位置の危うい高瀬に降りかかった。


「神沢君。昔の話だけど、タカセヤ大通り店でパンに針が入っていた事件、覚えてる?」


 小学生の頃そういえばそんなこともあったな、と思い出して俺はうなずいた。


 最初は客を疑ってたのに、結局犯人は身内、会社に恨みを持った社員だったということで、各方面からごうごうと非難を浴びたはずだ。その事件のせいで多くの客がトカイを中心とするライバル店へ流れて、童心ながらに、消費者ってのは現金なものだと刻みつけられたものだ。


「毎日のようにテレビや新聞で報道されていたから、私に対する風当たりも強くなっちゃって、嫌がらせとか陰口とか、いじめみたくなったんだ。参ったなと思った私は、本当に心を入れ替えなきゃ、って決意したの。黒川さんのこともあったしね」


 目を丸くする俺を見て、いじめと言ってもそんなに激しいものじゃなかったよ、と高瀬は付け加えた。なんだかんだ言っても、タカセヤの令嬢という強力な看板が、盾になったという。


 結果から言えば、その事件は高瀬にとって心機一転する良い機会になった。彼女はどんな時も笑顔を心がけ、他者に対するいたわりを忘れず、何をするにも自分を押し殺すようになった。面倒なことほど率先して引き受けていった。


 俺たちのよく知る「良い子ちゃん精神に溢れた優等生・高瀬優里」ここに誕生、である。


 効果はすぐに現れる。彼女はもう攻撃する側にもされる側にも立つことはなくなった。神輿に乗ることも担ぐこともなかった。だからといって孤独でもなかった。多くのクラスメイトと良好な関係を築くことができた。


 王女の地位と引き替えにして、彼女は穏やかな日々を手に入れたのだった。


「人間と人間の関係って、本当に難しくて、不思議だよね。そんな些細なことで驚くほどガラッと変わっちゃうんだから。それで今では、すっかりその処世術が身に染みついちゃって『良い子過ぎる』なんて言われる始末。鳴桜高校にもね、小学校の頃の私を知っている子が何人かいるけど、みんな私の変化に驚いていると思うよ」


 俺と彼女は案外似たような過去を歩んできたのかもしれないな、と思った。努力をしてまで深い人間関係の構築を望まなかった幼少時代。自分には直接非の無い、身内の起こした事件、それによる掌返し、逆風の発生。


 ただ、そこから先が俺と高瀬とでは違っている。


「ひとつ聞いてもいいかな」と俺は言った。「タカセヤの事件があって、それまでは味方だった連中が離れていった時、高瀬はそれを受けて、人を嫌いにはならなかったのか?」


「え?」と真顔で返ってきたので、補足を入れる。


「いや、高瀬も知ってると思うけど、俺も親父が事件を起こしたことでいろいろあって人間不信になったからさ」


 高瀬はすぐに「そこまで言わせてごめん」という申し訳なさそうな顔をした。それから答えた。

「私は、嫌いにはならなかったかな。なんて言えばいいんだろう、そういう理不尽さも含めて人間みたいなところ、あるのかなって」


 気取っているわけでも、誰かの顔色を窺っているわけでもない、語り口だった。


「そういう理不尽さも含めて人間」

 その言葉を頭で繰り返す。だが俺は彼女ほど考え方に柔軟性がないようだ。悪いところだ。ちっともそれに、共感することができない。


 自分もそんな風に思えたら、少しは違ったんだろうか? そんな思いが気を滅入らせる。


 俺が自己嫌悪に陥っていると、高瀬が覗き込むようにこちらの顔を見て口を開いた。


「私はね、人生で起こることには全て、何かしらの意味があると思っているんだ。そう考えでもしないと、楽なことばかりじゃない人生だもん、前に進めないじゃない? 黒川さんの件は、私、本当に反省している。でも、あれがなければ、私はもっと天狗になって、思い上がって、だめになっていたと思う。


 だからね、神沢君もお父さんの事件があってつらい思いをしてきたと思うけれども、それがあったおかげでプラスになっている部分もあると思うから、これからはもう少し顔を上げて、ポジティブに生きてみてもいいんじゃないかな」


 彼女の目には俺がうつむいて毎日を過ごしているように映っているのかと思うと複雑な気持ちになるが、これまでの自分を省みるに、それは仕方のないことだった。


「ごめん、神沢君はじゅうぶん前向きか。大学に行くため頑張ってるんだもんね。これ、お節介だったね」


 高瀬が発言を悔やむように早口で言ったので、俺はすかさず口を開く。

「いや、お節介だなんて、とんでもない。そんな風に誰かに言ってもらったのは初めてだ。うれしいよ。高瀬が言うのなら、生きてみようかな。顔を上げて、ポジティブに」



 ♯ ♯ ♯



 外では依然として雨が降り続いていた。


「なんだかわかんなくなっちゃったな」と高瀬が言ったのは、俺が十度目の見回りを終えて洞窟の奥に戻った時だった。「もうどれが本当の自分なのか、わかんないや。なんでも完璧にこなしてみんなにもてはやされる自分。そんな自分が大好きだった自分。黒川さんに『腹が立つ』と言ってしまった自分。自己犠牲に徹するあまり、ついには結婚話まで受け入れてしまった自分。テストの結果で親と大喧嘩して内緒で大学を受ける気でいる自分」


 高瀬はそこで言葉を切り、もう一度「わかんないや」と言った。雪原の中から一粒の塩を探すような、途方に暮れた声色だった。


 それを聞いて俺は、太陽と柏木の姿が脳裏に思い浮かんでいた。あの明るい二人にも他の誰も知らない、俺だけが知る一面がある。


「誰だって本当の自分なんてわからないよ」と俺は言った。「わからないまま進むしかないんだよ。でもそれでいいんじゃないかな。人間にはいろんな顔がある。太陽や柏木だって、ああは見えても、いろんな自分に驚きながら、そして恐れながら、時にそれを使い分けたりして毎日を生きている」


「神沢君も?」と高瀬が尋ねてきたので、俺は就寝前にベッドで高瀬や柏木のあまり道徳的とはいえない姿を想像してしまう自分を思い出し、「ああ」と首を縦に振った。少し顔が火照ほてる。


 高瀬はまだ自分だけが原因不明の奇病にむしばまれているような顔をしていた。俺は彼女のため言葉を継ぐ。


「一つはっきりしているのは、崖で柏木を優先して助けるよう訴えた高瀬は、まぎれもなく本当の高瀬だということだよ。あの場面は誰への贖罪しょくざいも、猫をかぶる必要もなかったはずだ。純粋に友達を思いやる心があの行動を生んだんだ。やっぱり高瀬は良い子だよ」


 彼女はすぐに否定しようとする。俺はそれを手で制する。


「子どもの頃の過ちなんて誰にだってある。でも高瀬はそこで改心した。実際にいじめに加担したのはまわりの人間だからと開き直ったっていいのに、そうはしなかった。楽な道を選ばなかった。それは簡単なことじゃないよ」


「でも黒川さんはピアノをやめてしまった」


「こうは考えられないかな」と俺は両手を広げて言った。「ピアノはやめたかもしれないけれど、転校した先で、人間関係には恵まれたって」


 どういうこと? と言いたげな彼女に解説をする。


「いつも一人だった黒川さんは、高瀬が話し相手になったことが、とても嬉しかったと思うんだ。いくら大人っぽかったとはいえ、小学五年生だろ? 人並みに友人の一人や二人、欲しかっただろうさ。高瀬と交流したその経験が、喜びが、転校先で活きて、黒川さんは孤独を貫くのをやめることになった。もちろん、推測の域は出ないけど」


 孤独の時代が長かった俺だから、黒川さんの気持ちはなんとなくわかるのだ。


「学芸会の日の壇上での一言を“罪”とするならば、償いはもう充分済んだと思う。だって心を入れ替えた高瀬のおかげで、俺を含め多くの人が助けられてきたんだから。そんなわけで高瀬は『本当の自分は世界で一番良い子だ』くらいに思っていいんだって」


「さすがにそれは、言い過ぎでしょ」

「それじゃあ俺たちの街で一番、に訂正しようか」


「どうしたの」高瀬は不思議そうに首を傾けた。「こう言っちゃ悪いけどさ、なんだかさっきから、神沢君っぽくないよね」


「さっそく、顔を上げてポジティブに生きてみたつもりなんだが」

「似合わないね」

 くすっと笑ってそう言う彼女の今の表情には、光だけではなく影もあった。


 高瀬がもし黒川さんの件で魔女裁判にかけられるのなら、俺は黒騎士となってでも彼女を守ってやる。そう誓う。俺は決して善人じゃない。どうせこの地域にあっては、ヒールとしての役割をになわされているのだ。たとえ罪を抱えていたとしても、俺にとって高瀬優里は高瀬優里だ。


 高瀬の闇を知った。

 高瀬の毒を知った。

 高瀬の罪を知った。


 その心に、少しだけ触れた気がした。


 彼女により惹かれているのは、否めない事実だ。

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