3階から1階へ下り、職員室のドアをノックしてから入る。
入って右の、入口から一番近い席を見ると、男性教師に猫なで声を使っている先程の女教師の姿があった。
思わず顔を歪めそうになった時、私たちの姿に気づいてくれたおかげで私は顔を歪めることはなかった。
「あら、玲青くんも手伝ってくれたの?」
「こっちに用があったので」
「ありがとうね。重かったでしょ?」
「全然。むしろ軽かったくらいです」
「本当?」
先生の視界には、友人たちと同じように私は入っていなかった。
いや、排除されていると言った方が正しいか。
異性に鼻を伸ばすくらいデレデレして、仕事を頼んだくせに同性の私には見向きもしないし、お礼だって言われない。
この先生はこういう先生だって理解していたけど、彼が隣にいる時にそれをやられるといつも以上に腹が立つ。
劣等感と、クソみたいな大人を目の当たりにして体がカァッと熱くなって、頭の中が怒りの一色に染まる。
唇を結ぶことも許されず、頑張っていつもの自分を演じろ、と自分に言い聞かせて一歩後ろに下がる。
「私はこれで失礼します」
勇気を出して言ったのに、先生はずっと彼だけを見ていて私の言葉には耳を傾けない。
失望から私は目を伏せて先生と彼に背を向けた時、彼が「ただ」と口を開いた。
私の耳に届いた彼の声は、あの日の放課後に聞いた悪寒が走るくらいの冷たい声に似ていて、喉がひゅっと鳴ると同時に思わず振り向いてしまった。
「女の子一人にこの量は重すぎますよ。せめて二人に頼んでください」
「そ、そうね……」
先生は苦笑いを浮かべた後、ちらりとこちらを見た。
「もしまた白石さんに頼むなら、僕にも頼んでください」
やめて。
もう、やめて。
「こういう仕事僕好きなんです。遠慮なく言ってくださいよ」
先生から向けられている視線に耐えられないから、 これ以上変に私を巻き込まないで。
「あの、先生?」
「……分かったわ。次からはそうするわね」
「お願いします。じゃあ、失礼します」
彼が先生に会釈をしている姿を横目で見てから、私は逃げるように先に職員室を後にした。
うざい、うざすぎる。
気持ち悪い、気色悪い。
未成年を、ましてや生徒を狙ってるなんて気持ち悪いし、勝手に嫉妬されて敵視されて超絶
気分が悪い。
恋愛だの、愛だの本当にくだらない。
そんなものなんかがあるから人は醜くなる。
もちろん、その中に私も入っている。
そもそも家族という血の繋がりがある関係ですら、愛というものが存在しないのだから、他人同士に愛なんかが生まれるわけがない。
いや、家族だって他人か。
近くに誰もいないことを確認してから我慢をしていた舌打ちをし、こめかみに手を添えて階段へと歩き出せば、職員室から出てきた彼が「ねえ」という声を共に手を掴まれて引き留められた。
彼の声は無駄に通る。遠くにいた生徒たちが、私たちの存在に気づいて騒ぎ始める。
きっと、手を掴んでいるから余計騒いでいるのだろう。
誰かが見ているとなれば、カラオケの時のように手を振り払うことは出来ない。かといって下手なことを言って見ている人たちに聞こえた時、どう対処していいのか分からない。
盛大に溜め息をつきたいところをグッと堪え、仕方がなく彼と目を合わせた。
「なに」
「遠回りして帰ろうよ」
「無理」
二文字ではっきりと断ったのに、彼は手を放そうとしない。
いつまでも手を掴まれたままじゃ、本格的に変な噂を流されそう。
彼だって、それは困るはず。
「授業遅れる」
「帰る道をこっちに変えるだけだから遅れないよ」
親指で自分の後ろの道を差す。
そっちの道は、陽斗先輩と帰った日のことを思い出す。
何故か彼に睨まれて、余計な一言まで言われたことも思い出してしまう。
「早く決めなよ。注目の的になるのが嫌なんでしょ?」
彼は本当に私と仲良くしたいの?
今より嫌われたいのかと思うほどの態度。
それに、私はちゃんと伝えた。無理だと。それを勝手に訊かなかったことにして、私の意見とは真逆な意見を言わせるように最悪な状況を作り上げている。
最初から私に選択肢などない。
カゴを奪われた時から答える資格も与えてくれない。
ここでも簡単に流されてしまう。
私の世界というものは、本当に生きづらい。
「……分かった。ついていく」
科の鳴くような声でそう言った私を見て、彼はまたほくそ笑んだ。
怒ることすら疲れてしまい、周りに人がいようがどうでもよくなって盛大に溜め息をついた。
その様子を間近で見ていた彼は、私が爆発寸前ということに気づいたのかそれ以上挑発的な態度を取ることもなく、掴んでいた手を放して先に歩き始めた。
無言のまま教室に着けますように、と願った矢先、数歩しか歩いていないのに彼は歩みを止めてこちらを振り向いた。
「隣」
「なに?」
「隣歩いて」
隣を歩け、なんて今まで一度も言われたことがなかったから、声が出ないほど戸惑ってしまった。
陽斗先輩も黒木先輩も隣を歩くのではなく、私の少し前を歩くのが当たり前だったし、友人たちと歩いていても私は必ず一歩後ろにいる。
私にとって、それが当たり前だった。
その当たり前を覆すことを言った人物が天王寺玲青ということも気に食わないし、真剣な表情を浮かべながら隣を歩けと言われた瞬間、何故か胸に違和感を覚えたのも気に食わない。
私は「分かった」の一言も言うことはなく、渋々彼の隣まで行った。
何故かお互いに歩調を合わせて歩き始めたが、ノートを運んでいる時は耳を塞ぎたくなるほどベラベラと話していたくせに、今は一言も話さない。それならどうして遠回りをして帰ろうと誘ったのだろう。どうして、隣を歩けと言ったのだろう。
別に何かを話してほしいわけではない。むしろ無言の方が有難いのだけれど、先程とは違って笑顔を浮かべるわけでもなく真顔で何かを考えている彼のその姿は、本来の姿が垣間見えている。そのため、空気が非常に重い。
家の中と勘違いするくらい、重苦しくて仕方がない。
「白石さんはさ、Blue sky好き?」
重苦しい沈黙を破ったのは勿論彼だった。
ただ、今にも消え入りそうな声で呟くもんだから思わず目を見開いて彼を見ると、窓から見える青く澄んだ空を見ていた。
突然訊いてきた意味も、英語で言った意味も分からないし、少し苦し気な表情で空を見ているのも分からない。
諸々と理解できないことばかりで眉間にしわを寄せていると、視線を空から私に移した彼は、期待をしているような目でこちらを真っ直ぐ見つめてくる。
私は勿論、その理由も解らなかった。
「好きでも嫌いでもない。興味がない」
「好きか嫌いかで答えて」
「しつこいんだけど」
「いいから答えてよ」
一番最初に言った言葉が答えなのに、と盛大に溜め息をついた。
「雨で靴が濡れるのは嫌だから、Blue skyが好きなんじゃない?」
嫌味を含ませて適当に答えると、自分が答えを催促したというのに「へえ」と興味なさそうに返事をした彼をつい冷たい目で見てしまう。
初めに言った言葉こそ、私の本音。
空を好きだとか嫌いだとか、生まれてこの方一度も思ったことがない。
常に俯いて歩いている奴が空などに興味を持つわけがない。
たまにぼーっと夜空を眺めるくらいで、昼間に空を見上げることもないし、空を綺麗だと思ったこともない。
空なんか見なくても、気にしなくても生きていけるくらい私の人生に空など必要がなかった。
「そっかぁ、白石さんは好きなのかぁ」
「人の話しをちゃんと聞いてたら、好きなんて判断はしないと思うけど」
どんな耳と脳のつくりをしているんだ、とまた彼に対して嫌気を差していると「俺はね」と彼が口を開いた彼の雰囲気がまた変わった。
「俺はね、Blue sky大っ嫌い」
彼がそう呟いた瞬間、またあの悪寒が背中に走った。
ただ、本来はナイフとなるぽつりと放たれた言葉は、どうしてか悲哀に満ちていた。
そんな彼を見て、私は何故か息を止めてしまっていた。
彼は私よりも完璧に今の自分を演じているというのに、きっと完璧を求めているはずなのに、私なんかに弱みなど見せたくないはずなのにボロが出た。それをどうして彼よりも私が動揺しているのだろう。理解が出来ない。
「白石さんは俺と同じだから、理由を知ったら嫌いになるよ」
くるっとこちらに顔を向けた彼は、先程とは違っていつもの憎たらしい笑みを浮かべていた。
本来ならイライラして仕方がない笑みだが、今はその笑みを見て胸を撫で下ろしている自分がいた。
「ならない」
「なるよ、絶対」
また、だ。
本当その自信はどこからくるんだか。
はぁ、と盛大に溜め息をつこうと息を吸い込んだ瞬間、「あの二人って仲良かったんだね」という声を耳に届いた。
普段は当然二人きりで話すことはない。誰かが流してくれた仲が悪いや、お互いに嫌い合っているという噂のおかげで教室では挨拶くらいしか言葉を交わさない。
ただ、今は教室の中ではないし、二人で行動して会話までしている。そんな私たちを見て新たな勘違いをし始めている人がいる。
「やっぱりそうだったんだね。そもそも高嶺の花同士が仲悪いわけなくない?」
「確かに。話してるところ見たことなかったから鵜吞みにしてた」
「仲が良いって分かった瞬間の尊さヤバくない?」
どこをどう見て仲が良いなんて思えたのか不思議で仕方がない。
彼ではなく私の表情を見ていたら、そんな馬鹿みたいな思い込みなどしなくて済んだのに。
確かに彼は容姿は良いから見入ってしまうのも100歩譲って理解はしてあげれるけど、仲が良いという噂が以前からあった噂を上書きしてしまうのだけは嫌だった。
仲が悪いという噂の方が、女子からの視線を無駄に感じないで済む。
仲が良い噂なんて流れたら、もっと生きづらくなる。
「今度は何を考えているの?」
こいつ、わざと話しかけてきた。
コソコソと話しをしている女子たちとすれ違うタイミングで話しかけてきた彼に一発殴ってやろうとも思ったが、私が大人になってグッと堪えるしかなかった。
「本当、いい性格してるよね」
「ありがとう」
褒めてない、という一言を言うのも疲れてしまった。
それにしても、作り上げてきたものが本当の私たちと受け入れてくれているのなら、ちょっとした表情の変化にも気づけないものなのかね。
気づけないか。
私だって、彼が自分と同じ〝自殺志願者〟と気づけなかったのだから。
彼が本当に自殺志願者なのかはまだはっきりと分からないが、私が自殺志願者とか、劣等感をすぐに抱いてしまうとか、彼とはいつも暗い話をしているとか、誰よりも闇を抱えているとか気づけるわけがない。
まあ、関係ない奴に気づいてほしくもないけど。
「綺麗な顔が今、すごいブスになってるよ」
階段を上る際、顔を覗き込んできた彼は憎たらしい笑みなどじゃなく、柔和な笑みを浮かべていた。
彼から何を言われても腹が立つのはいつもの事だけど、今回は特別に腹が立った。
ブスと言われた瞬間、頭には妹の顔が浮かんだことによって私の気分はどんどん沈んでいく。
「白石さんは適当に過ごすってことも覚えた方がいいよ。色々考えても体力を使うだけなんだから」
なに一丁前に説教なんかしてるの?
あんたに説教される覚えないんだけど。
死ね。
本当、死んでほしい。
そんなことを考えてしまうことに、私は当然罪悪感など覚えない。
むしろ、その気持ちをうんと込めて彼のことを睨みつけてた後、一段飛ばしで階段を上がっていく。
「白石さん」
「話しかけないで。今、天王寺君の顔も見たくないし、声も聞きたくないから」
「なに、また怒ったの?」
逆に怒らない人がいるの?
そんな疑問が生まれつつ、顔も見たくないと言ったばかりだが歩みを止めて、まだ階段を上っていない彼を見下ろす。
「これ以上話しかけてきたら、私なにするか分からないよ」
言い終わると同時に、私は上りきった階段の上で少しだけ手を広げてみせた。
彼には物理的な攻撃はしない。
そんな攻撃は生ぬるいだろう。
一生消えない心の傷を負わせ、私に関わったことを後悔させるくらいのことをしてやりたい。
例えば、今実行しようとしていた階段の一番上から彼の目の前で飛び降りてみるとかね。
でも、真顔でこちらを真っ直ぐ見据えてくる彼を見ていたら今すぐにでも距離を取りたくて、再び彼を睨みつけてから先に教室へと戻った。
「あ、ましろおかえりー」
「ただいま」
「どこ行ってたの?」
「……ノート運び」
「一人で? 重かった?」
「天王寺君が手伝ってくれたから、私は全然……」
「急に教室から出てったと思ったら、ましろを手伝うためだったんだ」
「急にどうしたってなったよね。気づいたらましろもいなくなってるし」
彼が席を立ったことには気づいて、私の時は気づかなかったんだ。
分かっていたことだけど、どうしてこんなにも胸が、心が痛いのだろう。
これ以上はうまく笑えないと悟った私は、次の授業が始まるまでトイレに逃げ込んだ。