お昼休みに、須和さんから突然、音楽室に呼び出しを食らった。
彼女から連絡がある時はいつも突然だけど、ご飯も食べ終わってちょっとゆっくりしていた時に、というのは珍しい。
吹奏楽部でも、芸術選択で音楽をとってるわけでもないのに、今やすっかり慣れてしまった道筋を通って、授業では使わない方の第二音楽室に入る。
決まってここで弁当を食べてるお決まりの子たちを横目に、奥にある練習室へ。
A、BのB……っと。
今日は何の話だろうと軽い気持ちで防音扉を開けたら、気圧差で弾けた空気と一緒に澄み切ったトランペットの音が全身を撃ち抜いた。
「あ……」
トランペットを構えた宍戸さんと真っすぐに目があって、鏡合わせみたいに互いに固まる。
すると、壁際に座ってサンドイッチを食べていた須和さんが涼やかな視線を私に向けた。
「閉めて」
「ああ、ごめん」
扉を開いたまんま立ち止まってしまった。
私は慌てて扉を閉めると、狭い間取りの中で立ち位置を探して、結局扉の前に立ち尽くした。
「今の宍戸さん?」
「あ、あの……はい……」
宍戸さんは、あたふたと視線を泳がせながら小さく頷く。
「すごいじゃん。交換作戦は大成功?」
「どう……でしょう。でも、確かに吹けることは吹けるので、自分でもびっくりと、安心とで……須和先輩もこうしてレッスンしてくださいますし」
なるほど。
たまに――か毎日かは知らないけど、吹奏楽部のエース(って自分で言ってて何だって思うけど)から直々のレッスンともなれば上達も早いだろう。
「どうなの? 宍戸さんのトランペットは」
音の良し悪しを聞き分ける耳はないので、第一人者である須和さん本人に訊ねてみる。
彼女は、照明を反射して輝くトランペットを見つめて、それからまた私のことを見た。
「吹奏楽部には、いわゆるレギュラーのAグループとそれ以外のBグループがあるのだけど」
「うん」
「他に適当な人がいなければA」
「うう……」
宍戸さんは苦虫を噛みつぶしたような顔で、縮こまるように俯いた。
残念なことにその評価がすごいのかすごくないのか私には分からなかったけど、彼女の反応を見るに、あまり良いことではないようだ。
「一応の確認だけど、それはウチの吹奏楽部だったらって話だよね?」
須和さんはコクリと頷き返す。
それならまあ……仮にも強豪校のレギュラーで恥ずかしくないレベルと言う意味に捉えておこう。
前向きに、前向きに。
「ハイトーンが汚い。すっと針に糸を通すイメージで、乱れず、真っすぐ」
「は、はい……わかりました」
宍戸さんは何やら納得した様子だったけど、私にはさっぱりだ。
針に糸を通すって、イライラする気持ちでやれってこと……?
「で……私はなんで呼ばれたの?」
ご覧の通り、練習しているところに連れて来られても、何もまともな意見が言えないんだけど?
「安心した?」
須和さんは、感情はないけど澄んだ瞳で小さく首をかしげる。
安心って……ああ、なるほど。
宍戸さんがちゃんと演奏できるのかどうかってことか。
「まあ、そうだね。安心した」
「良かった」
それで用事は済んだとでも言いたげに、彼女の視線はもう宍戸さんとトランペットにしか向かなかった。
練習が再開して、近頃すっかり耳に馴染んだフレーズが目の前で演奏される。
なるほど、トランペットってそのフレーズの担当だったんだ。
合奏をするっていう経験がまだまだ乏しい私は、パートごとに分解した曲のフレーズを聞き分けるのにまだ慣れていない。
普通に生きてたら、基本的には完成形の曲しか聞かないんだから当たり前のことなんだけど。
だからこういうのはとにかく新鮮だ。
宍戸さんの演奏は、素人目には十分上手かった。
でも、ちょっと肩肘張った感じとか、やや険しい表情で演奏しているところを見るに、〝頑張っている〟っていうのがひしひしと伝わって来るような気がした。
須和さんみたいに「当然でしょ」って顔をして演奏するのを目の当たりにしていると、確かにまだまだなのかもしれない。
ワンフレーズを吹き終えて、宍戸さんはトランペットを下ろして一息つく。
傍らに置いた水筒を手に取ると、口をつけて、唇を濡らす程度に傾けた。
「すごい、どうでもいい質問してもいい?」
なんか居たたまれなくなってきて、ついそんなことを口走る。
ふたりとも目をぱちくりさせながら、それでも特に「ダメ」とも言わないので、私は素朴な疑問を口にした。
「吹奏楽やってる子ってさ……その、気にならないの? 他の人が使ってる楽器に口付けるのとか……」
「ああ……」
宍戸さんが、すごく曖昧な表情で相槌をうった。
「気になる気にならないで言えばなりますけど……慣れでしょうか」
「そういうもんか」
「マウスピースも安くない」
「いくらぐらいするの?」
「えっと……ちゃんとした素材のものなら普通に五桁くらいですね」
五桁っていうと万か……ううん、買おうと思えば買えそうだけど、高校生がおいそれと手を出せるもんじゃない。
部活で使うからって家の人に頼めば買ってくれるかも……くらいのものかな。
と言うか、小さなマウスピースでその値段なら、本体っていくらぐらいするんだろう。
目の前で存在感を放つ〝マイ〟トランペットの輝きにあてられると、怖くて調べる気にもならないけど。
「気になるから……ってマウスピースだけ自分で用意する人もいますよ。サクソフォンみたいにリードを使うものだと、そもそも消耗品ですし」
「ちなみに、その今使ってるやつは?」
「ええと、これは家で余ってたのを貰いました」
ああ……音楽一家だとそういうこともあるわけね。
使ってないトランペット用マウスピースか……何をどうしたら余ることがあるのか全く想像がつかない。
やっぱり芸術界隈って、どこか頭のネジというか、心の枷みたいなのが解き放たれてないと向いてないのかもしれない。
「そろそろ」
須和さんが呟いて、釣られたように時計を見る。
けど、昼休みの終了にはまだ少し時間があった。
「合奏したい」
彼女は続けるように口にする。
そっちのそろそろね。
びっくりした。
「合奏って言っても、私まだそのレベルじゃないんだけど……」
「それも含めて課題を洗い出す」
洗い出すもなにも、本当にまだ最後まで弾くこともできないというか、よちよち歩きの赤ん坊が、ようやくあんよが上手くらいまでになったレベルなんだけど。
けど、ぶっちゃけ音楽のことに関しては須和さんに意見をできる立場じゃない。
彼女だって受験勉強があるだろうに、これだけ力を貸してくれているのだから、少しでも応えるのが礼儀ってもんだろう。
「わかった。みんなの予定を確認してみよう」
口にしながら、それをするのは私の役目だろうなって直感的に理解した。
スケジュール合わせくらいならいくらでもやるけどさ。
問題は場所だな。
みんなが集まれて音を出せるところ。
ぶっちゃけ音楽室が使えればそれが一番なんだけど……それも少し当たってみようか。
問題はひとつづつ確実に解決していくのが、前へ進むための唯一にして最大のコツだ。