教室の中央辺りから唸り声が聞こえてくる。
その声の主は私の目の前に座っている絵麻から発せられているのだが、あまりにも聞いたことのない唸り声のせいか、数名がこちらに視線を向けてきた。
ただ勉強をしているだけだというのに、どうして変に注目されなくちゃいけないんだ。
やっぱり、友達選びを間違ったな。
普通の、私を道具だと思わない友達すら作れないんだから一人でいた方がよかった。なんて今更後悔したって意味がないし、誰かに必要とされたいと。価値のある人間になりたい私がそんな判断なんて端から出来るわけもなく、自分の思考に溜め息をつくしかなかった。
「ましろ、わかんないよー」
10分休みになってすぐ、先程の授業で分からないところを絵麻がノートを持って聞きに来た。
別に私は、頭がいいわけではない。
かといって、赤点を取るような馬鹿でもない。
自分のことで精一杯だというのに、人に教える余裕なんて私には持ち合わせていない。だからなんとか私が教えなくてもいいように回避をしてみる。
「勉強できる人に訊いてみたら? きっと教え方、上手だよ」
「えーやだ。陰キャと関わりたくないし」
絵麻がそう言った瞬間、どこからか舌打ちが聞こえてきた。
馬鹿な発言といい、舌打ちといい、思わず深く長い溜め息が漏れそうになったが、だったら天王寺玲青はその類になるの? なんて質問をしたらきっと、違うよ、と言うんだろうな。
「絵麻。そんな言い方よくないよ」
「ましろ、私たちだけでこれからは過ごそうね」
「なんで!? 凪沙だって」
「私は一言も言ってないけど」
「いつも態度に出てる!」
「言っとくけど、私ましろと同じくらいの学力だから訊く必要なんてどこにもないし。馬鹿は一人で頑張ってな」
「見捨てないでよぉ……」
自分たちは1軍だから、下の階級の人たちに頼りたくないのだろう。1軍だっていうプライドだってあるだろうし。
私も不本意だが、その気持ちは分かってしまう。
妹に弱みを握られたくないし、自分よりも劣っているなんて一ミリも思われたくなくて必死になっている気持ちは凄く理解できる。陰キャと広い範囲で絵麻は言っているが、自分のことを言っていると少なからず誰かは思っているわけで。だから舌打ちだってされる。
先輩の時の発言といい、誰が聞いているのか分からないところでの発言は本当に控えてほしい。
誰かに注意したり、気を遣ったりは、本来私の役割ではない。
だからこの位置は、とても心地が悪かった。
「だったら玲青に訊いてきなよ」
「えー、だってアイツいるじゃん」
アイツとは、多分高橋さんのこと。
後ろなど振り向かなくとも、いま彼女がどんな表情を浮かべながら彼に話しかけて、ボディタッチをしているのか想像がつく。
彼も彼でまんざらでもなさそうだし、お似合いだから付き合えばいいのに。
私にあんなことなんて言わずに。
「どこが分からないの?」
「ましろがそう言ってくれるのを待ってたよ!」
「うん、知ってる。それでどこが分からないの?」
「ここなんだけど」
元々勉強はそれほど嫌いではなかった。
けれど、親のせいで嫌いが加速していった。
両親も私のことは道具にしか思ってない。
あそこの家の子は頭がいい、礼儀がしっかりしてる、美人など、自分から周りに言うのではなくて言わせたいからって私を使う。
近所に同じ高校の子がいるから、余計勉強だけはしっかりさせようと口煩く言ってくる。
馬鹿みたいに妹を寵愛しているくせに、周りから「妹の方はねぇ……」などと、マイナスなことを言われようが妹のことは何もなかったかのように過ごしている。それが私になると面白いくらい違ってくる。
例えば、最近だとカラオケ。
カラオケから出てきたところを、どうやら母と仲が良い人に見られていたらしい。次の日の夜に母からではなくて父から怒られた。
「テストが近いというのに何遊んでいるんだ。しかもガラの悪い奴らと一緒だったんだってな?」
(ガラの悪い奴ら、か……)
「お前は
まあ、この会話自体は何度も経験しているし、目を伏せて「はい」と適当に流していたが、溜め息をついてから次に父が言った言葉で、結局私は唇を噛みしめる羽目となるのだけれど。
「本当……どこで間違えたんだろうな」
そんなの、最初からに決まってるでしょ。
お母さんが妊娠に気づいていれば、お父さんだって私だって違った人生を送れていた。幸せになれていた。
まるで、自分だけが被害者だなんて思わないでよ。
思い出すだけで腹が立ってきた。
これだけは絶対思ってはいけないし、言ってはいけないことが自然と頭に浮かんできてしまい、頭痛がしてくる。
「なるほど!」
教えてあげたところを理解した絵麻は、教室中に響き渡るくらい大きな声を出した。けれど、タイミングよくチャイムが鳴ってくれたため、ある程度はかき消されて変な注目を浴びることはなかった。
でも、大きい声のおかげで現実に意識が戻ってきたから、ほんの少しだが感謝はしてる。
「やっぱりましろは、将来先生とかになった方がいいよ」
立ち上がった凪沙はスマートフォンの画面を見ながら、突然そんなことを言ってきた。
「先生?」
「教え方上手いし」
「上手じゃないよ」
「私は上手いと思う。頭がいいって証拠じゃん」
凪沙は一度も笑みを浮かべることはなかったが、私の頭を撫でてから自分の席へと戻って行った。その後を追いかけるように絵麻も私の前からいなくなった。
残された私は、お礼もないのかよ。と心の中で呟き、机の上に広げているノートに視線を落とした。
立場上、馬鹿と思われるのはあまりにも致命的すぎるから、頭がいいとも馬鹿とも思われない中の上を必死になって保っているのだが、勉強が出来る人は自分のノートを見ながら人に教えない。
そもそも、中の上という中途半端な位置を必死に保っている私は、結局何になりたいのだろう。
何を他人に求めているのだろう?
何も求められない、ただ容姿の良さだけを褒められたいのだろうか?
でもそれだと、矛盾している。
私が思う価値のある人間とは、程遠くなる。
最近考えることが多くなり、少しでも心を軽くしようと溜め息を吐こうとした時だった。
「なんかさ、白石さん見てると〝ひとりでも生きていけそうな代表〟って感じしない?」
ふと後ろから聞こえてきた声に、冷水を浴びせられたように心が冷えていく。
そんな状態で、私は静かに聞き耳を立てた。
「わかるわかる! 同い年なのにしっかりしすぎてるっていうか、明らかに腹立つこと言われてたりするのに表情変えないところとかさ」
「そうそう!」
「ポンッと大人たちのところに入っても話しついていけそうだし、私もずっとそう思ってた」
「だよね? やっぱりそう思ってたの私だけじゃなかったんだ」
「みんな、人に頼らないで生きていく代表って言ってるもん」
本人が同じ空間にいるというのに、よくもまあ、ベラベラと好き放題言えるな。
どういう感情でそんなことを言ってるのかなど理解したくないが、彼女たちにとって先程の発言が誉め言葉として言っているのであれば、本当に気分が悪い。
そもそも、どうしてそんな風に思われているのか不思議で仕方がない。
会話という会話をそこまでしていないから、そういうイメージがついても仕方がないのかは、いまいちよく分からない。
分からないからこそ、苦しいものがある。
あと、ひとりという漢字もどちらなのか分からない。
一人ならまだしも、独りだった場合は、今までの信頼とか高嶺の花とか全て捨てで彼女たちの元に行き、殴りかかってしまいそう。
まあ、どちらの漢字にしろ結局のところは馬鹿にされているわけで。小さく自嘲気味に笑った私は、思わず遠くを見つめた。
陰で何かを言われているのは当然知ってたが、こんなことを言われているなんて知らなかった。今回は陰ではなく堂々と言われているけれど、真実を知って、驚くほどショックを受けている自分がいた。
その後も私の名前が出続けたから、我慢の限界がきて振り向いた。
今、初めて私の名前が聞こえてきた、という馬鹿馬鹿しい演技をしながら。
私と目が合った一人は話しを続けようとしている友人の肩を叩き、私がこちらを見ていることを伝えると、慌てて私の方を振り向いた。
怒り、哀しみは絶対表情に浮かべないよう意識をし、何の話をしているのだろう、と首を傾げて微笑んでみた。すると彼女たちは怯えた様子を見せて、二人とも唇をペロッと舐めて俯いた。
別に圧をかけたわけではないのに、勝手に緊張して。気まずいって思うのなら、最初から同じ空間にいる時に私の話題を出すな。
二度と話せないように口を縫ってしまおうか、と恐ろしい思考になりながら彼女たちの後頭部を見つめてから体勢を元に戻そうとした時、不意に感じた視線に思わず顔を歪めてしまった。
見る必要なんてどこにもない。
なのに私は感じる視線の方に目を動かせば、案の定、天王寺玲青がこちらを見ていた。
必死に怒りとか哀しさとかを抑えていたのに、彼と目が合った瞬間、制御が出来なくなっていた。
あの言葉を彼に言われてから、高嶺の花を演じている際に少しだけ本来の自分が垣間見えてしまうことが多くなった気がする。
そういうのが今まで一度もないかと言ったら嘘になるが、教室の中でボロを出すようなことは彼が絡んでくる前までもそうだし、陽斗先輩が近くにいない限りなかったはずなのに、目つきがどんどん悪くなってる自覚しかない。
私にとって彼は、そこまで影響力がある人間だとは思えないのに。
カラオケの時に見せた冷たい目ではなく、私によく見せる憎たらしい笑みを浮かべながらこちらをじっと見続けてくる。そのせいで自分と目が合った、と勘違いしてくる女子の声が前の席から聞こえてくる。
本当、こんな奴のどこがいいの……と思って溜め息をつこうとしたけど、グッと堪えることは出来た。けれど、微笑み返すなんてことは当然出来なくて。あの時のお返しとばかりに、露骨に目を逸らして体勢を元に戻した。
そんな私を見て、彼が意味深な表情を浮かべているとも知らずに。