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机の上に置いていた鞄を再び机の横に掛け、人と机を避けて窓際に移動して外を眺めた。
月曜日は塾があると嘘をついているため、今日は凪沙たちも声をかけてくることはなかった。
勿論、塾なんてない。
そもそも行っていない。
どうしても誘われなくてもいいと割り切れる曜日が一日欲しくて、一人になりたくて。正確な時期は覚えていないが、いつしかこれが通じているようになっていた。
小学生ならまだしも、高校生にもなって塾が週一の人などいるわけがない。
馬鹿みたいに私は塾に通ってるって信じ切っている二人が、昇降口を出て校門に向かっている姿を見て、心の中で嘲笑いながら荷物を持たずに職員室へと向かった。
頼まれていない日は本当に何も頼むことがないという事を解っているのだが、小説を持ち歩いてもいないし、図書室に行って本を借りたり勉強したりはしたくなかった為、ほんの少しでも仕事がないか聞きに行こうとした時、廊下の端にある図書室から担任が出てきた。
「おー、白石。ちょっと助けてやってくれないか?」
職員室にいるとばかり思っていたから手間が省けた。なんて思っていたのも束の間、担任の隣にいる女子生徒が、今にも泣きそうな顔をしながらこちらを見ていた。
「はい?」
「この子の手伝いをしてやってほしいんだ」
彼女の手には画用紙が握られていて、目を凝らして見てみると、それは本のポップだった。
本のポップは勿論、図書委員会の仕事。
すぐにそれが分かった私は、彼女が羨ましくて仕方がなかった。
中学の時は3年間、ずっと図書委員だった私は、高校でも同じ図書委員希望だったのだが、高校生になればあまりにも希望者が多かった。
希望者が多いということは、全国共通のじゃんけんで決めることになり、運がない私は2年間図書委員ではなく、面倒な保健委員になっていた。
でも、比較的楽な仕事ばかりをやらしてくれるからあまり文句は言えないけど。
「何を手伝えばいいんですか?」
「ポップでいいのか?」
「……はい」
「一緒にやるはずだったやつがこの子に全部任せたらしくてな」
「分かりました」
そう返事をして、一歩前へと踏み出した時だった。
「やっぱり大丈夫です!」
その言葉に、思わず動きを止める。
どうして? という疑問より、やっぱりそう言うよね、という納得の方が早かった。
「どうした急に」
「白石さんに手伝ってもらうのは、その……申し訳ないので……」
同じクラスではない彼女の名前を、私は当然知らない。けれど、誰かを頼りたいほど今の彼女は切羽詰まっているということで。そんな彼女から目を背けるなんてことは出来ない。
頼りたいという本音を見逃すほど私はクズではないし、頼りたいのに咄嗟に強がって思ってもいないことを言ってしまうのが自分と似ていたから、余計手を差し伸べたくなった。
「私は何をやればいいの?」
警戒されないように。高嶺の花ということで距離を取られないように、作った笑顔だと悟られないように柔らかく微笑みながら彼女に近づく。
「え、あ……」
「私、こういうポップ作りとかやってみたかったの。だから図書委員になりたかったんだけど、2年連続じゃんけんで負けちゃって……」
笑みは浮かべたままで、髪を耳にかけながら首を少し傾げて見せれば、泣きそうで気まずそうだった彼女はほっと胸を撫で下ろした。
私にどんなイメージを抱いていたのかは知らない。
実際、誰彼構わずにすぐ劣等感を抱いたり、一度でもその人に負の感情を抱いたらずっとその人のことを嫌いになるくらい性格は悪いし、陽キャという分類で、みんなから避けられている友人を持つのだから、良い印象を持っていないことくらいは分かるが、早口にならないように気をつけたり、笑顔の種類を増やせば、彼女はすぐに警戒心を解く。
そんな彼女を丸め込むのなんて簡単だ。
正直、図書委員になれたら書架整理班が希望だったのだが、時間が潰せればどんな仕事でもいい。
「私は何をやればいい?」
「この原稿用紙に書いてあるものを、この画用紙に書いてほしくて」
「帯みたいなポップを作るってことだよね?」
「そう」
仕事を引き受ける前に、彼女たちがいつもどんなポップを書いているのかを図書室に見に行くことにした。
図書室には比較的来ている方だとは思うが、ポップとかは今まで一度も見たことがなかった。
でも図書室に長居はしないし、小説も自分で持ってきているから本を借りるなんて事はまず無い。だから、ポップの存在にすら気づいていなかったが適切な言葉だ。
図書室の扉を開ければ、いつものようにちらほら人がいる。迷惑になるかもしれないから、一応カウンターにいる人に許可を取ってポップの写真を撮った。
「何か希望とかあるかな? 丸文字にしてほしいとか、吹き出しみたいに紙を切ってほしいとか、そういうの」
「特にはない、かな……」
彼女はそう言うと思っていた。
だって、他のポップたちと比べて、彼女が携わっているポップは白い画用紙にただ文字が書いてあるだけの、ポップなんて言えないポップだったから。
「いつも、そういうことは話し合っていないから」
仕事を放り出している時点であまり仲が良くないことは解っていたけど、思わず溜め息が漏れそうになる。
図書委員の仕事だからといっても、最後まで小説を読んだわけで。読んだ人にしか当然その小説の雰囲気とか面白さとか、一番伝えたいことは分からないわけで。それなのに、そういうことを何一つ言えない関係性は、あまりにも悔しいでしょ。
それに、彼女が私にポップの仕事を頼んでいるのは1つではない。3つだ。
3つもあるのに、どうぞ私の好きに書いてくださいとか、引き受けづらい。
私はただの代わりだ。
変に私が意見を出すのは違っているし、勝手にポップの雰囲気を変えて彼女たちの仲を更にぶち壊すくらいなら、今まで通りのものを真似した方が平和だろう。
「うん、分かった。そのまま写すね」
彼女の目を真っ直ぐに見つめて、ハッキリと告げる。そうすれば彼女は、目を見開いた後、コクコクと頷きを見せた。
「私、教室でやってもいいかな?」
「うん。あの、その……よろしくお願いします」
「はい」
いざ声を出したら思った以上に声が震えてしまうところとか、ぎこちなくなってしまうところが何だか自分と重なってしまい、私はきっと今までで一番優しい笑みを浮かべていただろう。
お互いに軽く頭を下げ、私は教室へ。彼女は一番端の空いている席へと向かう。
ホッチキス留めとか、ノート運びとか、プリント貼りとか、掃除など何度もやったことある手伝いなんかより何倍も今回の仕事の方が嬉しくて、きっと教室に向かう足は軽やかだったに違いない。
教室に戻ってきた私は、写真で撮ったポップを横目で見ながら、原稿用紙に書かれた言葉を真っ白な画用紙に書き写していく。
読んでみたい文章を書くセンスが光っている、なんて上から目線な感想を心の中で呟いて、思わず作業に没頭していると、今までで一番丁寧に書いたというのに30分ほどで頼まれた仕事を全て終えてしまった。
きっと間違えたところがある。
なんとか仕事を増やしたくて、そういう思考になった私は間違えた個所がないかじっくり見直しても、間違えているところはどこもない。
「嘘でしょ……」
思わずそう呟いてしまう程、終わってしまったことが悲しくて仕方がなかった。
彼女からしたら早く終わった方がいいに決まっているけど、何故だか持って行きづらい。そう思った私は、花に水をやろうと席を立つ。
ほんの少ししか時間稼ぎにはならないが、ぼーっとしているより何かをやっている方が気持ちも落ち着くし、急に感じた変な胸騒ぎも紛らわすことが出来る。それに、動いている方がきっと性に合っている。
私しか使っていないであろうジョウロに水を入れ、名前の分からない花に水をやれば、いつものように花の前で頬杖をついてじっと眺める。
私が育てている、と言っても過言ではないこの花は、幸せなのだろうか?
このクラスでこの花の存在に気づいているのは、本当にごく僅かだと思う。
そんな中、この花は幸せなのだろうか?
「幸せ、よね? 私がこんなにも、あなたのことを見てあげているんだから。そんな存在なんて誰一人としていない私より、きっとあなたの方が幸せだよ?」
花なんかに何、ムキになっているんだか。
そんなことを零したって、誰かが私を救ってくれるだなんて夢のような話はなくて、はぁ……と盛大に溜め息をつきながらその場に蹲る。
悲劇のヒロインなんか気取りたくない。
でも、どこかで自分はこんなにも可哀想なんだよって、主張したい自分もいる。
頑固で、融通が利かなくて、自分本位で、何かと冷めたところがあって。そんな人間としてクズな私を、誰が受け入れてくれるんだ。誰が愛してくれるんだ。
だから私は──愛されないんだ。
こんな気持ちになりたくて水やりをしたわけではないのに、すぐこういう考えになってしまう自分に、今日も嫌気が差す。
膝に手をついて立ち上がり、ジョウロを掃除用具入れに戻してから自分の席に戻る。
もう、図書室にいる彼女に作り終えたポップを渡しに行けばいいというのに、何故か私は椅子に座っていて、ポケットからスマートフォンを取り出していた。
何も考えず、無意識にお気に入り登録をしていたあのサイトを開いていた。
一番最初に見た時と何ら変わらない、不気味な真っ白の背景に意味の分からない言葉だけが表示されている。
このサイトは、一体何なのだろうか?
こんなにも不気味なのに、どうしてこんなにも興味が湧くのだろう?
「あなたは選ばれし者です? なにそのサイト」
ただ見ているだけなのに、画面に吸い込まれそうな感覚を覚えていた時、耳に息がかかるくらいの距離から聞き覚えのある大嫌いな声が聞こえて勢いよく振り返れば、私のスマートフォンの画面を凝視している天王寺玲青の姿があった。
距離が近いこと、馴れ馴れしく話しかけてきたこと、勝手に画面を覗いていたこと。なによりも足音一つ立てずに近くまで来たことに腹が立ち、殺意を込めるようにきつく彼を睨みつける。けれど彼は、いつまでもスマートフォンの画面を見ていたから私とは目が合わず、そのことすらにも腹を立てた私は、感情に流されるようにスマートフォンを机に伏せた。
「ねえ、何なのその不気味なサイト」
「……さあ?」
「さあってことはないでしょ。見てたんだから」
さあ? 以外の言葉が見つからないし、たとえ分かっていたとしても、彼に教える義理はない。お願いだから話しかけないで、と暗に告げる私の態度に、彼はクスッと笑った。
彼のひとつひとつの行動に腹を立てて無駄に体力を使いたくなかった為、この空間には私一人しかいないと暗示をかけて落ち着きを取り戻そうと努力をしているというのに、彼は何故か私の後ろから全く動かない。
どれだけ待っていても彼は動こうとしないし、無駄に視線も感じてストレスがピークに達した時、盛大に溜め息をついてやれば、彼は私の机に手を置いて隣にやって来た。
「白石さんがそうやって先生とか誰かの手伝いをするのって、点数稼ぎ?」
机の上にあるポップを指差しながらそう言ってきた彼に、怒りを覚えない方がおかしくて。何も知らないくせに、と心の中で呟いていた私の顔は、きっと悔しさで歪んでいたはず。
でも、彼なんかに負けたくなくて、私は頬杖をついて無理やり口角を上げた。
「そう思う?」
初めてに近い感覚で、素の私で反抗的な態度を取れば、彼はいつものような馬鹿にした笑みを浮かべることはなく、真顔で私を見下ろしてくる。それが少し、怖かった。
「質問を質問で返すと嫌われるよ」
「別に嫌われても問題ないけど」
既に嫌われている彼から更に嫌われたところで、なにかが変わるわけじゃない。そんな気持ちを込めてそう言えば、彼がグイッと顔を近づけてきた。
「良いことをしても、誰も見てくれないよ」
断言されて息を呑む。
それに、思った以上に彼の言葉は、私の胸にズップリと深く深く刺さった。
そんなこと言われなくても解ってる。
端から誰かに見られたいだなんて思ってないし、期待もしていない。見返りを求めているわけでもなかった。でも、それを口に出されるのと出されないとじゃ訳が違うわけで、悔しさからまた心が軋む音がした。
「そんなに強く握ったら、痕がついちゃうよ」
そう言って、私の手には触れずに手の近くで机をコツンと指で叩いた彼は、何故か教室の後ろへと歩いて行った。
頬杖をついていない方の掌を、無意識に力一杯握りしめていたらしい。
力を抜いて手のひらを見てみれば、くっきりと爪の痕がついていた。
切らずに伸ばしているから爪の痕がつくのは当たり前だが、痕になっているところが真っ赤で、こんなにも痛々しく感じるというのに、痛みがまったく感じられないのはきっと、彼のほうに意識が向いているから。
息が詰まるような静寂が場を包んでいて、すぐにでも教室から出て行った方が賢明な判断だというのに、上半身だけを動かして彼の姿を追いかけると、先ほど私が水やりをやった花の前に彼は立っていた。
「白石さん、この花の名前知らないでしょ?」
花を指差しながら、私が花を見れるようにわざわざ横に移動する彼。
「この花はね、ランタナっていう名前なんだよ」
「ランタナ……」
「色がコロコロ変わるから、心変わりっていう花言葉があるんだよ。他には協力、合意とかあるけど、なんかこの花──白石さんを表してる気がしない?」
ちょっとした豆知識を披露したと思ったら、突然なにを言い出すんだこの人は。しかも、そんなことを言われて「へえ、そうなんだ」って、私が一言でも言うと思ったのだろうか。
花が私を表しているなんて言われても、私はちっとも嬉しくない。
それはきっと、ランタナという花を見ながら、にこにこと邪気のない笑みを彼が浮かべているから、嬉しくないという気持ちしか生まれないのだろう。
はぁ、と小さく溜め息をついてから体勢を戻そうとした時、以前に私がちょこんと花に触れたことを彼も同じようにして見せた。
あの時の足音と気配は彼のものだったのかと、すぐに気づいたと同意に、何故彼は隠れるようなことをしたのだろうと疑問が生まれた刹那、彼の目つきが変わった。
いつもの笑顔が消えて、彼は静かに言いきる。
「白石さんが一生懸命育てても、誰一人としてこの花を見てくれる人はいないから、この花は幸せになれないよ。こんな花より、白石さんの方が幸せだよ」
独り言を聞かれて恥ずかしいが、教室には剣呑さが増していく。
彼が本来の自分を出しただけで、こんなにも体に空気が入ってこないものだのだろうか。
おさまらない動悸と眩暈を堪えながら必死になって彼を睨みつける為に目に力を入れるが、まったく力が入らなくて、ただ彼を見上げているだけの形になっていた。
「存在無いんだよ、この花は」