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第4話 アヒルの群れで育っても空は飛べる 3


 そのような状況下にある人間に遭遇した際に、どんな第一声をかけるのが正解なのか。


 そういう知識を俺が持ち合わせていればよかったんだろうけど、残念ながら何も思い付かないので、とりあえず名前を呼ぶことにした。


「柏木」

 驚かせて惨事にならぬように、しかし確実に聞こえるように、声量を調整する。

「そんなところでなにしてるんだよ?」


 彼女は縁の部分でこちらに振り返った。そして肩をすくめた。

「どうして悠介がこういう時に来ちゃうかなぁ」


「とりあえずこっちに来い。馬鹿な真似はよせ」

「馬鹿な真似って?」とぼけるように彼女は言う。


「どう考えたってそこから――」飛び降りるところじゃないか、と言いかけてやめた。何が引き金になるかわからない。「柏木。そこで足を踏み違ったり、バランスを崩したりしたら、どうなるかわかるよな。とにかく、こっちに来い」


「大丈夫。ここね、意外と余裕あったりするのよん」

 彼女は戯けてそう言い、そこで平然とフラメンコを踊ってみせた。

「オーレ!」


「やめろ馬鹿、死にたいのかっ!」


 柏木は無表情でこちらを見つめると、体を反転させ、再び俺に背を向けてしまった。 


 身の毛がよだつとはよく言ったものだと、場違いながら感心していた。恐怖で体毛がぞっと逆立つ感覚が、本当にあった。


 もはや傍観していられなかった。俺は駆け出して、柏木との距離を一気に縮めた。


「ねぇ悠介」と彼女は背中越しに言った。「人ってなんで生きてるんだろうね?」


「なんでって……」

 そんなこと、一介の高校生に過ぎない俺が知るはずがない。でもなにか答えなきゃいけない。

「ある意味、それがわからないから、生き続けるんだろ」


「わからないから生き続ける、か」柏木は再びこちらへくるりと振り返った。「ねぇ悠介。あたしがここから飛び降りたらダメ? 死んだら、悲しんでくれる?」


「悲しむさ、そりゃあ。だから飛び降りたらダメだ」

 こんな状況では、相手がたとえ囚人だって、そう言わざるを得ないだろう。


「それじゃあ、あたしと恋人になってくれる?」

「今はそんな状況じゃないだろ。なんでもいいから、早くこっちに戻ってこいって」


「やだ。恋人になってくれなきゃ、鹿、する」

「くだらん冗談はやめろ」

「くだらん冗談じゃない」と彼女は真剣な顔つきで言い切った。


 俺はあたふたする。

「か、柏木。そ、その、恋人になってほしいっていう気持ちはうれしいよ。でもだな、とにもかくにも、まずはこっちに……」


 そこで柏木は身をよじらせて、くくっと笑い始めた。どうした? と俺が声をかけると、それが火に油を注ぐかたちとなって笑い声はますます大きくなり、ついには腹を抱えて笑うに至った。


「ごめんごめん、悠介」柏木は目元を指で拭う。「実はくだらん冗談でした。ほんっとゴメン。もう、かわいいんだから」


 彼女はしばらく笑い続けると、何事もなかったかのように、長い脚で軽快にフェンスをまたいできた。パンツ見えたでしょ、と抜かす余裕もあった。


 たしかに淡いピンクの何かが視界に入ったが、堪能している場合じゃない。

「あのな。いくらなんでも、悪ふざけにしちゃ度が過ぎるぞ。俺をからかうのはかまわないけれど、もし突風でも吹いて体勢をくずしたりしたら、おまえは今頃――」


「ちっとも悪ふざけじゃないよ」と彼女はさえぎって言った。

「まだ続ける気か」


「そうじゃなくて」それはむしろ俺がなだめられているような口ぶりだった。「全部本気と言えば、本気なんだよ」

「はぁ?」


 冗談だと言ったかと思えば、今度は本気だと言ったり、もうわけがわからなかった。

「どうしたっていうんだよ。いったいなにがあったんだ? 今日は朝から普通に授業を受けて、昼休みには四人で未来のため協力しようと盛り上がって、五限目はいつものように気持ち良さそうに居眠りして、その流れで、なんでこうなっちゃうんだよ?」


「あたしね、時々ふと、生きていることが恐くなるんだ」

 柏木はシニカルに微笑むと、フェンスにもたれかかり、幻想的な朱に染まる空を眺めながら言葉を続けた。

「なんかね、生きていていいのかな? っていう不安がぞわぞわと襲ってくるの。そういう時はよくここに来て、さっきみたいに、いつでも死んじゃえる状況をわざとつくって、そこに自分を置いてみるのよ。


 そうすると生きていても良い理由、ちょっとはわかるかもって思ったんだけど、今のところダメだね、さっぱりわかんない。あたしね、そこに立ってもちっとも恐くないんだ。風が強い日でも、横殴りの雨の日でも。おかしいよね、生きていることは恐くなるのに」


 生きていて良いに決まってるじゃないか、と言うのはとても簡単なことだった。しかしそれを口にしたところで、言葉が柏木に浸透せずに、宙に浮くのは目に見えていた。そんな安直な一言で解決するならば、そもそも彼女はこんな馬鹿げた行為を日常的に行うわけがない。


 人ってなんで生きてるんだろうね――。


 俺は無意識に先ほどの柏木の問い掛けをつぶやいていた。生きていることが恐くなると聞いた後なら、回答は変わったものになる。

「15年そこらしか生きていない俺たちに、生きている意味なんて、生きていて良い理由なんて、わかるかよ」


「悠介、知ってる?」と柏木はそれには反応せず言った。「あたしたちの生と死ってね、紙一重なんだよ。ホントにもうびっくりするくらい。たとえば今ここに空から隕石や飛行機が落ちてきたらあたしたち、まず間違いなく死んじゃうよね? 今はこんなに生きているのに。


 いつかの悠介の言い方を借りればさ、隕石や飛行機が落ちてくる確率って天文学的に低いかもしれない。でも決してゼロじゃない。そしてどの瞬間もそのゼロじゃない確率で死はあたしたちを待ち構えている。そう考えるとさ、毎日こうして生きていられるのって、奇跡だと思わない?」


「奇跡。まぁ、そうかもしれないな」

 今目の前にいるのは本当に柏木晴香だよな、と首をかしげる自分がいた。生に苦悩する別人が、彼女の身体に憑依して喋っているのかとすら思ってしまう。

「どうしたんだよ。なんだってそんな厄介なことを考えるようになった?」


「小学六年生の時にね」と柏木は言った。そしていつになく悲しい目で空を見上げた。「あたしのお母さん、自分で死を選んだの」

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