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第1話


 世の中には、生まれてきてはいけない人間というものが必ずいる。

 その人間が自分だと自覚したときの悲しさや怒りは、当たり前だが当事者にしか解らない。


 今日も今日とてそれを自覚しては怒りを覚え、そして死にたくなるという負のループを朝から体験していた。



 鼻で深く息を吐き、目を伏せながら壁に寄り掛かって、既に10分以上もしている歯磨きを今も尚続けていた。


 普段ならもっと遅くに自分の部屋を出て、今私がいる一階の洗面台の前でこうして歯を磨くのだが、トイレに行きたくて部屋のドアを開けたら、一つ年下の妹と鉢合わせをしてしまった。やば……なんて思いながら顎を引いて部屋に戻ろうとする前に「お姉ちゃん、おはよう!」と朝だというのに明るすぎる声を聞いたら部屋に戻るなんてことはもう出来ず、ぎこちない笑みを浮かべながら『おはよう』と返して私は部屋から出た。


 憂鬱という気持ちがどんどん自分の中で大きくなり、行きたかったはずのトイレにも行く気にはなれなかった。だからといってリビングに行く勇気もなかった私は、30分以上洗面所に閉じこもっていた。



 さて……どうしたものか。


 私はこれから、どう行動すべきか。

 どれが正解の行動なのかを必死になって考えた。頭をフル回転させながら。


 けれど、答えは出てこない。

 いや、最初から考える気などなかった。


 だって、今までこんなことになった事がないから。


 溜め息をつくように再び鼻で深く長い息を吐いて猫背になっていた背中を伸ばすように姿勢を正せば、ボキボキと背中からいい音が鳴る。ついでと思って首も鳴らせば、肩がとてもスッキリした。それによってなのか頭が冴え、ここに閉じこもっているのなら自分の部屋に戻るのも同じという事にようやく気付いた私は、部屋に戻ろうと歯ブラシを口から出したその時だった。



「斎藤さん家の若菜わかなちゃん、亡くなったみたいよ」



 玄関から母のそんな声が聞こえてきて、思わず咳き込みそうになった。


 声が漏れないように両手で口元を押さえるが、この世で一番興味のある話に私が食いつかないはずもなく、玄関の方まで聞こえない少量の水を蛇口から出し、何回か口をゆすいだ私は、鏡に映る自分と目を合わせてから両親の会話に耳を傾けた。



「若菜ちゃんが、か?」


「えぇ……それも自殺らしいの」



 ──自殺。


 その言葉を聞いて息を呑んだし、心臓が馬鹿みたいに大きく跳ね上がった。けれど、面白いくらい不快感は覚えなかった。



 若菜ちゃんとは、近所に住む大学生。

 彼女は人一倍明るくて、誰よりも幸せそうで。そして、そっと人に寄り添えるような人だった。


 私は、そんな彼女にみんなとは違う感情が生まれていた。それは紛れもない事実だが、彼女のことを嫌っている人はひとりもいないと断言してもいいほど人徳があった彼女に憧れて、なりたくて、私はいつからかどんな時でも朗らかでいようと頑張った。人から好かれるように。


 ただ彼女は、人一倍敏い人でもあった。


 私が小学生2年生で、彼女が中学1年生の時。彼女とは登校の時くらいにしか関わっていなかったのに、私が家族と馴染めていないことに気づいた彼女は、私のことを家に呼んで自分の部屋に案内するや否や「私の家を自分の家だと思ってくれていいんだからね」と、お互いのことを何も知らないのに彼女はそう言って私に寄り添ってくれた。


 そこから彼女と過ごすことが多くなり、私が劣等感というものを覚えてからも、彼女のことを本当の姉のように慕うようになっていた。



 ただ、彼女が大学生になると、今までの日常は全て無かったことになった。

 彼女とは、一年に一回会えばいい方になっていたから。


 大学生になったというのもそうだけど、彼氏ができたのが一番大きいだろう。

 一年生の夏から年上の男性と付き合い始めて、三年生の時から半同棲をしていたみたいで、大学を卒業したら入籍をして結婚式を挙げる予定だったらしい。それを私は彼女からではなく、彼女の親から聞かされた。


 彼女の口から聞きたかった反面、なんだか自分の知っている彼女とかけ離れていきそうで怖かったため、昔の彼女だけが自分の中に残っていればそれでいい。そんな考えに至って、私はまた独りになった世界で生き始めようとした今年のお盆。道端でばったり彼女と会った時、彼女は見違えるほど綺麗になっていた。



「来年ね、結婚式を挙げるの。だから絶対に来てね」



 私に向かってそう言った彼女は、本当に誰よりも幸せそうな雰囲気を纏っていた。そんな彼女が自殺をしたなんて、夢なんじゃないかと疑ってしまうくらい信じられなかった。


 最後に見た彼女の笑顔が頭から離れなくてどんどん顔が俯いていくと、両親も私と同じようなことを思っていたらしく、再び私の耳には二人の声が聞こえてきた。



「あんなに明るかったのにね」


「来年に式を挙げる予定だったんだろう?」


「そう。嬉しそうにしてたのにね……婚約者を残して自殺するなんて、夫婦の間に何かあったのかしら?」


「あの子はそういう子ではないだろう」


「そう、よね……でもなんで……」



 不思議すぎる彼女の死に、沢山の疑問を抱いているようだった。両親だけじゃない。私だってそうだし、きっと近所の人も彼女の家族も婚約者も全員が疑問を抱いているに違いない。


 人っていつ、絶望の淵に立たされるか分からないし、もう這い上がってくることも出来ないくらい深く堕ちてしまっているか分からないから怖い。



 疑問や恐怖を抱いているなか、私は彼女が死ぬ前に会いたかった。そして訊きたかった。


 ──どうして自殺を考えているのか。

 ──どうして独りで死のうとしているのか。


 共感してあげたかった。


 ──独りで死ぬのは寂しいよね。

 ──だから、私も付き合うよ。


 そう、言ってあげたかった。



 会っていたら、こんなクソみたいな世界から抜け出すことが出来たのに。彼女に共感しながらも、私は結局自分本位だから、死ぬタイミングを逃してしまった。と心から後悔した。



「あ、でもね。遺書によくわからないことが書いてあったみたいなの」


「よく分からないって、どんなことだ?」


「なんか、白い服の人が突然現れて……契約? がどうたら、みたいなことが書いてあったらしいわよ?」


「なんだ、その訳の分からないことは」


「さあ……私にもさっぱり」



 人生で一度も聞いたことのないそれに、私の鼓動は何故か驚くほど速くなった。


 もう少しここにいれば何か聞けるかもしれない。そう思った私は、無意識に前のめりになっていた。

 今まで両親の話しなど〝もっと聞きたい〟だなんて思ったことがなかったから無駄に緊張する。ゴクリと生唾を飲み込み、馬鹿みたいに心が躍っていたというのに次の瞬間、それらが全て消え去った。



「ママ! もう行かないと遅刻する!」



 勢いよくリビングのドアが聞いたと思えば、妹の耳障りな声が家中に響き渡る。


 これからがいいところだったというのに、本当……空気が読めなくてイライラする。

 はぁ、と溜め息をつき、また壁に寄り掛かろうとした時、バタバタとこちらに近づいてくる大きな足音が聞こえてくる。まずい。そう思って咄嗟に体勢を整えてドアの方に向けて手を伸ばす。



「あ、お姉ちゃん!」



 案の定、現れたのは妹で。私の顔を見たら「お姉ちゃん」と言うって分かっていたから妹の口を塞ぎたくて手を伸ばしたというのに、口を塞ぐ時間すら妹は与えてくれなかった。


 私がここで両親の会話を盗み聞きしていたことを知られたくなかったから妹の口を塞ぐ必要があったというのに……妹の馬鹿デカい声のせいで、ますますここから出づらい状況になってしまった。



「鏡、使ってもいい?」



 媚を売るかのような声の出し方に今日も腹が立ったけど、それを顔に出さないように目を伏せながら妹の前から移動する。


 何の悩みもなさそうなこの能天気さ。

 私が何を考えているか理解しようともしない態度。


 視野が狭すぎて、私よりも自分本位な妹が──私は大嫌い。



「お借りしましたー!」



 私のことなど見ず、笑みを浮かべながら洗面所から出て行った。


 ごめん、はないんだ。いや、お借りしましたって言ってるんだし、いちいちこんなことくらいで腹を立ててる方がおかしい。そんなこと解ってる。でも、腹を立てるなっていう方が私には無理みたいで。日に日に妹には怒りと恨みが募っていくばかり。そう思う度、私の心はギシ……と軋む音がする。


 鏡の前に移動して、深くしわを作っている眉間に触れる。家族の前では眉間にしわなど作ってはいけない、と自分に言い聞かせながら洗面所から出れば、すぐに突き刺さるような視線を感じる。俯きながら目だけ動かせば、こちらを見据えている母と目が合う。


 妹のせいで両親が私に対してどんな感情を抱いているのかなんて分かっていた。だから、母の瞳に嫌悪に満ちていることにいちいち反応している方が馬鹿だ。それだというのに、母と妹の後ろにいる父と一瞬目が合っただけでゾクリと背筋に悪寒が走り、私は更に動けなくなる。



「あなた、随分と長い間、歯を磨いていたようね」


「…………」


「はぁ……お母さんたち先に行くから戸締りよろしくね」



 身も凍るような視線の中、私はやっとの思いで頷いた。

 この異常な空気に、キョロキョロと視線を動かして私たちの様子を見ている妹は私と目が合うなり、口を開く。



「お姉ちゃん、いってきます!」



 必ず「いってらっしゃい」と言わないと拗ねるから、どんな状況になってもそれだけは欠かせない日課だった。



「…………いってらっしゃい」



 今日も暗い声でそれを言えば、妹はいつものように屈託のない笑みを浮かべながら私に手を振って家を出て行く。そんな妹を追いかけるように父は私に何も言わず、なんなら私の存在など元からいなかったような態度で出て行った。


 みんなが出て行って静寂が訪れた廊下に残された私は、内側から怒りが渦巻いていた。

 歯を食いしばった時に吸い込んだ息は怒りで揺れていて、抑えられない衝動に駆られて壁を殴ろうと右手を振り上げたが、拳を痛めることは出来なかった。



 息を吸い込むばかりで息を吐くことができない。まるで、出口を塞がれたかのように。

 今にも窒息しそうなくらい苦しくて、じわりと涙が浮かんでくる。それがあまりにも虚しくて、宙をさまよっていた右手の力を抜けば、勢いよく足に当たる。


 どこにも発散できない怒りでおかしくなりそうだった私は、右手の人差し指で親指の皮を剥く。

 いや、抉ると言った方が正しいか。


 躊躇などせず、ガリガリと何度も何度も抉っていれば、次第に何度も感じたことのある嫌な痛みが走って眉間にしわが寄る。眉間にしわを寄せたまま視線を親指に視線を落とせば、血がじわりと滲んでいた。その血を見たらサーッと血の気が引いて、ブルッと身震いをした。


 もう数えきれないほどこの親指から血が出るのを見てきたというのに、血を見ることにまだ慣れない。


 ただ、その血と痛みのおかげで冷静を取り戻した私は、ブレザーのポケットからいつも入れてある絆創膏を一枚取り出した。ぷっくりと血が浮き出ているというのに、私はティッシュなどで血を拭くことはなくそのまま絆創膏を巻いた。当然、絆創膏にはすぐ血が大きく沁み込んだけど、取り換えるという考えは最初からない。すぐに取り換えてもどっちにしろ同じだろうし、服とかに付かないように一時的に巻いただけだから。


 絆創膏のゴミを握りしめて、ぐっと唇を引き結んだ私は踵を返した。



 世の中には、生まれてきてはいけない人間というものが必ずいる。

 その人間が自分だと自覚したときの悲しさや怒りは、当たり前だが当事者にしか解らない。


 今日も今日とてそれを自覚しては怒りを覚え、そして死にたくなるという負のループを朝から体験していた。



 鼻で深く息を吐き、目を伏せながら壁に寄り掛かって、既に10分以上もしている歯磨きを今も尚続けていた。


 普段ならもっと遅くに自分の部屋を出て、今私がいる一階の洗面台の前でこうして歯を磨くのだが、トイレに行きたくて部屋のドアを開けたら、一つ年下の妹と鉢合わせをしてしまった。やば……なんて思いながら顎を引いて部屋に戻ろうとする前に「お姉ちゃん、おはよう!」と朝だというのに明るすぎる声を聞いたら部屋に戻るなんてことはもう出来ず、ぎこちない笑みを浮かべながら『おはよう』と返して私は部屋から出た。


 憂鬱という気持ちがどんどん自分の中で大きくなり、行きたかったはずのトイレにも行く気にはなれなかった。だからといってリビングに行く勇気もなかった私は、30分以上洗面所に閉じこもっていた。



 さて……どうしたものか。


 私はこれから、どう行動すべきか。

 どれが正解の行動なのかを必死になって考えた。頭をフル回転させながら。


 けれど、答えは出てこない。

 いや、最初から考える気などなかった。


 だって、今までこんなことになった事がないから。


 溜め息をつくように再び鼻で深く長い息を吐いて猫背になっていた背中を伸ばすように姿勢を正せば、ボキボキと背中からいい音が鳴る。ついでと思って首も鳴らせば、肩がとてもスッキリした。それによってなのか頭が冴え、ここに閉じこもっているのなら自分の部屋に戻るのも同じという事にようやく気付いた私は、部屋に戻ろうと歯ブラシを口から出したその時だった。



「斎藤さん家の若菜ちゃん、亡くなったみたいよ」



 玄関から母のそんな声が聞こえてきて、思わず咳き込みそうになった。


 声が漏れないように両手で口元を押さえるが、この世で一番興味のある話に私が食いつかないはずもなく、玄関の方まで聞こえない少量の水を蛇口から出し、何回か口をゆすいだ私は、鏡に映る自分と目を合わせてから両親の会話に耳を傾けた。



「若菜ちゃんが、か?」


「えぇ……それも自殺らしいの」



 ──自殺。


 その言葉を聞いて息を呑んだし、心臓が馬鹿みたいに大きく跳ね上がった。けれど、面白いくらい不快感は覚えなかった。



 若菜ちゃんとは、近所に住む大学生。

 彼女は人一倍明るくて、誰よりも幸せそうで。そして、そっと人に寄り添えるような人だった。


 私は、そんな彼女にみんなとは違う感情が生まれていた。それは紛れもない事実だが、彼女のことを嫌っている人はひとりもいないと断言してもいいほど人徳があった彼女に憧れて、なりたくて、私はいつからかどんな時でも朗らかでいようと頑張った。人から好かれるように。


 ただ彼女は、人一倍敏い人でもあった。


 私が小学生2年生で、彼女が中学1年生の時。彼女とは登校の時くらいにしか関わっていなかったのに、私が家族と馴染めていないことに気づいた彼女は、私のことを家に呼んで自分の部屋に案内するや否や「私の家を自分の家だと思ってくれていいんだからね」と、お互いのことを何も知らないのに彼女はそう言って私に寄り添ってくれた。


 そこから彼女と過ごすことが多くなり、私が劣等感というものを覚えてからも、彼女のことを本当の姉のように慕うようになっていた。



 ただ、彼女が大学生になると、今までの日常は全て無かったことになった。

 彼女とは、一年に一回会えばいい方になっていたから。


 大学生になったというのもそうだけど、彼氏ができたのが一番大きいだろう。

 一年生の夏から年上の男性と付き合い始めて、三年生の時から半同棲をしていたみたいで、大学を卒業したら入籍をして結婚式を挙げる予定だったらしい。それを私は彼女からではなく、彼女の親から聞かされた。


 彼女の口から聞きたかった反面、なんだか自分の知っている彼女とかけ離れていきそうで怖かったため、昔の彼女だけが自分の中に残っていればそれでいい。そんな考えに至って、私はまた独りになった世界で生き始めようとした今年のお盆。道端でばったり彼女と会った時、彼女は見違えるほど綺麗になっていた。



「来年ね、結婚式を挙げるの。だから絶対に来てね」



 私に向かってそう言った彼女は、本当に誰よりも幸せそうな雰囲気を纏っていた。そんな彼女が自殺をしたなんて、夢なんじゃないかと疑ってしまうくらい信じられなかった。


 最後に見た彼女の笑顔が頭から離れなくてどんどん顔が俯いていくと、両親も私と同じようなことを思っていたらしく、再び私の耳には二人の声が聞こえてきた。



「あんなに明るかったのにね」


「来年に式を挙げる予定だったんだろう?」


「そう。嬉しそうにしてたのにね……婚約者を残して自殺するなんて、夫婦の間に何かあったのかしら?」


「あの子はそういう子ではないだろう」


「そう、よね……でもなんで……」



 不思議すぎる彼女の死に、沢山の疑問を抱いているようだった。両親だけじゃない。私だってそうだし、きっと近所の人も彼女の家族も婚約者も全員が疑問を抱いているに違いない。


 人っていつ、絶望の淵に立たされるか分からないし、もう這い上がってくることも出来ないくらい深く堕ちてしまっているか分からないから怖い。



 疑問や恐怖を抱いているなか、私は彼女が死ぬ前に会いたかった。そして訊きたかった。


 ──どうして自殺を考えているのか。

 ──どうして独りで死のうとしているのか。


 共感してあげたかった。


 ──独りで死ぬのは寂しいよね。

 ──だから、私も付き合うよ。


 そう、言ってあげたかった。



 会っていたら、こんなクソみたいな世界から抜け出すことが出来たのに。彼女に共感しながらも、私は結局自分本位だから、死ぬタイミングを逃してしまった。と心から後悔した。



「あ、でもね。遺書によくわからないことが書いてあったみたいなの」


「よく分からないって、どんなことだ?」


「なんか、白い服の人が突然現れて……契約? がどうたら、みたいなことが書いてあったらしいわよ?」


「なんだ、その訳の分からないことは」


「さあ……私にもさっぱり」



 人生で一度も聞いたことのないそれに、私の鼓動は何故か驚くほど速くなった。


 もう少しここにいれば何か聞けるかもしれない。そう思った私は、無意識に前のめりになっていた。

 今まで両親の話しなど〝もっと聞きたい〟だなんて思ったことがなかったから無駄に緊張する。ゴクリと生唾を飲み込み、馬鹿みたいに心が躍っていたというのに次の瞬間、それらが全て消え去った。



「ママ! もう行かないと遅刻する!」



 勢いよくリビングのドアが聞いたと思えば、妹の耳障りな声が家中に響き渡る。


 これからがいいところだったというのに、本当……空気が読めなくてイライラする。

 はぁ、と溜め息をつき、また壁に寄り掛かろうとした時、バタバタとこちらに近づいてくる大きな足音が聞こえてくる。まずい。そう思って咄嗟に体勢を整えてドアの方に向けて手を伸ばす。



「あ、お姉ちゃん!」



 案の定、現れたのは妹で。私の顔を見たら「お姉ちゃん」と言うって分かっていたから妹の口を塞ぎたくて手を伸ばしたというのに、口を塞ぐ時間すら妹は与えてくれなかった。


 私がここで両親の会話を盗み聞きしていたことを知られたくなかったから妹の口を塞ぐ必要があったというのに……妹の馬鹿デカい声のせいで、ますますここから出づらい状況になってしまった。



「鏡、使ってもいい?」



 媚を売るかのような声の出し方に今日も腹が立ったけど、それを顔に出さないように目を伏せながら妹の前から移動する。


 何の悩みもなさそうなこの能天気さ。

 私が何を考えているか理解しようともしない態度。


 視野が狭すぎて、私よりも自分本位な妹が──私は大嫌い。



「お借りしましたー!」



 私のことなど見ず、笑みを浮かべながら洗面所から出て行った。


 ごめん、はないんだ。いや、お借りしましたって言ってるんだし、いちいちこんなことくらいで腹を立ててる方がおかしい。そんなこと解ってる。でも、腹を立てるなっていう方が私には無理みたいで。日に日に妹には怒りと恨みが募っていくばかり。そう思う度、私の心はギシ……と軋む音がする。


 鏡の前に移動して、深くしわを作っている眉間に触れる。家族の前では眉間にしわなど作ってはいけない、と自分に言い聞かせながら洗面所から出れば、すぐに突き刺さるような視線を感じる。俯きながら目だけ動かせば、こちらを見据えている母と目が合う。


 妹のせいで両親が私に対してどんな感情を抱いているのかなんて分かっていた。だから、母の瞳に嫌悪に満ちていることにいちいち反応している方が馬鹿だ。それだというのに、母と妹の後ろにいる父と一瞬目が合っただけでゾクリと背筋に悪寒が走り、私は更に動けなくなる。



「あなた、随分と長い間、歯を磨いていたようね」


「…………」


「はぁ……お母さんたち先に行くから戸締りよろしくね」



 身も凍るような視線の中、私はやっとの思いで頷いた。

 この異常な空気に、キョロキョロと視線を動かして私たちの様子を見ている妹は私と目が合うなり、口を開く。



「お姉ちゃん、いってきます!」



 必ず「いってらっしゃい」と言わないと拗ねるから、どんな状況になってもそれだけは欠かせない日課だった。



「…………いってらっしゃい」



 今日も暗い声でそれを言えば、妹はいつものように屈託のない笑みを浮かべながら私に手を振って家を出て行く。そんな妹を追いかけるように父は私に何も言わず、なんなら私の存在など元からいなかったような態度で出て行った。


 みんなが出て行って静寂が訪れた廊下に残された私は、内側から怒りが渦巻いていた。

 歯を食いしばった時に吸い込んだ息は怒りで揺れていて、抑えられない衝動に駆られて壁を殴ろうと右手を振り上げたが、拳を痛めることは出来なかった。



 息を吸い込むばかりで息を吐くことができない。まるで、出口を塞がれたかのように。

 今にも窒息しそうなくらい苦しくて、じわりと涙が浮かんでくる。それがあまりにも虚しくて、宙をさまよっていた右手の力を抜けば、勢いよく足に当たる。


 どこにも発散できない怒りでおかしくなりそうだった私は、右手の人差し指で親指の皮を剥く。

 いや、抉ると言った方が正しいか。


 躊躇などせず、ガリガリと何度も何度も抉っていれば、次第に何度も感じたことのある嫌な痛みが走って眉間にしわが寄る。眉間にしわを寄せたまま視線を親指に視線を落とせば、血がじわりと滲んでいた。その血を見たらサーッと血の気が引いて、ブルッと身震いをした。


 もう数えきれないほどこの親指から血が出るのを見てきたというのに、血を見ることにまだ慣れない。


 ただ、その血と痛みのおかげで冷静を取り戻した私は、ブレザーのポケットからいつも入れてある絆創膏を一枚取り出した。ぷっくりと血が浮き出ているというのに、私はティッシュなどで血を拭くことはなくそのまま絆創膏を巻いた。当然、絆創膏にはすぐ血が大きく沁み込んだけど、取り換えるという考えは最初からない。すぐに取り換えてもどっちにしろ同じだろうし、服とかに付かないように一時的に巻いただけだから。


 絆創膏のゴミを握りしめて、ぐっと唇を引き結んだ私は踵を返した。



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