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第9話


「白石さん、おはよう」


「……おはようございます」



 あれから一週間が経った。

 あの日を境に、彼は何故か私に毎日挨拶をしてくるようになった。


 言ってしまえば、ここまでは案外想定内のこと。

 だから何も慌てるようなことはなかったのだ。


 動揺というか、今まで以上に負の感情を抱かないように、そして彼のことをそういう目で見ている女子からの目があったため、表情を崩さないように平静を装えと自分に言い聞かせてはいたが、彼は挨拶だけで留まることはなかった。



「白石、これ準備室に運んでくれるか?」



 3時間目が終わると、先生が教卓の上に置いてあるノートたちを指差した。


 次の授業が移動教室というわけでもないし、少しだけ一人になりたい気分だった私は二つ返事をした。けれど、当然のように友人たちの邪魔が入る。



「ちょっと先生! 毎回ましろをパシるのやめてって言ってるじゃないですか!」


「頼みやすくてな。あとよろしくな」


「あー!」



 先生は別に私をパシリで使っているわけじゃないよ。私がそういう風に仕向けるように動いてきたから、必然と私に声をかけるようになったんだよ。なんて言っても信じてはくれないだろうし、なによりも私がそんなことを言えるわけがない。



「もう!」


「怒らないで? それに私、頼られるの嬉しいから」


「先生は頼ってるわけじゃないよ! たまにはましろも断んなよ」



 痛いところをつかれてズキズキと胸が痛むが、私は能天気なふりをしながら席を立って教卓へと向かう。



「誰かの役に立てるなら別にいいの。それに私、こういう地味な仕事好きだから」


「本当、優しいんだから」



 呆れるようにそう呟いた凪沙は、首をボキボキと鳴らしながら立ち上がった。

 色々と思うことはあっても、こうやってたまに人間扱いをしてくれるというか、私のことを本当の友達のように扱ってくれるから嬉しい。簡単な私はそれが嬉しいから、形だけの友人を何年も続けている。



「別に手伝ってくれなくてもいいんだよ?」


「ましろ一人にこんな重い物持たせられないでしょ。ましろ、骨折れるだろうし」


「折れないよ」


「ましろのその笑顔が見たいから手伝ってるっていうのもあるけど」


「どれどれ? 私もみたい!」



 怒りや悲しみがスッと消え、作っていない本来の笑顔が久しぶりに浮かべられたというのに、邪魔が入ってすぐにその笑みは消え去った。



「それ、僕が運ぶよ」



 誰かが隣に立ったと思った瞬間、思わず眉間にしわが寄ってしまう声が聞こえてきた。


 まぁ、これも案外想定ない。

 言い換えれば、ここまでが想定内。


 あの日以来、こうして彼が私の仕事を横取りすることが増えたから。


 その度に、天王寺玲青の株だけが上がっていく。



 小説のことで話しかけられてから様子がおかしいとは思っていたけど、まさかこんなことになるだなんて思ってもいなかった。


 あとはどうして、いつも邪魔をしてくるのだろう?

 私の態度は彼には伝わっていないはず。あの日以来、周りの目が厳しくなったから微笑むだけを望まれている高嶺の花を彼に対しても徹底的に演じ続けてきた。


 例え、私の下手な芝居に気づかれていようが、いないようが結局彼には関係ない。少しずつだが着実に先生たちからの信頼を得ようとしている私とは違って彼はただ、私のことを邪魔しているだけ。


 先輩や後輩、先生からも媚びを売られるほどの力を持っている彼が、私と同じように信頼を勝ち取るために動いているだなんて考えづらい。



 今まで一度たりとも先生の手伝いなんてしてこなかったのに、私に声をかけてから手伝うようになったとか、完璧に私に対する嫌がらせしか考えられない。それを解っているのは私だけで、どこにもぶつけることが出来ない怒りだけが今日も私の中に生まれて、非常に気分が悪い。


 一度目を伏せてから『大丈夫』と返事をしようと息を吸い込めば、絵麻が持っていたノートを彼に渡したことによって、私は必然的に発言権を失くす。



「マジ? ラッキーだね、ましろ!」



 ちっともラッキーなんかじゃない。

 誰かの役に立ちたいって、こういう仕事が好きだって言ったのに。


 自分のことだけじゃなくて、少しは私のことも考えてほしいものだ。


 私は結局道具でしかないから、その悩みは少し贅沢だったのかもしれない。



「玲青よろしく」



 持ったノートを教卓に置いた凪沙は席に戻り、そんな凪沙を追いかけるように絵麻も戻っていく。私はその姿をじっと見ているだけで動けないでいると、なかなか席に戻ってこないと振り返った凪沙と目が合う。



「ましろも頼んじゃいな」



 彼を指差しながら凪沙がそう言うもんだから、彼がこちらを見るのも当然で。横から突き刺さるような視線が不快で仕方がなかった。



「ましろ? どうしたの?」


「私が頼まれたものだから……」


「じゃあ、一緒に運ぶ?」



 一緒に運ぶ?

 何を言っているんだ、この人は。


 そう言われて、私が素直に「はい、そうですね」なんて言うわけがないでしょ。


 今、この時間さえ息が詰まって死にそうなのに、一緒に運ぶだなんて私を殺す気?



「…………頼んでもいいですか?」



 彼から一歩離れ、ノートを教卓に戻して軽く彼に頭を下げてから自分の席へと戻る。私たちの行動をずっと見ていたであろう、彼のことが好きな高橋さんの「じゃあ私が運ぶー!」という声が教室の後ろの方から聞こえてきた。


 バタバタという足音に必然と視線はそちらに向いてしまうと、彼女は彼に腕に抱き着いた。



「重いから僕一人で大丈夫だよ」


「玲青と一緒にいたいの。いいでしょ?」



 彼女の言葉に彼は微笑むだけで、それを肯定とみなした彼女は満面な笑みを浮かべた。



「玲青って本当優しいよね。代わりに運んであげるとか」


「別に普通だよ」


「普通は面倒だから変わってあげないんだよ」



 少しの間でも彼と二人きりで入れることが嬉しいようで、教室から出て行く前に私の方を見たと思えば、ウィンクをされた。本当だったら眉間にしわを寄せたままじっと真っ直ぐ見据えてやりたいけど、高嶺の花の私は戸惑いながら微笑んで軽く頭を下げるという行動を渋々した。


 よく彼のことが好きになれるなぁ。

 まぁ、悔しいけど顔はいいし、私と違う対応をされているから好きになるのも仕方がないのかもしれないけど、私は死ぬまで彼のことを好きになることはないと断言できる。



「ましろ、体力使わなくて済んだね!」



 今日も地雷を踏んでくる。

 絵麻からしたら何気ない一言にすぎないのは分かっているけど、邪魔をされたと思っている私は沸々と体の奥底から怒りが込み上げてくる。


 また、彼の株だけが上がっていく。

 私が彼に頼んだことによって更に彼はいい人だと、優しい人だという人物像が出来上がっていく。それが嫌だというのに。


 私が先生の手伝いをすればみんなして〝いつものこと〟とかたづけるくせに、どうして彼の時だけは株が上がっていくの? それが理解出来なくて今日も苦しい。



 邪魔をしているつもりがないだろう二人にも、明らかに邪魔をしてくる彼にも腸が煮えくり返るが、それを顔に出すわけにはいかない。すぐさま机の中に手を入れ、怒りを逃がすためにギギギ……と音が鳴るくらい強く掌を握りしめたはいいが、一度覚えた怒りはなかなか消えることはなく、昼休みになった今でも腹にはずっと怒りが残っていた。


 お昼は必ず完食をしないといけないのに、腹に残っている怒りのせいでお弁当を半分以上食べることが出来なかった。


 食べたくないのに食べなくちゃいけない。そのことに息が詰まるほどストレスを感じるけど、食べないと誰かが私を異常と判断する。



 散々傷つけられてきた心に、これ以上傷を増やしたくない。自分が異常者ということを改めて自覚もしたくない、だから私は無理をしてでもお昼だけは完食しないといけないのだ。


 一日一食の生活を長年続けているため、胃は幼い頃から大きくなっていない。それだけならよかったが、年々小さくなっているような気がして少し危機感を覚える。



「実際のところ、ましろはどう思ってるの?」



 歯磨きを終えた私と違って、友人たちはお昼ご飯を食べ終えた後だというのにお菓子をボリボリと貪り食っていた。



「えっと……なにが?」


「だーかーらー、玲青のこと!」


「……天王寺君がどうしたの?」


「歯磨きしに行ってて私たちの会話聞いてなかったでしょうが」


「あ、そうだったの?」


「ましろを困らせるな」



 本当、絵麻にとって私は存在感ないんだな。

 情緒が不安定になってしまっているため、どんなに些細な言葉さえも傷つくのには十分すぎた。



「じゃあ、先輩たちと玲青どっちがいい?」



 くだらなすぎる質問に、思わずため息が漏れそうになった。

 しかも、今ものすごく触れてほしくない話題。


 どこまでも妹と似ていて嫌になる。



「……みんなは?」


「年上はだから先輩たちに決まってるじゃーん」



 決まってるじゃんって言われても知らないよ。

 他人の愛だの恋だのがこの世で一番興味ないんだから。



「私も」


「そうなんだ」


「奢ってくれるもんね」


「それは玲青もじゃん」



 この二人も彼に奢ってもらったことがあるのか。それは当然か。先輩たちと二人はよく遊びに行ってるし、その先輩たちと彼はとても仲が良いのだから。


 先輩たちと遊ぶ際、私はいつも知らされない。

 あの事があったから誘われないってことはないだろう。知られているわけじゃない。きっと、ただ単純に私の存在が邪魔だから誘われないんだろう。盛り上げ役でもない、奢ってあげるわけでもない、先輩たちからも気を遣われるような人間なんて当然邪魔でしかない。それを改めて痛感した。



「かっこいいし」


「玲青も顔かっこいいじゃん」


「ああ、もう! うるさいなぁ!」



 キーンッと耳に響く声に、思わず目を伏せてしまった。

 きっと絵麻の声に驚いてこちらを見ている人たちが何人かいて、私はハッとしてすぐさま驚いた表情に変えて前にいる絵麻を見つめれば、絵麻は咄嗟に笑みを浮かべた。



「ほら! 先輩たちからはカリスマっていうオーラがあるじゃん? 一緒に居ると自分の価値が上がってみたいにならない?」



 私以外にも、ましてや先輩たちをアクセサリー感覚で見ていたなんて。それが友人の一人だなんて心底幻滅した。


 高嶺の花なんて元々そういう風にしか見られないというのに、よく私の前で言えたもんだ。

 それに、この学校にどれだけ先輩たちのことが好きな人がいると思ってるの? 私は先輩たちをアクセサリー感覚で見ているので仲良くしてます、なんて宣言をされて良い気分になる人なんて誰もいないでしょ。


 誰が聞いているのか分からないところでそんなことを言えてしまう絵麻のメンタルをある意味尊敬してしまうが、これじゃ私の価値が下がる一方だ。そうしなくても彼のせいで私の価値は下がっているというのに。



「それはアンタだけの意見ね」


「凪沙だってそうじゃん!」


「一緒にすんな。私は違うから」



 少し前屈みになったと思えばお菓子を持っていない方の手で頬杖をついた凪沙は、解りやすく遠い目をした。



「顔のタイプが普通に先輩だから」



 へぇ、それは初耳。


 なんとなく、凪沙は恋愛に興味がないと思っていた。いつもクールだし、凪沙からそういう話を一度も聞いたことも聞かれたこともなかった。それに、ちょっと悪い人になつく傾向があるとは思っていたけど、先輩たちの場合は顔が単純にタイプだったんだ。意外とはこういうことを言うのだろうな。



「ちなみに、どっちの先輩?」


「ましろが食いついてくるとか珍しいね」


「気になっちゃって。私が協力できることは協力してあげたいし」


「ありがとう。でも、別にそういう感情はないから」



 嘘をついているのか、ついていないのか判断できない表情を浮かべながら淡々と呟いた凪沙を思わず見つめていると、目が合った瞬間、凪沙はふっと小さく笑った。


 これが彼だったらすぐに導火線がついて目に力を入れているというのに、凪沙にされても腹が立たない。これが友人と嫌いな相手との差か。



「それで? ましろは玲青? 先輩?」


「なに? 僕の話?」



 彼のことを話している人なんてそこら中にいて、いつもは聞いていないふりをしているというのに、どうして私たちの時にはこうやって会話に入ってくるわけ?


 本当……いい性格してる。



「ガールズトークに男子が入ってくんな」


「冷たいなぁ。それに、みんなして先輩たちだしさ」


「聞いてたんかよ」


「堂々と僕じゃない宣言されて結構寂しかったよ」


「嘘つけ!」


「単純に年上好きなんです。ごめんなさいね」


「それだけの理由じゃなかった気がするけど?」



 さっきまで私も会話の中心に入れたというのに、今は輪にすら入れていないただの空気となっている。


 彼は私の居場所を奪おうとしているのだろうか? 私は彼が嫌いで、劣等感を常に抱いていて、それを誰かに言ったり全面的に表には出していないというのに、どうしてここまでされないといけないのだろう。



「あ、このお菓子もらっていい?」


「なんでだよ。坊ちゃんの口には合わないからやめときな」


「酷いなぁ。それに僕、坊ちゃんとは呼ばれてないよ」


「じゃあなんて呼ばれてるの?」


「玲青様」



 ダメだ。不快に思われないように語尾を上げる話し方、息を吸う音、体の動きと何もかもが鼻についてしまう。


 こういう時、いつもなら小説に逃げていたというのに、彼にその逃げ道すら塞がれてしまった。スマートフォンを弄るという逃げも出来ない。今にも口から溜め息が漏れそうになるのを必死に堪えながら、目を伏せて必死に口角を上げながらこの状況を耐えるしか選択しか残っていなかった。


 きっと少しの時間だろうし、私が頑張れば何の問題もない。そう思って5分と長いこと耐え続けていたというのに、彼は一向に自分の席へと帰ろうとしない。別に会話が盛り上がっているなんてことないというのに、なんだか帰るのが惜しいみたいな雰囲気を醸し出していた。


 ここは私の席で、話すならどこかに行ってほしい。私にとって彼の気持ちなんてどうでもいいから早く帰ってくれないかな、と伏せていた目を彼に向ければ、私のことが嫌いで仕方がないというのに私がこんなにも近くにいるというのに一人だけ何だか楽しそうに笑っている。


 何がそんなに楽しんだか。私は全然笑えない状況だというのに……と少し非難の目でチラッとまた彼を見ると、私の視線にすぐさま気づいた彼は笑ったままこちらを見た。目が合うなんて思っていなかった私は肩に力が入り、何故か目を逸らすことが出来なかった。そんな私とは違って彼は嫌な感じで私から目を逸らした。


 目が合うといつも先に目を逸らされる。そんなこと分かり切っているというのに見た私も馬鹿だけど、会話の途中だったから思わず求められている表情のまま嫌いな私を見てしまった。みたいな反応をあからさまに態度に出されると、それはそれは腹が立って仕方がない。



「そういえば、最近遊んでないよね」


「そう?」


「先輩たち受験だったからね」


「久しぶりに遊ぼうよ」


「先輩たち来るなら私は全然いいけど」


「先輩たちいないなら玲青と遊ぶ意味もないし」


「それを本人の前で言えちゃう凪沙を、僕は尊敬するよ」



 会話に入ることは勿論、相槌を打つことも出来ない。もし、私が参加できる会話をしていたとしても、いつどのタイミングで声を発していいのか分からないから、家でもどこでも蚊帳の外だと感じていて……それだというのに、彼が私に見せる行動すべてが心の傷を抉り、それが次第に怒りへと変わっていく。


 本当、彼は私を苛立たせる天才だ。


 これ以上、彼の近くにいるのは毒だ。

 思わず溜め息が漏れたり、態度に出てしまったらまた変に注目を浴びることになる。面倒事はなるべく避けたい。そう判断した私は静かに席を立つ。



「ましろどこ行くの?」


「お花摘み。行ってくるね」



 ついてこさせないように早口でまくし立て、逃げるようにして教室を出た。


 協調性があると勘違いされがちだけど、協調性なんて皆無な私にはあの空間は地獄すぎた。彼にあんな態度をされる前に、蚊帳の外というある意味トラウマになっている状況で私が我慢できるわけもなかった。


 周りにはまだ人が沢山いて、私はいつものように注目の的。それだというのに私は表情管理が出来ず、口をきつく結んでいた。うんと強く結んでいるというのに今にも溜め息が漏れそう状況にまたストレスを覚え、トイレに向かう足が速くなる。



 トラウマだとか、人の目を気にして行動を制限されたり、設定にないものをどんどん増やされていったり、傷つくと分かっていながらまた傷ついたり、腹を立てたりと全てが疲れる。全てが私の心を押し潰してくる。


 今度は怒りが次第に悲しみへと変わり、喉がキュッと締まった時には私は走っていて、トイレのドアを開けたら幸い誰一人といなかった為、溜まりに溜まったモノを全て吐ききるように深く長い溜め息をついた。


 我慢していた溜め息をつけたことによって安堵を覚えたのか、それとも別の感情が生まれたのかは私自身よく分からないけど、鼻にツンとした痛みが走り、じわりと涙が浮かんできて滲む視界の中、私は重くなった足を引きずるようにして個室へと逃げ込んだ。


 ガチャンと鍵を閉めるなり、便座の蓋は開けずにそのまま座った私は膝の上に拳を置いて、そこに額を押し付けた。



 もういっそ、今すぐ死んでしまえば悩みもしべてなくなるし、考えることもしなくて済む。今すぐ楽になりたいのに、死ぬ勇気を今の私には持ち合わせていない。


 勇気があれば今すぐにでも屋上に行って飛び降りるというのに。

 立入禁止の屋上の鍵が開いているわけがないから、そもそも無理な話なんだけど。


 死ぬ勇気がないのは、ただ単に怖いからとかそういう問題じゃない。

 いや、普通に怖いという気持ちもある。高所に立っている姿を想像するだけで心臓がキュッと縮むし、ガクガクと足が震えて一気に膝の力が抜ける感覚を覚えるくらい怖いけど、その恐怖すら覆い被さるような別の何かが邪魔をしている気がする。


 その何かが分からなくてまた腹が立って。何でまだ生きなくちゃいけなんだろうと思った瞬間──無性に死にたくなった。





 トイレに逃げて来たとはいえ、長い間この空間にいれるわけではない。

 あの時は逃げることに必死だったとはいえ、トイレに行くとは言わずに購買に行ってくるとか、家族とちょっと話してくると嘘をつけばもう少し一人でいれる時間が作れたというのに。


 今の時点で帰るのが遅くなっている。感情に流されなかったらもっと上手く出来たのにと後悔をしながら盛大に溜め息をつき、常にポケットに入れているティントを取り出して個室から出た。


 鏡の前に立ち、教室に戻ってもまだ彼がいたらどうしようと考える。

 彼がまだいるのなら私がトイレに逃げ込んだ意味がないし、個室を出た意味もなくなる。彼が私に少しでも申し訳ないという気持ちがあるのなら自分の席に戻っているだろうけど、彼にそんな感情が生まれるだなんて到底考えられない。


 はぁ……と深く長い溜め息をついてから死んだ魚のような目をしている自分を見つめて、少しだけ視線を落とす。薄くなっている唇に自分に合う色をちょんちょんと乗せていると、笑い声と共に勢いよくトイレのドアが開いた。

 驚くこともなく、最初に顔だけそちらに向けて後から目で追えば、私と目が合った女子たちは一瞬にして借りてきた猫のように大人しくなった。



「こんにちは」


「こ、こんにちはー……」


「今退きますね」


「えっ、大丈夫! むしろ私たちが……ね?」


「そうそう」



 ティントの蓋を閉め、ポケットにしまってニコッと笑みを浮かべながら彼女たちの横を通り過ぎてトイレから出た。すぐさま立ち去るのではなく、立ち止まって中の様子を伺っていると、「なんか悪いことしちゃったね」なんて言う声が聞こえてきて少しだけ気分が良くなった。


 悪意しかない世の中ではないということを改めて再確認できた。でも、これから私は教室に戻るんだと思ったら再び憂鬱が心を押し潰してきて、もう一人の空間ではないというのに思わず溜め息が漏れてしまった。



 教室に向かう間、楽しそうに笑っている人とすれ違う度に、自分だけが別の世界にいるような感覚を覚える。


 どこにも居場所がない。拠り所がない。弱音を吐く所も、本来の自分でいられる場所もどこにもない。いや……ある。あるんだけれど、それをいつも受け入れないのはいつだって私で。そんな奴が劣等感を抱いたり、悲劇のヒロインを気取ってるとか可笑しい話よね。


 また面倒くさいメンヘラが発動するや否や、ブレザーのポケットの中でブルッとスマートフォンが揺れた。



 歩く速さを落として、ポケットからスマートフォンを取り出した際に通知画面で、[ましろちゃんの友達にカラオケ誘われたんだけど、ましろちゃんも行くよね?]という文が表示されていた。



 テスト前だというのに、カラオケ……? という冷めた気持ちと、いつの間にそんな話になっていたんだと、私がいなくなったからそういう話が出来るようになったのか、と一瞬にして心が黒いモヤで覆われる。けれど、カトクを送ってくれた相手の名前を見たら、そんなモヤなど一瞬にして消え去っていった。


 だが私は、今の段階では誘われていない。きっと教室に戻っても誘いなどは受けないだろう。そうとなれば相手が期待している返事など出来るわけもなくて[誘われたら行きます]と、馬鹿正直に返信をするしかなかった。



 この文章を見て、あの人はどう思うだろうか。

 優しいあの人のことだ。きっと申し訳ない気持ちが生まれるだろう。


 想像出来る反応に自分自身も申し訳ない気持ちが生まれるが、こうでしかアピールできないなんて、私はどれだけ幼稚なのだろう。


 でも、誘われていないのに行きますだなんて言えるわけがない。放課後になっても誘われていなかったら私は嘘をついたことになるし、私から「一緒に行ってもいい?」だなんて言えるわけもない。



 選択肢なんて端から存在しない。

 馬鹿正直に答える以外、残されていなかった。



「誰から?」



 教室に入ろうとした瞬間、凪沙の声が聞こえて勢いよくスマートフォンから顔を上げた。

 凪沙と絵麻が腕を組んで教室から出て行こうとしている時に鉢合わせたみたいで、二人の様子を見るからに私を探しに行こうとしていたところだろう。二人から目を逸らして教室の中を覗けば、私の席にはもう彼の姿はなかった。


 それだけで鼻から吸う空気が軽くて、思わず安堵の溜め息が漏れた。



「妹から。同級生の男子から何か貰ったんだって」


「あの子もモテるよね。流石ましろの妹」


「そんなことないよ」


「相変わらず妹と仲良くて羨ましいよ」


「……そんなこと、ないよ」


「私も妹がほしかった」


「わかるー。同じ服とかシェアしたいよね」


「絵麻はパシリたいだけじゃないの?」


「それは凪沙でしょ!」



 二人の前で妹と会話なんてそんなにしたことがないというのに、仲が良いだなんてよく言えたな。

 他人の家族ほど興味ないものなんてないから、仲が良いなんて言葉が出てきたのかもしれないが、妹の世渡り上手のおかげでそういう印象を与えているのが正解なのだろう。


 どちらかが異常なほど良い印象を与えていれば、片方が変なことをしていても印象は薄れる。世間一般だとそれは姉の役目だというのに、私は何一つと姉らしいことが出来ていない。


 きっと、あの子の姉にはなりたくない。その自覚が早かったから。



 あぁ、なんでこんな人間になってしまったんだろう。

 なんで感情なんて生まれてしまったのだろう。


 今日も自分が赤点ばかりを取る出来損ないという自覚をしては、込み上げる嗚咽を必死になって噛み殺した。



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