―― 二時間後 ――
「案外、英語って単純なんだな」
「今声に出した軽口を、明日以降も言えるといいけれどね。キミみたいに努力を怠っているタイプは、身に付くのが速い代わりに忘れるのも早いのが難点だ」
最初は意味不明な英文ばかりで嫌になったが、次第に意味がわかればあら不思議。授業を話半分で聞いていた俺でも、ある程度は問題が解けるようになった。
まあ勿論その裏では理解できない文法を説明してもらい、テストに出やすい重要箇所を把握している阿久津大先生による援助があったことは言うまでもない。
「それでもまあ、キミが努力の方向性を間違えているタイプじゃなくて良かったよ」
「何でだ?」
「勉強したのに点数が上がらない。やっても無駄という自己暗示が掛かっているから、それを解く分だけ手間が掛かる。それに自分のやり方を変えるというのも難しいからね」
「成程……しかしお前、教え方上手いよな。先生とか向いてるんじゃないか?」
「他人へ遠慮しないボクに、教師は無理だろう」
それがわかっているなら、変えようとは思わないのだろうか。
自身を客観的に見ている阿久津は、本日二つ目の棒付き飴を取り出し咥える。
「好きだよなそれ」
「桜桃ジュースばかり飲んでいるキミに言われてもね」
指差されたのは、机の上に置いている350ミリのペットボトル。幼い頃から飲み続けている一本であり、冬を除けば俺が買うジュースはこれくらいだ。
「まあボクも京都に行って自分の名前と同じ和菓子を見つけた際、つい買ってしまったから気持ちはわからなくもないよ」
どこにでも売られている飲料と、地方にしかない名産は少し違う気もする。
俺の勉強が一区切りついたからか、はたまた雑談を始めたからか。帰り支度を始めた阿久津を眺めながら、俺はふと聞いておくべき質問を思い出した。
「あ! なあ阿久津。一つ――――」
「無理だね」
「即答っ? まだ何も言ってないのにっ?」
「今の閃いた雰囲気から、キミが言い出す内容に予想を付けてみた」
「じゃあ当ててみろよ」
「ミナえもん、英語は助かったけど、このままじゃ他の教科が赤点だよ。シンガポールまっしぐらだよ。何か良いカンニングの方法を教えてよ」
「梅にシンガポール教えたのはお前かっ!」
しかも何でちゃっかり求めてるのがカンニングなんだよ。まあ確かに心の奥底で、他の教科も教えて貰えないかと思ったけど……ちょっとな。ちょっとだけな。
「先に言っておくけれど、他の教科までキミを手伝うつもりはないよ。そんな暇があるくらいなら、ボクはアルカスに芸の一つでも身に着けさせるさ」
くそ、羨ましい……じゃなくて恨めしいぞ猫風情が。
阿久津は溺愛しているアルカスだが、正直俺はあんまり好きじゃない。というのも昔遊びに行った際、特に何もしていないのに問答無用の引っ掻き攻撃を受けたからな。
そもそもあのふてぶてしい態度が気に入らない。きっとアイツの中では『阿久津 〉 アルカス 〉超えられない壁 〉〉〉 俺』という数式が成り立っているのだろう。
「そうじゃなくて、その……土曜って暇か?」
「次にキミが口にする内容次第だね」
「凄ぇ、現代社会において言いにくそうな台詞をさらっと言いやがった」
「当然じゃないか。自分の時間として過ごす以上に価値がないなら、無理して話に乗る必要もない。もっとも蓋を開けないとわからないことも、世の中には多いけれどね」
まあ言いたいことはわかる。俺も『行けたら行く』って時々使うし。
「梅からの頼みだよ。自分達の世代になって初の練習試合があるから、見に来てほしいんだってさ」
「ふむ。そういうことなら予定を開けておくとしよう。時間は何時からだい?」
「あ、そういえば聞いてないな」
「一応確認しておくけれど、まさかキミは人を呼んでおきながら自分は行かないなんて無責任なことを考えていたりはしないだろうね?」
「ま、まさか。勿論ちゃんと行くつもりだったぞ?」
…………半分だけ。
もし阿久津が行かないと答えていたら、俺が行く確率は0%だった。一体何が面白くて、妹の練習試合なんてものを見に行かなければならないのか。
「なら尋ねよう。場所は南中と相手側、どっちの体育館かな?」
「さあ?」
「練習試合の相手はどこ中だい?」
「はて?」
俺の答えを聞いた少女は、ジトーっとした目でこちらを見る。第三者的立場で眺めるなら良い表情だが、視線を向けられているのが自分だと別の意味で胸が苦しい。
「やはりキミは行く気がなかったようだね」
「いやいやそんなことないって! ただほら、昨日でテスト二週間前になっただろ? 範囲も配られたから土曜は勉強も視野に入れてだな」
「どうせ家でゴロゴロするだけだろう?」
うぐぐ……正論だけに何も言い返せん。
どうやら完全に見透かされているのか、呆れたように溜息を吐かれてしまった。
「まあキミがそこまで勉強に目覚めて、休日すら時間が惜しいと言うなら仕方ない。テストまで残り300時間はあるけれど、そのうち数時間も削れないと言うなら――」
「すいませんでした。行かせていただきます」
「当然の答えだね。もし梅君がボクだけを呼びたいなら、キミを通さず直接連絡してくる筈だよ。大方キミがくだらない理由で断ったから、ボクに任せたというところかな」
マジかよあの妹、中々の策士じゃねーか。
「ったく梅の奴、大会ならまだしも何で練習試合なんかに呼ぶんだかな」
「キミも兄なら察したらどうだい? きっとお姉さんが家を離れて寂しいんだろう」
「いや、とてもそうは見えないんだが……」
「だからキミは通知表の思いやりに丸が付かないんだよ。もっと周囲に気を配るべきだね」
小学生の頃は配り係ばかりやってたが、気は配るように先生から頼まれた覚えはない。
そもそも通知表のあの欄はぶっちゃけ意味不明だと思う。地味だった奴が四個も五個も丸を貰ってるのに、俺は大抵一個しか丸が貰えなかったし。責任感って何だよ?
「とりあえず練習試合の件は、時間と場所だけでも聞いておいて貰えると助かるかな」
「ああ、わかった」
「それじゃあボクは先に失礼するよ」
「お疲れ」
少女に合わせて帰り仕度を始めていたが、阿久津は一足先に陶芸室を出て行った。
俺達の家は通学班が同じだったくらい近所だが、彼女は電車通学で俺は自転車通学。門を出るまでの五分足らずを共にする意味も特にないため、その選択は間違っていない。
まあ、幼馴染なんてこんなものだ。
わざわざ朝起こしになんて来ないし、家族ぐるみの付き合いもママ友レベル。屋根伝いに行き来できるとか欠陥住宅だし、一緒にお風呂とかいうやつは現実を見よう。
「………………」
だからこそ阿久津水無月は揺るがない。
例え俺が彼女に好意を抱いていようとも、米倉櫻という男はただの幼馴染なのだ。
「流石だな、男女間の友情は存在する会の会長は」
勝手に命名した敬称を呟きつつ、陶芸室の電気を消した俺は帰路へ着いた。
★★★
「…………ん?」
帰り道の途中で、ポケットの中から感じた振動。
一旦自転車を止めるとガラケーを取り出す。世間はスマホで賑わっているが、俺は携帯を変えるつもりはない……というか変えられない。
というのも我が家の掟では、携帯料金の支払いが小遣いから引かれるルール。あんな小型パソコンなんて手にした日には、壮絶な額を請求されお年玉まで消えるだろう。
キツネとブドウみたいな話だが、スマホで便利なのはせいぜいSNSくらい。ゲームやネットサーフィンで金も時間も食う道具なんて、持たない方がいいと思う。
「もしもし?」
『もし~ん。お兄ちゃ~ん、今どこ~?』
「どこって言われても、一言で説明するとしたら墓地だな」
『お兄ちゃん、早まっちゃ駄目だよ?』
「他人の墓の前で死ねるか! 通学路の途中にあるんだよ」
『何だそゆこと。うん、帰ってる途中みたいだから、頼んで大丈夫そうだよ』
母親に話を振る妹の発言で、電話の用件がお使いだと把握。何かと忙しい職業故に仕方ないのかもしれないが、我が家の母上は何かと買い忘れが多くて困る。
『あのね、帰りに卵買ってきてって。何と何と、今晩はすき焼きです! ただしお兄ちゃんが卵を買ってこないと、すき焼きが嫌い焼きになっちゃいますっ!』
「じゃあ嫌い焼きでいいよ。俺すき焼きに卵使わない派だし。汁取り出しちゃう派だし」
『お母さん。お兄ちゃんすき焼き嫌いやきに要らんって!』
「何で唐突に土佐弁っ? 要りますっ! 買ってくるからっ! ついでに言うとすき焼きのすきは、好き嫌いの好きじゃなくて農具の鋤だぞ」
『そういうお兄ちゃんトリビアとかいいから! それじゃあ宜しくね。梅梅~』
一方的に電話を切られたので、再び携帯をポケットに入れると自転車を漕ぎ出す。
ここから家まで帰る道中で上手い具合に寄れるコンビニは一件。そしてそこはつい昨日、シャンプー&リンスを買ったあの場所でもあった。
「!」
自転車を止めた際に、客のいない店内でガラス窓越しにレジの店員さんと目が合う。
勿論それは他の誰でもない、例の120円少女だ。
「いらっしゃいませ」
店内に入ってから、レジの前を通り過ぎる。
チラリと目を向ければ、少女のネームプレートには依然として値札が付いたまま。まさかと思ったが、他の客や店員は一晩経っても気付かなかったらしい。
はたまた気付いても、見て見ぬ振りをしていたのか……自分に価格が付いていることも知らずに、今日も彼女は笑顔で表示された代金を読み上げる。
「お会計、176円になります」
財布から取り出すは231円。こういう暗算は得意な部類だ。
乗せられた金額に対し不思議そうな表情を浮かべる少女だが、レジを打ちこむなり納得した様子を見せた。
「55円のお釣りと、レシートになります」
差し出された硬貨と紙切れを受け取る。
そして今日こそはと、呼吸を整えた俺は彼女にはっきり声を出した。
「あ、あの……」
「はい?」
「…………お箸、付けて貰っていいですか?」