私はさらだ。
安山岩のような渋い柄の、コーヒーカップの下の皿(ソーサー)である。
今夜は主の通夜。
主がいなくなって悲しく思っていたところで、お供え物の器としての役目を担った。
主が好きだったコーヒーとパンをお供えするために、主愛用のコーヒーカップのソーサーだった私に、パンをのせるお役目が回ってきたのだ。
いつも一緒だったコーヒーカップと隣同士になって変な感じだ。
コーヒーカップ『毎朝コーヒーを飲むことももうないんだな』
ソーサー『寂しくなるな』
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義母が亡くなり、病院から葬儀場に移動して、義父は義母が好んで食してたものをお供えしていました。
ソーサーを皿として使うこと、そしてカップとソーサーが隣同士で置かれているのを珍しく思い、今でもたまに思い出す場面です。
パンをのせるのに皿がないからソーサーでいいかと、義父は何の意図もなくこういう配置になったのだと思います。
ソーサーは、義母がいない寂しさと、義母の大好物をのせる大役と、いつも一緒のカップと隣同士で落ち着かないのと、いろいろな気持ちを持って葬儀場にいたのではないかなと思って書いてみました。
今は義実家の食器棚の中で、コーヒーカップと一緒に仲良く置かれています。