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第3話 たとえ行く先が行き止まりだとわかっていたって 3


「週に四日、四時間働く。稼いだバイト代の半分を大学進学用の資金として貯めていく。それを高校三年間続けると――」


 電卓に想定していた七桁のデジタル数字が並んだのを確認すると、俺はそれを高瀬と柏木に見せた。


「これだけの金があれば、国公立の文系学部なら、四年間通うのは無理でも一年目はなんとかなる。そしてそれこそが、魔法なんだ」


「魔法」と高瀬は神妙な顔で繰り返した。


 俺は深くうなずいた。

「居酒屋のバイトをすることで大学を受験し、入学し、さらに最初の一年を大学生として過ごせる可能性を生み出すことができる。この可能性を残すことで俺はそこから、毎日を生きる活力みたいなものを得てるんだよ。三年前に母親が家出して、親父が放火事件を起こして、俺は学校の中でも外でも居場所を失った。絶望しかなかった日々だった。そんな俺が今は希望を持って生きていられる。まさに魔法なんだよ」


「でもね、神沢君」と高瀬はこちらを憐れむような目で見て言った。「そうやってお仕事をがんばって大学に入っても一年しか通えないなんて――そこで行き止まりだなんて――それはとてもつらいことのように思うんだ」


 、と彼女は表現した。言い得て妙だな、と思って俺は自嘲気味に笑った。


「高校三年間に加え、大学一年の計四年。四年あればいつか、母親が約束を思い出してひょっこり大金と一緒に帰ってくるかもしれない。居酒屋の客が宝くじの当たり券を札と間違えて会計時に俺に手渡すかもしれない。もしくはそこの庭からドッと温泉が湧き出るかもしれない。いずれにしても、とても小さな可能性だろう。でもその可能性はゼロじゃない。つまり俺が大学に入学して卒業できる確率は決して、ゼロじゃないんだ。ゼロじゃない限り、1%でもある限り、俺はその可能性に賭ける」


 滅茶苦茶なことを言っている。自分でもその自覚はある。それでも行き止まりという言葉を聞くと、黙っていられなかった。


「人生なんて何が起こるか、わかったもんじゃない」と俺は続けた。「両親の件でそれを痛感した。でも崖下に突き落とされるような出来事が起こるのなら、起死回生でそこからよじ登れるような出来事が待っていたっておかしくないはずだ。高瀬の言う通り、現状では俺の未来には大きい壁が立ちはだかって、行き止まりになっている。でも、たとえ行く先が行き止まりだとわかっていたって、走り続けていたいんだよ。道が見えている限りは」


 俺が話し終わると、高瀬は中空の一点をじっと見つめた。なにかについて深く考え込んでいるようだった。おそらく俺の話の中に彼女を刺激するようなことがあったのだろう。でもそれがいったいなんなのか、そこまでの見当はつかなかった。


「ねぇねぇ、悠介」長い沈黙の後で、柏木が口を開いた。「優里のお願いを聞き入れたんだから、あたしのお願いだって聞き入れてくれるよね?」


「なんでそうなる」

「差別はよくない」柏木はわけのわからんことを言う。


「いちおう聞くだけ聞く。なんだよ、お願いって」

「あのさ、ママンの写真を見せてくれない?」


「母親の写真? なんでそんなもん見たいんだよ?」

「悠介のその仏頂面は母親ゆずりなのかなと思って」


「ふざけんな」


 そこで高瀬が思いも寄らぬことを口にした。

「私もちょっと興味あるな。あっ、仏頂面だっていう意味じゃないよ?」


 高瀬がそう言うなら仕方ない。俺はすっと椅子から立ち上がった。そして「差別だ」とわめく声を背中に浴びながら、棚からアルバムを取り出し、その中からいちばん写りの良い母が28歳頃の写真を抜き取った。

「ほら、これだ」


「うわぁ」と感嘆の声を上げたのは高瀬だ。「すごく綺麗な人。女優さんみたい」

「よく男に言い寄られてたよ」


 高瀬は写真と俺の顔を交互に見つめた。

「神沢君、お母さん似なんだね。とくに目尻なんかそっくり」


「そ、そう?」悪い気はしなかった。

「それに口元も」

「ほ、ほう?」


 そんな俺たちのやりとりを尻目に、柏木はなぜか険しい目つきで写真の中の母をにらんでいる。写真を見せろと言い出した張本人のくせして――普段はしゃべるなと言われてもしゃべるくせして――なんの感想も言わない。なんの冗談も飛ばさない。俺は首をかしげた。


「どうした柏木、らしくなく黙り込んじゃって。オバケでも写ってるのか?」


「……ううん。なんでもないの」

 彼女はそうつぶやくと、まるで臭い物でも遠ざけるみたいな顔で写真を差し戻してきた。


 今日の柏木の言動からするとおそらく――いや、間違いなく、彼女は俺の母親のことを知っている。


 それはいったいなぜだ? 俺の母と柏木にどんなつながりがあるというのだ?


「神沢悠介、あいつ、あたしの運命の人だ」

 どういうわけか彼女のその声が耳元でよみがえった。



 ♯ ♯ ♯



「あたしたちを見送りなさいよ」と柏木が当然のようにのたまうので、俺は二人と一緒に家を出た。


 夕焼けの中を三人でたわいない話をしながらしばらく歩くと、バス停の前で高瀬が立ち止まった。彼女はていねいに頭を下げ「神沢君。今日はごちそうさまでした」と言って自宅方面へ向かうバスに乗った。バスが見えなくなると柏木が俺の頬をつまんできた。


「なぁにニヤニヤしてんの、?」


「う、うるさいな」俺はその手を払いのける。「おまえも高瀬を見習って礼のひとつくらい言ったらどうだ」


「カレー、ごっちゃんっした」


 柏木は相撲取りの真似なのか、突っ張りをかましてくる。俺はその手も払いのけた。そしてどうしても聞きたかったことを口にした。

「なぁ柏木。おまえ、俺の母親のこと、知ってるよな?」


「さぁ?」

「とぼけるな」


「アタシ、ニホンゴわっかりません」

「いい加減にしろ」と俺は言った。「それなら答えてみろ。どうして小学校も中学校も違うおまえが俺の母親が家を出たことを知っていた? そしてどうして母親の写真を見て顔をしかめた? あれはまるで鬼の形相だった。なぜだ。答えろ」


 柏木はとたんに押し黙った。


 俺は続けた。「もしかしておまえは俺の母親がどこに、なんの目的で行ったのか、実はそこまで知っているんじゃないのか? だったら教えてくれ。あの人は今どこで何をしてるんだ!?」


 力士か外国人ではぐらかされることも覚悟したが、彼女は真顔で静かにこうつぶやいた。

「今はまだなにも話せない。まだじゃない」


 その声にはお願いだからあまり追及しないで、という響きがあった。それでも事が事だけに食い下がろうかどうか迷っていると、柏木が出し抜けに口を開いた。


「優里とは、恋に発展しそう?」


「な、なんだよ、急に」

「好きなんでしょ、優里が」と柏木は言った。「隠さなくたってわかりますよーだ。教室でいつも見てたの、やっぱり優里だったんだ」


 まずいぞ、という思いで胸が満ちる。柏木に高瀬への想いを知られてしまうのは、まったくもって望ましくない。しかしどうやら彼女は確信を持っているようだった。もうこれは俺がどう否定してみせたところで、信じてもらえそうにない。


「なぁ柏木。頼むから、どうか高瀬にはこのことは――」

 言わないでくれ、と続ける前に柏木は手のひらを突き出して笑った。


「はいはい、わかってるって。言いません言いません。ま、せいぜいがんばりなさい、恋する少年!」

 柏木は口角を上げて清々すがすがしくそう言うと、呆然とする俺を捨て置き、歩みを再開した。

「お見送り、ありがと。ここまででいいよ。それじゃね。バイバイ」


 俺の頭の中では大量のクエスチョンマークが躍っていた。俺には柏木晴香という人間がよくわからない。


 彼女は俺を運命の人と見なしているはずじゃないのか? そこには好きという気持ちも少なからずあるんじゃないのか? 俺は高瀬優里が好きだ。柏木はそれを突き止めた。なのに、なんだ、あのあっけらかんとした態度は?


 それにどうして母親のことを知っている? なぜ今は母親の行き先や目的についてなにも話せないのだ?


 よくわからないどころじゃない。さっぱりわからない。いくら考えてもわかりそうになかった。だから俺はもうこれ以上考えるのをやめた。


 そもそも俺の“未来の君”は高瀬だ。柏木じゃない。柏木のことをわかろうとする努力なんて無駄じゃないか。俺は自分にそう言い聞かせて、元来た道を戻った。

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