「おまっ? おままっ? いつからそこにいたんだよっ?」
「確かボクが勝手に男女間の友情は存在する会の会長に任命されていて、キミがその副会長になっていた頃だった気がするよ」
ほぼ最初からじゃねーかそれ。
またこれをネタに精神攻撃でもされるのかと思いきや、阿久津は左手を口元に当て考えるポーズを取りつつ、右手の人差し指でバスケットボールを器用にくるくる回す。
「土浦蕾……いや、今は夢野蕾さんだったかい?」
「そうだけど、何か思い出したのか?」
「いいや。ボクはあんなお姫様系ヒロインを見たことはないね」
「何だよその例えは?」
「貴方が忘れた思い出を私は知っている。でも貴方自身の力で思い出して欲しいから口にはしない……彼女はどこぞの桃姫と同じで、ヒーローが来るのを待ち続けているのさ」
もっとも、そのヒーローは姫の存在すら忘れていたようだけれどね。
そんな的を得ている阿久津の一言一言が深々と突き刺さる。もしスター状態が精神攻撃も防げるなら、俺のメンタルが星屑となって散る前に助けて欲しい。
「キミが何を忘れているかは知らないけれど、彼女の行動は実に中途半端だね。見つけて欲しい気持ちの反面で、例え見つからずとも構わないような感じだよ」
「ひょっとして阿久津さん、怒ってます?」
「怒るというより、面白くないという表現の方が合っているね。ボクからすれば彼女の行為や言動はもどかしいというか、聞いていてあまり好ましく感じられない」
「俺が言うのもなんだが、そういう悪戯心みたいなのが女心ってやつじゃないのか?」
「………………」
言葉通り面白くないという表情を浮かべていた少女は、回転の収まってきたボールを再び回し右から左の人差し指へ移動させながら無言で考える。
思ったことを遠慮なく口にする阿久津本人に女心という言葉は縁がないかもしれないが、我が家にいるカマチョーな妹の心理を見抜けるなら理解はできる筈だ。
「確かにそうかもしれないね。前言を撤回しよう」
「いや、俺に言われてもな」
「それでキミは、彼女のことが好きなのかい?」
「躊躇いなく人の恋愛事情を尋ねるなよ。修学旅行で夜に盛り上がる男子かお前は」
うっかり誰々が好きなんて口にした翌日には、噂が広まってるやつな。絶対秘密にするとか一生のお願いとか、そういうことを口にする輩は滅びてしまえ。
「可愛いとは思うけど、大して話もしてない相手をいきなり好きにならないっての」
それに俺だって好きな人はいる。
あくまでも片想いであって、その恋が成就することは永遠にないだろうけどな。
「しかし世の中には、一目惚れという言葉があるじゃないか」
「そういうのはアイドルを追っかけてるような、外面だけ見て中身も見たつもりになってる連中に使う言葉だろ」
別に趣味嗜好を否定するつもりはないが、コンサートで自分に向けて手を振ってくれたとか勘違いするのはどうかと思う。米粒に見分けがつかないのと一緒だ。
「ただ仮に忘れてた思い出があるって言うなら、気になりはするけどな」
「前にも言ったけれど、幼稚園の頃の記憶なんて忘れて当然さ。そんな忘れていることを数え出したら、キリがないとボクは思うけれどね」
確かにそうかもしれない。
「自分が口にした何てことのない一言が、知らないうちに他人へ大きな影響を与えるなんて生きていればよくある話だよ。その一語一句を、キミは覚えているのかい?」
「……………………」
「まあそれでも、キミの言い分はわからないでもない」
「おわっ?」
指で回していたボールを止めた阿久津は、いきなり俺に向けてパスを出す。何とか受け止めたものの、投げた本人は背を向けるなりどこかへ歩き始めた。
「おい、どこ行くんだよ?」
「校庭さ。こういうときは身体を動かすに限るよ。キミも少し付き合え」
「身体を動かすって、梅の試合は?」
「梅君はもう大丈夫だろう。先に体育館を出ていながら、今更何を言っているんだい?」
言われてみればそれもそうだ。しかしバスケをやると言っても、俺の実力は体育レベル。女バスの部長だった阿久津に勝てないのは目に見えている。
少女が何度もやっていたボール回しを真似しようとするも、上手くできずに何度か転がしてしまいながら俺達は校庭のコートへ向かった。
「それにしてもこのボール、随分ボロボロだな」
「わざとボロボロの物を選んできたからね。本来部活のボールは全て室内用で、外に持ち出すのは禁止なんだよ。外用のボールはそこの体育倉庫の中さ」
「へー、そうなのか」
軽く運動するためだけに、わざわざ体育倉庫の鍵まで開けて貰う訳にはいかないもんな。
「先攻はボクでいいかい?」
「ずっとお前のターンになると思うぞ」
ボールを手にした阿久津が俺にパスする。そのパスを返した瞬間が始まりの合図であり、ドリブルを始めた少女は姿勢を低くすると一気に俺の元へ詰め寄ってきた。
「っ?」
いや、速すぎだろおい。
阿久津が背中を向けたかと思った瞬間、ターンして俺の脇の下を潜り抜ける。
そのままゴールに向かうなり、ステップを踏んで華麗にレイアップを決めた。
「キミの番だ」
「んなこと言われてもな……」
ボールを受け取った後で、一旦パスをしてからパスが返される。
鞠つきみたいな緩いドリブルをした瞬間、獲物を狙う鷹のように伸びてきた腕を見て慌ててボールをキャッチしてしまった。
ああ、こりゃマジだわ。
一度ボールを掴んでしまった以上もうドリブルはできないため、俺にできることは闇雲にシュートを打つだけだ。
「!」
当然入る訳がない。
しかし、そんなことはわかりきっていた。
元バスケ部である阿久津に、俺が唯一勝っている点がある。
弾かれたボールを手にするべく、素早くゴール下に駆け寄ると高く跳んだ。
「くっ!」
俺が適当なシュートを放った時点で油断したのか、阿久津は一瞬反応が遅れる。
身長と腕の長さを生かしてリバウンドを制した位置は、当然ゴール下だ。
「ふんっ!」
ここからならと、再度跳び上がりシュートを打つ。
ボールはボードに当たった後でゴールに収まった。
「っしゃ!」
たった1ゴールだが、これ以上ない成果に満足である。
…………ってかぶっちゃけ、もう終わりでいい。
「やってくれるじゃないか。そうこなくちゃ面白くない」
「これしか作戦がないんだっての」
拾ったボールを、不適に笑う少女へ渡す。
わかりきっていたことだが、そこから先は阿久津の独壇場だった。
ざるのような俺のディフェンスを抜け、時にはミドルシュートを打つ。こちらの責めも同じ戦法が通じる訳もなく、ポジション取りでリバウンドに負ける始末だ。
「はあ、はあ、はあ…………」
そして何よりも体力が足りない。
既にこちらが肩で息をしているのに、向こうはようやく軽く汗を掻き始めた程度。短距離とかは得意なんだが、どうにも持久戦は苦手である。
「どうしたんだい櫻? 最初の一本以来、からっきしじゃないか」
「元バスケ部長相手に……素人が点を取れたら……苦労はしないんだよ……」
「じゃあこうしよう。キミがもう一本シュートを決めるまで1ON1は続行だ」
「マジですか……?」
「マジだね」
少女にボールを渡すと、パスが返される。
そんなことを言われては、こちらも奥の手を見せるしかない。
「行くぞっ!」
馬鹿の一つ覚えな、闇雲シュートからのリバウンド戦法。
流石に何度も繰り返しただけあって、俺がボールを振りかぶるなり阿久津はポジション取りのためゴールの方を向く。
「…………っ?」
しかし俺はボールを投げない。
そのままドリブルすると、バウンド音を聞いた少女がフェイクと気付き振り返った。
このままではスティールされるため、今度は阿久津に背を向ける。
「むっ?」
今まで何度もやられた動きの見よう見まねに、驚いた少女が声を上げた。
阿久津の場合は左右どちらにターンするかわからないが、俺は左手でドリブルなんて器用な真似はできないため反時計回りしか選択肢がない。
ブレーキを掛けた脚に再び力を入れ、少女の腋の下を掻い潜るべく一歩踏み出す。
(いけるっ?)
そう思ったこの作戦だが、実は盲点が二つあった。
一つは予想以上に脚力がいる点。
そしてもう一つは潜ろうにも、阿久津の身長が俺より低いという単純な話。
「おわっ!」
既に自分の身体を支え踏ん張る力がない上に、砂という足場も悪かった。
潜り込むどころか突っ込む形で、俺は少女を巻き込み盛大にコケてしまう。
「痛てて……悪い…………」
顔を布地の感触が覆う中、ゆっくり身体を起こした。
そして数センチ頭を上げたところで、今がどういう状況だったか気付く。
目の前では仰向けに倒れている阿久津の姿。幸い脱げた帽子がクッションになったのか、後頭部を強打した訳でもなく意識はしっかり保っていた。
問題なのは、数秒前まで顔を埋めていた位置が少女の慎ましい胸だった件。
「……………………」
要するにラッキースケベと呼ばれる奇跡が起きたらしいが、物凄く悲しいことに何一つ実感がない。もっと埋めておけば良かったと、心の底から後悔している。
だからこそ、こう例えよう。
『目の前をF1カー並の速度で、ラッキースケベが通り過ぎていった』……と。
「だ、大丈夫……か……?」
恥ずかしがって顔を赤くされるか、はたまた怒って帰ってしまうか。その程度で済むなら寧ろマシであり、下手すれば人間関係を壊すくらいに尾を引くだろう。
しかし理不尽とはいえ事実だけに仕方ない。スケベの烙印が押されるのを覚悟した上で、立ち上がった俺は倒れている阿久津へ手を差し伸べた。
「問題ない。次はボクの攻撃だね」
意外! それは続行!
素直に俺に手を掴んだ少女は、立ち上がるなり服や髪についた砂を軽く払う。そして脱げたハンチング帽をかぶり直すと、何もなかったかの如く口を開いた。
「早くボールをくれないかい? キミが点を決めるまで、ボクは百発百中を目指すよ」
そんな彼女に敬意を払ってこう呼ぼう。『凄いよ、阿久津さん!』
★★★
「何か梅より、お兄ちゃんの方がボロボロになってるね」
「ぢがえだ……」
「ミナちゃんとバスケしてたっぽいけど、何で二人で1ON1してたの?」
「そんなの、俺が聞きたいっての」
結局あの後も何十回と繰り返され、最終的には俺の必殺闇雲シュートが入るというミラクルによって何とか終わりを迎えることができた。
当然ながら阿久津は不満そうだったが約束は約束。帰宅後にベトベトな身体を洗い流し、夕食を食べてから自分の部屋で力尽きた矢先に梅が突入してきて今に至る。
「で、何しに来た……?」
「聞いて聞いて! 我らが黒南は勝ち越しました~っ! イェーイ!」
「イェー休み……」
「ちょちょ~いっ! ちょっと待ったお兄ちゃん! 寝る前に大事なこと忘れてない?」
「歯は磨いたし男も磨いた……後は何を磨けって……ZZZ……?」
「磨く以外の発想はっ? 寝惚けてないで幼稚園のこと!」
「幼稚園……? 幼稚園を磨いたら「おろしアタック」駄目が物凄く痛ぁいぃっ!」
閉じていた瞼に何かが乗せられたと思ったら、目頭が急激に熱くなった。
慌てて飛び起きるなり洗面所へ全力ダッシュ。何度か水で洗い流すと突発的な刺激は引いたが、瞼にはヒリヒリとした痛みが残る。氷袋でも持ってこようかな。
「あびゃああああああああああああああ~っ!?」
「おぐはぁっ?」 ←部屋に戻ろうとしたら、いきなり開いたドアに顔面が衝突。
「何す……げぶっ!」 ←悶絶していたところを、飛び出してきた梅がタックル。
「ぐえっ!」 ←そのまま倒れて、後頭部を床へ強打。
「梅おまはうっ?」 ←起き上がった妹、胸と顔を容赦なく踏みつける。
立て続けに3HITした後で、見事なフィニッシュが決まった。
梅が洗面所で必死に顔を洗う音が聞こえる中、何かもう起き上がるのも嫌になる。ぶっちゃけ思わず「泣きてえ……」って言葉が口から出かけたくらいだ。
「うぅ……これじゃ梅コースより酷いよぉ……」
戻ってきた妹に踏まれるのも嫌なので、身体を起こして部屋に戻る。
一体何が起きたのか確認すると、枕元には皿に乗った大根おろし。さてはあの馬鹿、俺の反応が予想以上だったんで自分でも試したな。
「こんな拷問、誰に聞いたんだよ?」
「お兄ちゃんが朝弱いって話したら、友達がこれなら絶対に起きるって……」
「後でその友達に伝えておけ。良い子は真似しちゃいけないやつだってな」
しかしお陰様で目は覚めた。そして連絡を忘れていたことも思い出す。
携帯を手に取ると、とりあえず梅を含めたメンバー全員に時間と集合場所をメールで送信。葵には友人にも伝えてもらうよう頼んだし、これで問題ないだろう。
「ね~ね~お兄ちゃ~ん」
「何だよ急に猫撫で声出して。明日の件ならお前の携帯に送ったぞ?」
「友達が見たって言ってたんだけど~、綺麗な女の人とお話してたって本当~?」
「その友達は、さっきの大根おろしの友達か?」
「うん」
「じゃあ後で伝えておけ。見られた以上は生かしておけない……って待て待て、おろしを手に取るな。わかった、俺が悪かったから」
「ね~誰誰~? あっ! もしかして例の何とか蕾さんっ?」
「夢野な」
「お兄ちゃんやるぅ~。ミナちゃんじゃなくて、蕾さんとのデートだったんだ~?」
違うぞ妹よ。正しくは阿久津大先生による地獄の特訓だ。
「黒谷中の7番。遅刻してきた子がいたの、覚えてるか?」
「はえ? う~ん……あっ! あのフォワードの子?」
「その子が妹だとかで、応援に来たんだと」
「な~んだ。でもそうなると、梅のお陰で会えたってことだよね? ひょっとして梅、お兄ちゃんの恋のキューピーだったり?」
「いつからお前はマヨネーズになったんだよ」
ツナマヨとかはよく聞くが、梅マヨって美味しいのかな?
「質問が済んだなら、明日のためにさっさと寝ろ。起きなかったら置いていくからな」
「お兄ちゃんに言われたくないし! じゃあお休み。梅梅~」
妹が出て行き、ようやく静かになった部屋でふと考える。
夢野蕾。
もっとおしとやかなイメージだったが、実際に話してみればそうでもない。どちらかと言えば梅と同類な、ヤンチャとか悪戯っ子的な面も持ち合わせている少女だ。
昔から彼女は、こんな性格だったのだろうか。
それすら思い出せないまま目を閉じると、疲れきっていた俺は泥のように眠るのだった。