ぞくり、と背筋に拭いきれない悪寒が走った。
頭の中で何度も繰り返される彼の言葉に、私を冷めた目で見下ろしている彼の瞳に、負の感情が生まれないって方がおかしいし。育てるのも存在するのも無駄のような態度は、花にだけではなく私にも言っているみたいで、初めてちゃんとした殺意が彼に沸いた。
手伝いだって自分はそんなことをしなくても勝手に株が上がっていく、みたいな態度がいつも気に食わなくて、最近は劣等感なんかよりも心の底から彼のことが嫌い。
取りつかれたように、その感情だけで私の全てが塗りつぶされていく。
怒りを溜め込まずにぶちまけた方が楽なのは当たり前だけど、世の中はそれを許してはくれないから、ひたすら耐えるしかなくて。そんなことを続けていたら病気になってしまうのも、亡くなってしまうのも当たり前ということを再確認した。
「白石さんだって、そう思ってるんでしょ?」
「…………」
「そう思って育ててるんでしょ?」
価値観が合わない人って、本当に存在するんだな。
まあ、大概の人と価値観が合わない私だけど、ここまでの人は家族以外初めて。
ストレスでどうにかなりそうなんて体験は何度かあるけれど、学校でそれが抑えられないのは初めてだ。
こんな所にはもういられない。
だいぶ早いけど、学校を出ることにした。
公園じゃない違う所に。一人じゃなくても静かになれる場所なら、この際どこだっていい。それらは学校を出て歩きながら決めればいいことで、とにかく今は早くこの場から立ち去らないと。
鞄を肩にかけ、ポップを持って教室から出て行こうとすれば、彼は私の腕を掴んで引き留めてきた。
「返事、決まった?」
──だからさ、一緒に死なない?
カラオケの時に言われた言葉が、頭の中で鮮明に流れた。
「返事って、なにが?」
あの時の出来事は綺麗さっぱり無かったことにしよう。そんな私の気持ちが、きちんと彼に伝わったのだろう。彼の手を振り払おうと力を込めると共に、腕を握る彼の力が強まった。
「白石さんって、俺のこと嫌いでしょ?」
どう返事されるのかなど分かりきっているというのに、わざわざそんなこと言わせてどうするの。
しかも満面な笑みを浮かべて聞いてくるとか、ますます彼のことが理解できない。
「うん。嫌い」
気持ちをうんと込めて〝嫌い〟という事実を口にすれば、彼は何故か柔和な笑みを浮かべた。
それがあまりにも不気味で、癪にも障って、彼のことなど一切考えずに勢いよく手を振り払い、逃げるように教室から出て行く。
同じ階にある図書室に向かうまで、この怒り狂った表情だけでも直さないといけないのに、図書室の扉の前まできたというのに私の表情は元には戻らなかった。
扉を開けて静かに図書室に入ったことによって、あの彼女は私の存在に気づかない。
まるで、私が水やりをしているランタナという花のように。
うざい。うざすぎる。
じっとしてられないほどの怒りが、沸々と心に湧きあがった。
そんな憤りから鞄のショルダー部分を無意識に強く握りしめ、わざと足音を出さないように彼女に近づき、机の上にポップを置いたことによって、ようやく彼女の瞳に私が映った。
「あ、白石さん」
「終わったから置いとくね」
「え、もう?」
「うん。また何かあったら遠慮なく頼んでね」
彼女の顔を一切見ないで話し、勝手に会話を終わらせた私は図書室から出て行く。そんな私を、きっと彼女は不思議がったに違いない。
気を配ることも、心の中で謝る余裕すら一ミリもない私は俯きながら階段を下りる。
私が下りてきた階段から昇降口に向かうには、職員室の前を通らないといけなくて。今は、今日は一人になりたいから誰にも会いませんように、と心の中で祈っている最中、仲睦まじい声が前から聞こえてきたことによって、何故か苛立ちが少しだけ収まった気がした。
どうしてだろう、と胃のあたりを擦りながら俯いていた顔を少しだけ上げれると、職員室からちょうど出てきた一人と目が合う。
「あれ、ましろちゃんだ」
黒木先輩の声に肩が揺れる私と、そんな私を見て不思議そうに目を丸くする黒木先輩。そして、黒木先輩の後ろにいた陽斗先輩が、私の名前を聞いてひょこっと姿を現した。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「今帰りなんだね」
最悪のタイミングだ。
先輩たちの受験が始まる前は、誰にも会いたくないって時に限って、この二人とよく遭遇していたなぁ。なんて記憶が甦ってきて渇いた笑みがこぼれた。
会釈をし、髪で顔を隠しながら先輩たちの前を通って昇降口に向かったのだが、陽斗先輩は黒木先輩を無理やり退かすと、引き留めるように私の肩に手を置いた。
「……何かあった?」
陽斗先輩の顔には、心配そうな表情が浮かんでいる。
些細な事でも気づいてくれる陽斗先輩の優しさが、私にはやっぱり苦しい。
でも、先程まで怒りが心を支配していたのに、今となっては哀しみが心を支配していて、滲んできそうな涙を必死になって堪える。
頑張って耐えている時に、本当に私のことが心配なんだろうなって声色で聞いてくると、その瞬間に耐えていたものが全て無意味となる。だから誰にも、特に陽斗先輩とは会いたくなかったのに、タイミングよく現れるもんな。
一度逸らした視線を、再び先輩に向けようと、のろのろと視線を上げた。目が合ったことによってすぐに首を横に振ったが、先輩の瞳には疑いが満ちていた。分かっていたとはいえ、少しだけ胸が痛んだ。
「今帰りだよね?」
「……はい」
「なら一緒に帰ろう? 送るよ」
「いえ……大丈夫です」
「ううん、今日は送る」
珍しく食い下がる陽斗先輩。
今日は一歩も引かないという意思が、嫌でも伝わる。
「……じゃあ、お願いします」
手から感じる熱、力、真っ直ぐこちらを見つめる瞳がなんとも言えなくて。圧に負けた。この表現が一番適切だろう。
不本意だけど断るのではなく、一緒に帰ることをお願いすれば、嬉しさがひしひしと伝わってくる声色で先輩は「うん」と返事をした。
大抵の人は、人がなにかに悩んでいたり、落ち込んでいると、その人のことなどお構いなくに自分の探求心だけを満たしたくて、ズカズカと遠慮なく心のパーソナルスペースに入り込んでくるが、陽斗先輩は違う。
そんな人だから私は心を許せたし、慕っているわけで。
だから先輩には、幸せになってほしくて。呪縛から解放されてほしい。そんなことを陽斗先輩の目を見つめながら思っていると、私の頭を撫でようと先輩の手がこちらにゆっくりと伸びてくる。
抵抗もせず、ただその時間が過ぎるのを待っている、その時だった。
「あ、玲青」
こっちもタイミング悪いのかよ。
本当、どこまで邪魔をすれば気が済むのかしら。
先程まで陽斗先輩の隣に居たはずの黒木先輩は、少し離れた場所にいて。黒木先輩の声によって、陽斗先輩の手は私の頭には届かず、静かに元の位置へ戻って行く。
その手を意味もなくじっと眺めていれば、後ろから突き刺さる視線を感じる。
心の中で盛大に溜め息をついてから渋々後ろを振り返れば、周りに私たちしかいないからなのか、普段じゃ考えられないし、今まで見たこともない怒りを含んだ鋭い目をしている天王寺玲青の姿があった。
教室を出て行く前はあんなに柔和な笑みを浮かべていたくせに、どうして今はこんなにも睨まれているんだ。それが私には理解できなくて、私も同じように彼を睨みつけているから、空気がカラオケの時よりも重苦しい。
私も彼も何故か意地になってお互いを睨み続けていれば、気を遣って行動してくれるのはいつだって先輩たちで。陽斗先輩は間に入るように私の目の前に立ち、黒木先輩は小走りで彼に近づいていく。
「玲青、一緒に帰ろう? 前、俺に話したいことがあるって言ってたよね? それ聞いてあげる」
この重苦しい空気を変える為に、一緒に帰ろうと彼を誘った黒木先輩の明るい声のおかげで、少しだけ場の空気は軽くなった。
きっと、そう感じているのは私だけだろう。
彼の表情は、面白いくらい何も変わっていなかったから。
「言ってませんけど」
「えー、言ってたよ? すごい真剣な顔して」
「だから」
「今日は俺がなにか奢ってあげる! アイス? 飲み物? あ、ハンバーガー食べて帰る?」
「泰雅君」
「じゃあ、俺ら先に帰るから。ましろちゃんまたね!」
一方的に話を進め、こちらに手を振る黒木先輩に会釈をすれば、満面な笑みが返ってきた。
どんな意味がその笑みに含まれているのかは分からないが、助かったし、とても迷惑をかけた事には変わりなくて。今は引き留めて謝ることが出来ないから、あとでメッセージを入れることにしよう。
先に昇降口へと向かって行く黒木先輩の後ろ姿を見ていた彼は、深く長い溜め息をつくと、ようやく歩き出した。そのまま私と陽斗先輩の横を通り過ぎて黒木先輩を追いかけて行くと思いきや、彼は何故か私の顔を見据えながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
そして、彼は私の真横で歩みを止めた。
「玲青」
今にも何かしてきそうな目つきをした彼を止めるように陽斗先輩が彼を止めに入ったが、彼は私の隣から離れるどころか、私の耳元に顔を近づけてきた。
あまりにも近くまで来るから押し飛ばそうと手に力を入れたのに、何故か押し飛ばすことが出来なかった。
「陽斗君には助けを求めるんだね」
短く発せられた言葉は、明らかに怒気をはらんでいた。
「近くにいるだけで、結局何もしてくれないのに」
そう言われて咄嗟に陽斗先輩を見れば、傷ついている様子は見られなかった。ただただ私の心配をしている表情を浮かべていて、それならまあいいか、と安堵の溜め息を心の中でつく。
私にしか聞こえない成長で嫌味を言った彼に視線を戻せば、既に隣から移動していて、こちらに背を向けていた。
彼が今、どんな表情を浮かべているのかなど分からないが、私にだけではなく仲の良い陽斗先輩にも敵意むき出しな言葉と態度に、私は混迷を極めていた。