一人が歌い終わると、すぐに次の人が歌い出す。
カラオケってそういう場所だし、日々のストレス発散の場所でもあるからみんな休むことなく歌い続ける。
歌い終わった人には上手だったと、流石だと言い、歌っている人には気を遣いながらニコニコと笑みを浮かべ、リズムに乗りながら手を叩きながら聴き入っているふりをする。
こんなのいつものこと。
知っている曲も知らない曲も私には関係ない。
それが今日は、死ぬほどつまらなくて仕方がない。
いつもだったらそんな感情すら生まれない。この空間だって苦など一切感じない。
でも今日は、彼がいるから。それだけの理由でどうして自分がこんなにも変わってしまうのか理解が出来ない。
ただ嫌いなだけなのに。
ただ、それだけなのに。
ドンドンと低音の強い音が内臓を刺激する。
ただでさえ大きな音が苦手だというのに、体調が優れないなか、こんな密室で何時間と大きい音が聞いていると段々気持ちが悪くなってくるのも当たり前で。我慢していた吐き気がついに限界を迎え、席を立とうとすればトンと肩に手が乗る。
振り向くと、隣に座っていた陽斗先輩が心配そうな表情を浮かべていた。
「どうしたの? 具合悪い?」
「あ……」
「帰ろうか? 送ってくよ」
顔を覗き込んでそう言ってくれる陽斗先輩の目をちゃんと見ながら首を横に振って、心の中でごめんなさいと呟きながら先輩の手を剥した。
「トイレに行って来るだけなので」
咄嗟に笑みを浮かべれば、陽斗先輩はスッと真顔になった。その顔は怒っているような、悲しんでいるような何とも言えない表情で真っ直ぐこちらを見据えていた。
何かから逃れようとする時、笑みを浮かべる癖が陽斗先輩の前でも出てしまった。それによって傷つけたことなんてすぐに分かったというのに、斜め前からの視線に思わず反応してしまった私は、陽斗先輩に謝ったりするのではなくチラッと斜め前に視線を向けると、当然ながら彼と目が合った。
何を考えているのか分からない表情に恐怖を覚え、あとは気まずさと先輩からの視線から逃れたくて会釈をした私は、足早に部屋から出て行った。
いつもより早く歩いて、完全に私の姿が部屋の中から見えなくなった辺りからもがくように走ってトイレに駆け込んだ。
学校の時と同じようにトイレには私以外誰もいなくて、個室に入って鍵を閉めた途端、盛大に溜め息をついた。その息は少しだけ揺れていた。
怒りだけの感情が湧いてきて無性に暴れまわりたいし、してもいいのなら今すぐにこの扉を思い切り殴って蹴りたいけど、当然その行為は出来るわけなくて。その場に座り込んで力一杯自分の体を抱きしめて怒りを鎮めることしかできなかった。
吐きそうなくらい気持ちが悪い。
でも、吐くことが出来ない。
胃にほとんど食べ物が入っていないのだから吐けないのも当然だというのに、それすらこの時の私は分からず、何もかもに怒りを覚えた。
じわりと目に涙が浮かんでくるけど、この後また部屋に戻らないといけないのだから泣くことは許されない。変に注目を浴びて変な視線を向けられたくはなかったから。
「はぁ……」
たった一人の存在で、どうして自分がこんなにボロボロになってしまうのかが意味分からない。分からないからこそ頭にきて、体力が消耗する。
転校したい。
劣等感を抱かなくて済む環境に行きたい。
本来の自分でいてもいい所に行きたい。
もう、死にたい。
いっそのこと、死ねない理由がどんどん増えていけばいいのになって思ったけど、死ねない理由が出来たところで何だって話になってくる。差別が無くなるわけでも、今の現状が変わるわけでも、私を捨てた親たちの謝罪が聞けるわけでもないのに。
私って本当、なにしにこの世に生まれてきたんだろう?
苛立ち、悲しみから貧乏ゆすりを無意識にしていたため、床にローファーが当たる音が響き渡っているのと、扉もガタガタと揺れていることにようやく気付いた私は、膝に手をついて溜め息をつきながら立ち上がった。
ここに長居をすると何だか面倒なことが起こりそう。そうじゃなくても部屋から出る時に陽斗先輩なんかは心配してくれたし、早く戻らないと。
ただ、戻ったところでいつもの対応が出来るか出来ないかは別だ。
ムカムカしている胃を押さえながら個室から出て、げんなりしている顔を見ながら手を洗う。ポケットから取り出したハンカチで手を拭きながらトイレから出た瞬間だった。
「ねえ」
聞き覚えのある声に伏せていた目を上げると、壁に寄り掛かって明らかに私のことを待ち伏せしていたであろう天王寺玲青に声をかけられた。
目も合っているし、声をかけられたからには無視はできない。
そう思ったけれど、見下しているような表情を彼は浮かべていて、雰囲気も何故かいつもと違う。何もかもが癪に障って返事もせずに彼の前から立ち去ろうとすれば、それを許さないとばかりにひんやりとした手で手首を掴まれた。
「放してください」
「二人で抜け出さない?」
予想外の言葉に動きが止まり、思わず目を見開いてしまう。
そんな行動など彼には予想通りの結果だったのだろう。後ろからふっ、と鼻で笑ったのが聞こえてきたことによって一気に怒りが頭と胸に広がり、勢いよく振り返ってしまう。
「なに、突然」
「だってつまらなくない?」
あんなに楽しそうに歌っていたくせに?
なんて思ったが、つまらないという言葉に少しでも共感してしまったことに心が物凄くざわついている。
「それに、白石さんと二人きりになりたかったから」
本当、なんなの急に。
急すぎて逆に恐怖すら覚える。
だって彼は、私のことが嫌いなのだから。
嫌いな奴と二人きりにわざわざなりたい?
嫌がらせだとしても私は死んでも嫌だ。
「無理」
「なんで?」
「大勢の方が楽しいから」
「嘘つき。そんなこと一ミリも思ってないくせに」
すぐに嘘だと気づかれたが、ここで変に反応すれば彼の思うつぼ。
私は目を逸らすことなく、真っ直ぐ彼の目を見据えたまま何の反応もしないでいると、彼は口角を上げると少しだけ首を傾げた。
「俺とも仲良くしてよ」
俺?
この人の一人称って〝僕〟じゃなかった?
他人の一人称など超絶どうでもいいが、彼は別だ。
こんなにも気味が悪いのは何故だろう。
高嶺の花の自分などこの際どうでもよくて、目を細めて彼が何のために私に関わりに来ているのかを考えていると、その顔がきっと彼からしたら間抜けだったのだろう。クスッと私を見て笑う彼を睨みつけていると、今度はグイッと自分の方に私を引き寄せた。
より一層距離が近くなったことで胃のムカムカは更に増し、手を振りほどこうと腕に力を入れるが、一日一食の生活をしているやせ細った私が男子の力に勝てるわけもない。
「放して」
「俺たち凄く似てるんだよ」
「……似てる?」
「うーん、一緒って言った方が合ってるかな」
なに一つと理解が出来ていないというのに、一人でブツブツと何かを言っている彼には嫌悪感しか抱かない。
こんな人に関わっているだけ時間の無駄。
私はもう一度腕に力を入れて手を振りほどこうとした瞬間、彼が更に距離を詰めてきて、最後にはグイッと顔を近づけてきた。
あまりにも近い距離に動揺している私に、彼は爆弾を落とす。
「白石さん、自殺願望あるでしょ?」
今までも何度も心臓が大きく跳ね上がることはあった。けれど今回は、今までと比べ物にならないくらいドクンッと大きく心臓が跳ね上がり、動悸がすると同時に視界が一気に狭まった。
やけに耳につく鼓動が不快で仕方がなくて、呼吸をすることも瞬きをすることも忘れて彼を凝視していると、更にグッと私に顔を近づけてきた。
「俺もね、自殺願望があるんだよね」
「っ……」
「だから言ったでしょ? 一緒だって」
誰がそんな言葉を信じるんだ。
みんなから愛されて、欠点などどこにもない人間が私のように死にたいって。死ぬなら自らの手で死にたいだなんて思っているはずがない。
私に自殺願望があることをなぜ彼が知っているのかは分からないが、私は更に彼のことが苦手になった。
「だからさ、一緒に死なない?」
彼の顔は真剣そのもので、嘘をついているようには見えなかったものの、私には無いものが沢山あって、私が欲しいものも沢山持っている彼が死にたいだなんて。それも一緒に死のうと誘ってくるとかふざけてるでしょ。
なんでこんな奴がみんなから愛されているのよ。
「きっと、あなたは甘やかされて育ってきたんだろうね」
「なにを根拠にそんなことを言ってるの?」
「あなたのその態度。何でも手に入れることが出来るっていうその態度が癪に障る」
彼は表情を崩さず、ずっと口角を上げたまま。
まるで、私がそう言うと分かっていた態度に私はまた腹を立てる。
「そんなあなたとは一生分かり合えないから」
「えー? 俺たち似た者同士なのに」
「それこそ何を根拠にそんなことを言ってるの?」
「今まで俺の前でも必死に高嶺の花を演じてきたのに、もう演じなくていいの?」
今更そんなこと訊いて何になるの。
自分だって〝俺〟って言ってるくせに。
確かに、必死に築き上げてきたものを一瞬にして壊してはしまったけれど、彼に好かれたくはないし、今更いつもの私で接するなんて無理な話で。顎を引いて彼を睨みつけていたが、顎を上げて見上げるように睨みつければ、彼は少しだけ真剣な表情になった気がした。
「白石さんを全て理解した上で言ってる」
「いい加減にして」
「そんなに怒らないでよ。俺はまず仲良くなりたいだけなんだから」
「難しいと思うよ」
「そんなことないよ。俺たち絶対相性いいし」
「……もし仮に似た者同士だったとしても、私たちは絶対に分かり合うことはないよ」
「ううん、そんなことない」
ここまで言っているのに、なぜ否定が出来るだ。
しかも、その自信はどこからくるんだ。
ただただ私の中で怒りが増幅していって、仲良しごっこをやりたいのなら他を当たって。そう言おうとして息を吸い込めば、先に彼が口を開いた。
「俺だけにしか白石さんを支えることも、理解してあげることも、受け入れてあげることもできないよ」
理解して〝あげる〟?
なにその上から。まるで私が頼んでるみたいじゃない。
誰もあんたになんか私を理解してもらいたくも、受け入れてもらいたくもない。
改めて彼の存在は、警戒しておくに越したことはないと思った。
結局言い返すことはなく、勢いよく顔を背けると同時に手を振り払い、彼に背を向けて部屋に戻った。
感情を抑えることが出来ず、ドサッと勢いよく腰を下ろしたせいで陽斗先輩がこちらに顔を向けた。先ほどのように顔を覗き込ませるのではなく、トントンと肩を叩いて自分の方に視線を向けされるように仕向ける先輩。
膝の上で拳を力一杯握りしめながら、渋々陽斗先輩の方に視線を向ける。
「なにかあった?」
「……いえ」
何があったのかなどメッセージの時のように馬鹿正直に答えれるわけもなく、先輩から目を逸らしてふてぶてしくそう返事をすれば、先輩はそれ以上訊いてくることはなく、「そっか」と流してくれた。
陽斗先輩に八つ当たりをしても意味がないというのに。
それに、さっきの先輩の声、すごく悲しそうだった。
早く謝らないと。
でも、自分から話しかけるのは少し気まずい。
心に生まれたモヤモヤの名前は分からないが、放置をすればするほどそのモヤモヤは増幅していく。ウジウジしたって意味ないし、これ以上自分の中に溜め込むのもよくないと判断した私は、何度か瞬きをしてから勇気を振り絞って陽斗先輩の〝はる〟まで言いかけた時、部屋に戻ってきた天王寺玲青のせいで私の声は遮られてしまった。
また邪魔をされたと思った私は、みんながいるなか自分の感情を抑えられなくて彼を睨みつけた。彼もまたこちらを見ていて、勿論目が合っている状態。眉間に出来たしわが更に深くなっていく私とは違って、彼はふいっと私から目を逸らした。
今まで一番と言ってもいいほど冷たかった目つきにこれでもかというくらい怒りを覚え、やっぱり私は表情管理ができなくて。一気に血圧が上がった自分を落ち着かせるためにお茶が入ったコップを手に取って飲もうとしている私の前にわざわざ座ってきた彼は、先程とは違ってみんなにいつも見せている笑顔を私に見せつけてきた。
別にみんなと同じ対応をされたいわけじゃない。彼に好かれたいわけじゃない。特別になりたいわけでもない。私だけが彼に見下されているのもよく解っている。ただ、それを理解している私に見せつけてくるだなんて、本当いい性格してる。
──俺だけにしか白石さんを支えることも、理解してあげることも、受け入れてあげることもできないよ。
先程そう言っていたくせに、その態度はなんなの。
彼を理解するなんて到底無理な話だが、彼との会話はこの世で一番くだらない会話だったな。
「二人とも、トイレ長くなかった?」
絵麻の一言にちょうど音楽が終わり、少し緊張が走る。
何か言わないと変に誤解される。
それなのに声が出ない。
何度も生唾を飲む私と、そんな私を心配する陽斗先輩とは違って、彼はくすっと笑った。全員が彼に視線を向けるなか、彼は隣に座っている絵麻の顔を見るように前屈みになった。
「面白いこと言うね」
「だって、遅かったし……なんかやましい事してたんでしょ」
「してないって。僕は電話しに行ってただけだし。何かあるなら一緒に帰って来てるよ」
嘘臭い笑顔でよくもまあ、スラスラと嘘が出てくるもんだ。
でも、彼が嘘でも話してくれたおかげで助かったのには変わりなくて。コップを握る力が徐々に強まっていく。
「それに白石さんとあまり話したことないし」
「それもそうか」
「でも」
私の方には一切顔を向けず、絵麻たち向けて言葉を続けた。
「僕は白石さんと仲良くなりたいって思ってるよ」
別に今言う必要なんてどこにもなくて。そんなこと自分の中で留めておく感情だ。
けれど、彼が口にしたせいで何故か凪沙と絵麻から鋭い視線を向けられている。
二人は先輩の方が好きで、彼になど一ミリも興味がなかったはず。
思い当たる節と言えば、今日は私たちが主役なのに何でお前がちやほやされてんだよって思われてるんだろうな。
確かに今は私が会話の中心になっているのかもしれないけど、そうさせたのは絵麻だし。私は一言も話していない。彼が勝手に言ったことなのに、私に怒りの矛先を向けないでよ。
「玲青、人見知りだから無理無理ー。俺たちとだけ仲良くしてなよ」
「僕が人見知りっていつの時の話? もう人見知りじゃないよ」
「え? うーん、確かに色んな人と話してるなぁ」
「でしょ?」
黒木先輩が間に入ってくれたから少し空気が変わり、ようやくカラオケを再開することになったが、私の気まずさが消えるわけはなくて。正直、数分前に彼に言われた〝一緒に死のう〟って言われたことなど記憶から消え去ってしまうくらい、怒りでどうにかなりそうだった。
私が何をしたっていうの。
関りなんて持つどころか、避けていた。
避けても近づいてくるのはいつだって彼なのに、声を発していないどころか喜んだり微笑んだりしていないのに、いつだって私は悪者扱いだ。
悲しさと怒りで感情がグチャグチャになり、涙が滲んでこないように歯を食いしばってひたすらこの場を耐えることしか私には残されていなかった。