「こらっ、
前の席の
「別に悩みなんかない。放っておいてくれ」
自分の運命がどうだこうだなんて、おいそれと口にできることではない。
柏木は我が物顔で俺の机に身を乗り出してくる。
「あのさ、暇さえあれば
俺は横目で高瀬優里を見ていたことに気づき、はっとした。慌てて取り繕う。
「な、なんでだっていいじゃないか」
「じゃ、アタシが当ててみよっか」と柏木は言った。「そうだ、女の子でしょ。ズバリ、気になる子がいるね」
なんという嗅覚だろう。女の勘はすごいものがあるというが、柏木もその例に漏れない。
「そんなんじゃない、変な詮索をしないでくれ」
涼しい顔で俺は言うが、柏木は全く耳を貸さずに「誰だろう? 悠介が気になりそうなのは……」と、高瀬の周辺を見てあの子はどうだ、この子はどうだ、と一人でつぶやいている。
彼女は馴れ馴れしく俺を「悠介」と下の名前で呼び捨てにしているが、それほどに俺たちは深い仲というわけではない。入学して間もないうちに、彼女がそう、勝手に呼び始めたのだ(俺は同級生であれば誰に対しても、基本的に敬称抜きの名字で呼ぶようにしている)。
人間関係が深まるにはそれなりのプロセスというものがあると思うのだが、この女にはそういう概念がまるで備わっていないらしい。
「おい、やめろ柏木。ただ天気が気になって窓の外を眺めていただけなんだ」
俺は時刻を確認して歯ぎしりした。いつもならとっくに朝のホームルームが始まっている時間なのに、職員会議が立て込んでいるのか、こんな日に限って担任は来やしない。
「もしかして悠介も
その声色から、柏木が冗談で言っているわけではないとわかる。躍起になって否定するとかえって怪しまれそうなので、俺は静かに違うと答えた。
「いやいや。気になっているのは天気じゃなくて優里でしょ。隠すなって」
もうわかってるんだぞ、というニュアンスを言外に含んだ口ぶりだ。
協調的な性格の高瀬は多くの生徒と良好な関係を築いているが、昼食や班決めなどで一緒に行動しているのはこの柏木晴香だった。
傍目から見るかぎり、この二人はどうやら馬が合うらしい。それだけに俺の心のうちを彼女に読まれることだけは、なんとしても避けねばならない。
「いい加減にしろよ柏木。違うって言ってるだろ」
危機感もあり、つい、声を荒げてしまう。
「もうっ! ちょっと言ってみただけじゃないの。そうやってすぐムキになって怖い顔しないの。それじゃ、今日もよろしくぅ!」
柏木は警察の敬礼みたいに右手をこめかみに当てて、前へ向き直った。
今朝も先制パンチを喰らってしまった。こんなやりとりは日常茶飯事だ。彼女の中で俺は、いじりやすいオモチャであるらしい。
柏木晴香はいかにも男受けしそうなはっきりした目鼻立ちに加え、抜群のプロポーションを誇るアイドル的存在の女子生徒だ。日本的で奥ゆかしい高瀬の美とは対照的に柏木のそれは直接的で、言うなればピストルのようである。
柏木の顔の下部に大きく陣取る唇は、両サイドの口角がやや吊り上がっていることで、挑発的な光を放つことに成功している。彼女の顔で一番先に印象につくのは、まず、唇だろう。
二つの瞳は旬の巨峰のように大きく、丸い。残念ながら知的な印象を人に与えることは少ないだろうが、大事なことは見逃さないのだろうな、と感じさせる目ではある。
鼻は、言うなればオアシスだ。すっと、どこか申し訳なさそうに、あるいは存在を押し殺すかのように、顔の中央部に佇んでいる。目と唇の存在感が強いだけに、そんな鼻は、見る者をほっとさせる。
顎は鋭く尖り、耳は縦に大きい。肌にはつやがあり、笑うと頬にえくぼができる。
総合すると、柏木晴香は、腰が抜けるほど美しい女である。
思想や信条や国境を越えて、多くの人がそれに賛同してくれるに違いない。
性格もひたすらに明るく前向きで、誰とも気兼ねなく笑顔で会話できる才を柏木は持つ。それで健全な年頃の青少年たちに人気が出ないわけがなく、もうすでに9人ほど彼女に告白し、フラれているらしい。
そんなゴシップにはさらさら興味のない俺の耳にもこうして情報が入ってくるほど、彼女の動向というのは常にクラスの話題の中心になってしまうのだ。
噂ではなんでも彼女には心に決めた男がいるらしく、だからこそ誰とも交際しないんだとか。
柏木は髪型をいじくり回すのが趣味のようで、地毛だという明るい栗色の髪に毎日必ず何かしらの工夫を施して登校していた。
つまりそれは毎日髪型が違うというわけで、後ろの席の住人としては風景がコロコロ変わるため落ち着かないといったらこの上ないのだが、男子生徒諸君にはこれが好評で「毎日違う晴香ちゃんが見られて幸せ」なんて声を聞いたりする。
ちなみに俺は個人的には、ポニーテールが一番似合うと思う。どうでもいいが……。
そしてそんな柏木は高瀬と仲良くしているわけで、このタッグの存在感といったら、これはもう、獅子と虎が組んだかのようなすさまじいものなのだ。
それにしても法律違反並みの艶めかしいボディラインだな、なんて思って柏木の背中をぼんやり見ていると、そのくびれの持ち主がまた突然振り返ってきた。
「そうだ、悠介! 英語の課題、やってきた? いや、やってきてるはず!」
「……はいはい」
柏木晴香の後ろの席に一ヶ月も座っていれば、彼女が何を求めているかだいたいわかるようになる。
俺は机から英語のノートを取り出して、青白くなっている柏木に手渡した。
「三限までに写しきれよ」
「サンキュ! さっすが悠介! 愛してるっ!」
嬉しそうに言って、投げキッスをする柏木。その姿はなかなか板に付いている。
「いいな、おまえは。なんの悩みもなさそうで」
脳天気な彼女を見ていると、ついそんな小言だって言いたくなる。夜に居酒屋のバイトがある俺にとっては、時間の余裕などそれほどない中、こなしている課題なのだ。
「なによ、それ。なんかアタシ馬鹿にされてる? むかつくんですけど」
「むかつく? ふーん。じゃ、返せよ、ノート」
「えっ……いや、すいませんっした」
柏木は苦笑いしてノートを大事そうに胸に抱え、何事も無かったように前へ向き直った。
前の席の天真爛漫な女子生徒――柏木晴香。
もちろん彼女も俺がもうすでに「出会っている」異性であるし、「“未来の君”の心当たり」と老占い師に聞いて、この一ヶ月の間、全く顔が思い浮かばなかったわけではない。
しかしエネルギッシュに毎日を過ごす柏木晴香の未来にも、高瀬同様やはり困難と呼ぶべき重荷はのしかかっていないように思えた。
彼女は誰もが羨む美貌を武器にこのまま十代後半を駆け抜けると、いつかは誰もが羨む結婚をし、誰もが羨む家庭を築き、誰もが羨む人生を送るのだろう。
そんな競技開始から着地まで十点満点のすばらしき人生に、俺などが関わってはいけない。彼女は普通に生きていれば、きっと幸せを手にすることが可能なのだ。俺と柏木では、用意されている道が違う。
目の前の背中に冷めた笑みを投げると、担任がようやくやってきた。
俺は朝から女の子のことばかりを考えて緩みきっている頭を振って、気持ちを切り替えた。