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第7話 あなたがマントを差し出すならば 2


 俺はすぐさま二人の元へと駆け寄った。


「ちくしょう! 気付かないうちにこんな場所を歩いてたってのか!」

 太陽も言うが早いか懐中電灯を放り出すと、俺に続いた。身をかがめ、二人で高瀬と柏木の救出に取りかかる。


「ダメっ」高瀬はその手を払いのける。「まずは晴香から助けて!」


「それじゃあ高瀬はどうなる!?」俺は叫ぶ。


 ここで高瀬を先に救えば柏木がどうなってしまうかは明らかだが、だからと言って高瀬だっていつ落下してもおかしくない状況なのだ。見れば彼女の右手は震え、今にもちぎれてしまいそうだ。


 そしてついに柏木が掴んでいた根っこが抜けて、事態は差し迫ってしまう。


 末永はなにやらわけのわからないことを喚き、ひたすら慌てふためいている。彼女の力添えは全く期待できそうにない。


 俺と太陽は顔を見合わせ、高瀬も柏木も助かる小さな可能性に懸けることにした。


 まず柏木の救出を優先する。俺が高瀬と同じく左手、太陽が右手を掴み、柏木の体を引き上げていく。暗い中でも、瞳の状態は確認できる。


「あたし決して、死にたいわけじゃないんだよ――」

 夕陽に染まる屋上での柏木の言葉を思い出す。大丈夫だ。瞳には生への執着が息づいている。


 順調に柏木の体が浮上してきたと思ったのも束の間、途中で彼女が着ているコートに小枝のようなものが引っかかり、うまく上がらなくなってしまう。ふと崖の方に目をやると、そこには急斜面が闇の中へとどこまでも無慈悲に広がっており、俺をぞっとさせる。


「高瀬、もう少しの辛抱だからな!」

 右手を柏木から離すまいと俺の隣で必死に耐える高瀬に声をかけ、励ます。高瀬だけを助けるなら難しくないのだが、それができないのが、えらくもどかしい。


「悠介、こうなったら『いっせいのせ』で力を込めて、一気に引き上げるぞ!」

「わかった」


「行くぞ! いっせいの、せいっ!」

 力を両手に集中させ、柏木を闇からすくい上げる。彼女の動きを封じていた枝が折れる音が聞こえ、この作戦が成功したことがわかる。


 二人とも助けることができる可能性――それは、柏木を引き上げると同時に、高瀬をこちらへ引き寄せるというシナリオだった。ただ、その「同時」のタイミングがいつなのか、その見極めは容易なことではない。少し誤ればどちらか一人はおろか、二人とも助けられない、というリスクをはらんでいた。


 浮上する柏木を見て、俺は「その時」が来たと判断し、太陽に目配せする。彼はうなずく。そして最後の力を振り絞る。俺は右手を柏木から離し、高瀬を抱き寄せようとする。


 しかしほんのわずか――時間にして瞬き三回分――俺の期待より若干早く、高瀬の限界が来てしまった。


 柏木と入れ替わるかたちで、俺の隣にあった高瀬の体がふらっと崖側へ流れ、重力に逆らうことなく、視界から遠ざかっていく。


 高瀬は柏木が無事に救出されたのを見届けるように、視線をこちらへ向けた。そして俺と目が合ったのを最後に、そのまま呆気なく、あまりにも無力に、斜面に放たれた球体のように、身を丸くして転がり落ちていった。


「高瀬っ!」

 彼女が闇の中へ消えていくのを目の当たりにして、俺は一つの決断を瞬時に下していた。


「悠介っ! 何考えてんだっ! 馬鹿野郎、死ぬぞ!」

 そんなことを太陽は言ったような気がする。とりわけ、最後の言葉が背中に突き刺さり、それに呼応するように俺は強く叫んだ。


「俺たちは死なない!」


 俺は歯を食いしばって、暗黒へと身を投じる。優柔不断な俺ではあるけれど、この時ばかりは取り得る他の選択肢など、一つとして思い付かなかった。


 急な斜面を転がり落ちていく。


 冬のコートを着込んでいるとはいえ、全身が煮立つような激烈な痛みが体を襲う。頭を守り、目を閉じる。土の匂いを鼻が拾い、砂か草か小石か、とにかくそういった何かが口に侵入する。もし倒木が途中にあり、鋭利な面をこちらに向けていたなら、俺の腹は貫かれてしまうだろう。そんなことを考えると、小便をちびりそうになる。


 俺の心身を守るためなのか、主である俺の意思を無視して、意識は次第に遠ざかっていく。


 薄れゆく意識の中で、俺はこれまで高瀬が向けてくれた数々の微笑みを思い出していた。その全てが可愛くて愛おしくて、まだまだギャラリーに彼女の笑顔を増やしたいという欲求が貪欲にも芽生えてくる。


 高瀬を死なせない。

 そして俺も死なない。


 強くそう心に刻みつけたところで、眠りとは似て非なる無意識の世界へと、俺は落ちていった。



 ♯ ♯ ♯



 気がつけば俺は大きなスクリーンを前にして椅子に腰掛けていた。現実の世界ではないことくらいはすぐにわかる。まるで金縛りにかかっているみたいに、体を動かすことはできない。


 しかし首と目だけはかろうじて言うことを聞いてくれる。周囲を見渡す。ここはどうやら映画館であるらしい。俺以外には誰一人として観客はいない。状況がよくのみ込めない。俺は仕方なく前方へと顔を向ける。


 俺の目が覚めたのが合図になったかのように、フィルムが動き出すというノスタルジックな音がどこからともなく聞こえてくる。それに伴ってそれまで真っ暗だったスクリーンにも、生きた映像が再生されていく。


 何かの物語が始まった。


 小さな街の中央広場には、気品ある王女の像が立っている。凛々しくとても美しい。両目や王冠、携えているダガーナイフなどの各部位は宝石で出来ており、背中には高級なシルクでられたマントが掛けられていた。


 皆の目を引く王女の像は街の人々に愛されていたし、また王女の像も街の人々を愛していた。


 驚くべきことにその王女の像には〈心〉があったのである。


 ある時大きな飢饉ききんが街を襲い、人々は嘆きの声を上げるようになった。

「このままではこの街は滅びてしまう」


 心優しき王女の像はそれを聞き、哀しみの涙を流すのだった。


 そんな王女の像で雨宿りをしていた一羽のツバメがいた。自力では動くことのできない王女はそのツバメを頼ってある願いを託した。

「ツバメさん。私の体の宝石を、この街の人たちのために、届けてあげてはくれませんか?」


 そのツバメには街の人々に石を投げられた苦い過去があり、人のことが大嫌いだった。無愛想でひねくれ者ともっぱらの評判だった。ツバメは言った。

「王女様。この街の人々は愛するに値しません。身を切ってまで助けるほどのことはないでしょう」


「そんなことありませんよ、ツバメさん」と王女は優しく言った。「この街の人たちは愛すべき存在です。私はこの街とここで暮らす彼らが大好きなのです。さぁ、どうかお願いです。この宝石を持って行ってくださいな」


 ツバメは仕方なく王女に頼まれた通り、彼女の体を構成するルビーやダイヤモンドなどをえぐり出し、街の人たちの元へと届けていった。


 それでも全ての人が飢えや苦しみから救われたわけではなかった。依然として王女の耳には、人々が街の未来を絶望視する声が入っていたのである。


 瞳を失い、涙を流すことすら叶わなくなった王女は、ツバメにこう言った。

「ツバメさん、これが最後のお願いです。私の背中のこのシルク織りのマントも街の人たちの為に役立ててくださいませんか? 売れば結構なお金になるでしょう」


 ツバメはそれに呆れて返した。

「王女様、冬はもうほんのそこまで来ていますよ。そんなことをしたら王女様が凍え死んでしまいます。どうかお考えを改めてくださいませ」


 人の心の醜さを身をもって知るツバメは、どうしてそこまで王女が自己犠牲を払って街の人々を救おうとするのか、少しも理解できなかった。


「よいのですよ」と王女は言った。「私が愛するこの街の人たちを救えるのなら、それが本望というものです。ツバメさん、どうかこのマントを持って行ってください」


 今まで会ったどんな人間よりも清く美しい心を持つ王女に、ツバメはすっかり心を打たれた。そしてこう言った。

「王女様がそこまで言うのなら仕方ありません。ただし、あなたがマントを差し出すならば、私は家を建てましょう。石を積み上げただけの小さな家でも、冬の寒さはしのげるはずです。それだけではありません。私が王女様の目となり足となり、時には剣となり盾となり、あなたを守ってみせましょう」


 王女に自らの思いと決意を話すと、ツバメはシルクのマントをくわえ、鈍色の空へと飛び立っていった。


 物語はそこでおしまいだった。


 俺は涙を流していた。なぜかはわからない。頬をいくつもの生暖かい雫が伝って落ちていく。まるで牡丹雪ぼたんゆきが降り積もっていくような、どっしりとした重みを、胸の深い場所に感じる。


 その王女の像とツバメがその後どうなったのかはわからない。美しさを失った王女の像は人々に裏切られてで溶かされたかもしれないし、ツバメが家を建て終わる前に冬が来て王女は凍え死んでしまったかもしれない。


 俺は涙の中でただ願う。


 王女とツバメが石造りの小さな家で身を寄せ合いながら幸せに暮らす未来が彼らの元に訪れることを。


 そんなハッピーエンドが、たまにはあってもいいじゃないか。

 心の美しい者が馬鹿を見るような結末は悲しすぎるんだ。


 物語の世界でも、現実の世界でも。

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