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第3話 たとえ行く先が行き止まりだとわかっていたって 2


「神沢悠介。あいつ、あたしの運命の人だ」


 キッチンでカレーの下ごしらえをしている最中、俺の頭の中では柏木のその言葉が繰り返されていた。


 授業準備室での柏木と末永の会話を聞いてしまってから、今日で一週間になる。


 柏木はあの日俺が準備室の外にいたことに気づいていないらしく、それまでと全く変わらない態度でこちらに接し続けていた。


 ただ俺の方は、自分のことを好きだという異性となんの気なしに会話ができるほど肝が据わっておらず、どこかよそよそしい対応をしていたように思う。


 もしかするとこの家庭訪問は柏木がそんな俺から何か不自然な匂いを嗅ぎ取ったがために、実行されたものなのかもしれない。


 彼女は準備室で末永に対しこうも語っていた。

「運命を感じたのは感覚的なものだけじゃない。それにはちゃんとした理由もある。あたしとこの人は運命で結ばれてる。そうとしか思えない。あたしが将来幸せになるにはこの人が必要だし、この人が将来幸せになるにはあたしが必要だ」


 その“ちゃんとした理由”とはいったいなんだろう? そこまで言うからには、彼女の中に明確なものがあるのだろう。この一週間のあいだ俺はそれについて考えてみたけれど、思い当たる節はひとつとしてなかった。


 高瀬優里と柏木晴香。


 一人は俺が運命を感じた女の子。

 一人は俺に運命を感じた女の子。


 気づけばいつしか俺と高瀬と柏木は、運命という言葉を中心点として三角形を形成している。


 老占い師は「数多くの運命めいた出来事が待っている」と予言していたが、それはこういった事態を指していたのだろうか?


 いずれにしても、他の家の大事なお嬢さんに変なものを食べさせるわけにはいかない。今は料理に没頭しよう。俺は頭から雑念を追い出して下ごしらえに集中した。



 ♯ ♯ ♯



「やるじゃん」

「専門店みたい」


 柏木と高瀬が出来上がったカレーを一口食べて、それぞれ感想を述べた。彼女たちの驚きの表情を見るに、どうやらリップサービスではないらしい。俺は安堵して自分のぶんを食べた。うむ。我ながら会心の出来だ。


「これなら本当に特上寿司より満足だよ」と高瀬は言った。

「いや、さすがにそれは言い過ぎでしょ」と柏木は言った。

「高瀬はお世辞で言ってくれてるんだよ」と俺は言った。

「お世辞じゃないよ」と高瀬は言った。「私、特上のお寿司は食べ飽きてるから、このカレーの方がよっぽど好き」


 俺と柏木はぎこちなく笑った。高瀬は社長令嬢だということを忘れてはいけなかった。


 柏木はカレーを食べ進めた。そして唸った。

「まぁおいしいのは間違いないね。料理に慣れてる人の味がする」


「もうかれこれ三年はここで一人で生活してるからな。いやでも料理に慣れる」


「三年」と柏木は手を止めて繰り返した。「中一からこの一軒家で一人暮らしってこと」


 俺はうなずいた。ここでたいていの人間はこう疑問に思うはずだ。両親はどうしたの、と。その答えを知る高瀬は気まずそうに咳払いした。そしてこの話題にこれ以上深入りしないよう、それとなく柏木に釘を差した。


 好奇心旺盛な柏木だけに黙っていることはないだろうな、と予測していたが、彼女が口にしたのは思いも寄らないセリフだった。


「あたし、知ってるよ。悠介が小六の時にお母さん、蒸発しちゃって、それがきっかけでお父さんが図書館に放火したんだよね」


「な、なんだよ。知ってたのかよ」


 俺は高瀬の方を横目で見やる。私はしゃべってないよ、という風に彼女は手を振った。もちろん俺も柏木にそのことを話した覚えはない。それではなぜ彼女は知っていたのか。父親の一件は全国ニュースでも報道されたからともかくとして、母親が俺を捨てて家を出たなんて情報を小中学校の違う柏木がどうやって入手したのだろう?


 あるいは俺に運命を感じた理由とやらに関係しているのだろうか?


 いつの間にか俺たちのあいだには重い空気がただよっていた。それを払うように高瀬は小さく一度手を叩くと、明るい声を出した。

「あのね神沢君。そういえば、一つお願いがあるんだ」


「お願い? なんだろう?」


「神沢君が校則を破ってまで夜遅くまで居酒屋さんでアルバイトをしているのは、たしか大学のためなんだよね?」


 俺はうなずいた。その通りだ。


「それってどういうことなのか、事情をくわしく聞かせてもらえないかな?」


 高瀬にこの家で頼み事をされるなんて、思いもしなかった。なぜ彼女がそんな話に興味があるのかよくわからないけれど、君が望むのなら俺はマリアナ海溝にだって潜るし、月の石だって持って帰ろう。身の上話くらい、朝飯前だ。


「生まれて初めて持った夢が、俺の場合、大学に行くことだった」と俺は切り出した。「ガキの頃から『将来は大学生になりたい』と思っていた。俺はキャンパスライフってもんに強い憧れを抱いていた」


 高瀬は授業中よりも真剣な顔つきでそれを聞いていた。俺も真剣に話し続けた。


「きっかけはいまいちよく覚えていない。大学を舞台にした青春映画だったような気もするし、友達と遊びに行った学園祭だったような気もする。いずれにしても、小さい時から自分は高校を卒業したらすこしでも良い大学に行くんだという信念を持って、勉強だけはしっかりしていた。でも母親が家を出て行って、そのうえ親父が放火事件を起こして、すべてが崩れた」


 俺は左右の手を広げてパーを作った。


「不幸中の幸いだったのは、逮捕された親父がある程度貯蓄を残していたことだ。計算してみると、俺が高校を卒業するまでの学費と生活費はなんとかなりそうだった。でもそれは、想定外の大きな出費が一切なければ、の話だ。未成年の少年が18歳まで過ごすなかで何が起きるかなんて、まったくわからない。生活を安定させるには、もう少し資金が必要だった。そして俺はそんな状況になっても大学は諦めきれなかった。ただ、言うまでもなく、大学こそ金がかかる。もちろんそんな余裕なんて家中ひっくり返したってない。そんなこんなで、とにかく金が必要な俺は、高校入学を機に時給の良い居酒屋で働き始めることにしたんだ」


 そこで柏木が小さく手をあげた。

「そこまでして大学に行きたいのって、どうして? いやね、夢だったのはわかるんだけど、もしあたしが悠介と同じ立場だったら、お金のかかる進学は諦めて就職しちゃうだろうなって思って」


 彼女の疑問はもっともだった。金銭的な理由によって高校だって辞めざるを得なくなるかもしれない俺が、どうしてここまで大学に固執するのか。それにはひとつ、大きな理由があった。


「母親と約束したんだ」と俺は少し照れて答えた。「普段は無表情で寡黙な母親が『将来は大学に行きたいんだ』って聞くと、うれしそうに微笑んで、言ってくれたんだよ。『大学生になるって私と約束ね』って。どうやら母親も若い頃大学に行きたかったけど事情があって行けなかったらしい」


「でもそのお母さんは……」と柏木は言いにくそうに言った。


「ああ」と俺は言った。「一人息子を捨てて家を出て行った。俺もなかなかバカだよな。そんな昔の約束なんて向こうはとっくに忘れてるだろうに。それでもその約束は今となっちゃ、俺と母親をつなぐ、唯一のものなんだよ。そう簡単に進学は諦められない」


「あのね神沢君」と高瀬が間を置いてから言った。「もし大学に行けたとして、その先はどうなりたいとかあるの?」


「一言で言えば、幸せになりたい」と俺は言った。「そのためには経済的に自立しなきゃいけない。自立するためには、この厳しい競争社会を勝ち抜かなきゃいけない。でも勝ち抜くための武器を俺は、なにも持っていないんだ。


 ご覧の通り特別見てくれが良いわけでもない。神がかった記憶力があるわけでもない。ズバ抜けた運動神経が備わっているわけでもない。楽器は弾けないし絵は下手だし手先は不器用だ。誰かを感動させるような物語も思いつかなければ、誰かを笑わせるような話術も持ち合わせていない――」


 そこで俺の目に米粒ひとつ残っていないふたりのカレー皿が目に入った。


「まぁ料理はちょっと得意だけど、こんなのはしょせん趣味に毛が生えた程度のものだ。その気になれば誰だってできる。とにかく俺には何もない。そういう人間はとりあえず学歴を武器にするしかないんだよ」


 柏木は釈然としない顔をしていた。

「でもさ、いくら時給が良いって言ったって、居酒屋のバイト代だけで大学に四年間通うってムズカシクない?」


「難しいよ。というか、不可能だ」俺は明言する。「全然足りない。ロケットに火星までの燃料しか積まないで、木星を目指すようなもんだ。だいたいさっきも言ったように収入の半分は生活費の足しにしているわけだし」


「それじゃあ、校則を破ってまでバイトするなんて、無意味じゃない」


「そんなことはない。これは俺が前を向いて生きていくための、言わばなんだ」

「は?」


 聞き慣れていないのだろう。その単語にきょとんとする柏木に笑みをくれてやると、俺は電卓を手に取り、“魔法”の解説を始めた。


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