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9月27日 震える、感じる

 放課後、約束通り須和さんと合流した私は、学校を後にしてどこぞへと連れ出されていた。

 いつものペースの彼女は、目的も目的地も語ってはくれない。

 聞けば教えてはくれるかもしれないけど、それを理解できるかどうかはまた別の話だ。


 だから、黙々とついていった方が早いわけで。

 百聞は一見にしかずっていうのは、こういう時に使う言葉じゃないだろけど。


「昨日」

「はい」

「レッスンだったから」

「何の?」

「ピアノ」


 これは……「何のために?」って、話題を広げた方がいいのかな。

 そもそも広がるのかな、話題。

 そうは言っても流石にノーガード戦法すぎるのは会話の迷宮入りを招きかねないので、多少なり知恵を使って考えてみる。


「須和さんの志望進路って音大?」


 その結果がこれだった。

 推理は間違っていなかったようで、彼女は肯定するように頷く。


「たぶん言われても分かんないけど、どこ?」

「東京藝大」

「ああ」


 聞いたことはあるような気がするけど、よくは分かってないので、話半分の相槌だった。

 美術系の漫画か何かで取り上げられてた気がするけど、音楽コースもあるのは始めて知った。


「めちゃくちゃ難しいっていうのくらいは知ってる」

「最難関」

「だよね」


 漫画からのイメージだと、人生どころか命をかけるレベルで受験するところという認識だ。

 それくらいの超難関大学。

 もちろん授業の質もいいのだろうけど、それ以上に国立大学という肩書は、受験生やその親にとって無視できないものだろう。


「併願で私立も受ける」

「どこ?」

「昭和」

「それはわかんないな」


 自分に関わりのない分野だからってのが大きいだろうけど、こうして話題に出されなかったら一生知らないことっていうのは、世の中いくらでもあるんだろう。

 手放しで触れられる世界なんて、せいぜい親の触れてきた世界か、兄弟姉妹の触れてきた世界くらい。

 それ以上のことは、自分で見て聞かない限りは、自分にとって存在しないのと同じことのような気がする。


「私立でもいいとは言われてるけど、家族にあまり負担はかけたくない」

「ウチも似たようなもんだよ。落ちた時のことはどうとでもなる――って、そういう話はそろそろ厳禁な時期か」


 受験っていうのが生々しい現実として迫って来ると、そういう軽口もセンシティブな内容になってくる。

 彼女がそれほど敏感な方ではないと思うけど……現に私のためらいそのものが、あまりよく分かっていない様子だった。

 そもそもプレッシャーという言葉が彼女の辞書にはないのかもしれない。

 あるのはこれまでと、その結果によるこれから。

 そこに因果関係はあっても、感情に左右される余地はない。


「ここ」


 街を歩いていると、不意に須和さんが足をとめた。

 彼女が見上げた建物を見て、誘われた意図が余計に分からなくなってしまった。


「病院……?」

「きて」


 戸惑う私を他所に、彼女はすたすたと玄関の自動ドアをくぐって行く。

 流石に、少しくらい説明責任ってやつを果たすべきなんじゃないかな。

 今さら遅いっていうのは分かっているけれど。


 須和さんは、まるで実家にでも帰って来たかのような迷いのない足取りで院内を進み、エレベーターを乗り継ぎ、あっという間にどこぞの病室へとたどり着いた。

 そのままノックもせず、中に入るのはあっという間。

 つられて私も入ってしまったけど、流し見たネームプレートには「須和」と書かれていたのが見えた。


「元気?」


 個室のベッドの上で、年老いた女性がひとり、テレビぼんやりと眺めていた。

 彼女に語り掛ける須和さんが、言葉と一緒に手話らしき身振りをしたのを見て、不躾にもノックひとつしなかった理由を理解する。

 よく言えば清潔、悪く言えば殺風景な部屋で、字幕モードに設定されたテレビは音が出ていなかった。

 老婆――おそらく須和さんのお婆さんは、お見舞いに来た孫と、その付き添いらしき私を見ると、ニコニコと笑顔を浮かべて何かしらの手話を返す。


「友達」


 須和さんが、手話交じりに返事をする。

 たぶん私のことを聞かれたんだろう。

 紹介されたのなら名乗った方が良いんだろうなと思ったけど、同時に、これ口で名乗っても伝わらないよな、とも思ってしまう。

 手話なんて知らないし。

 こういう状況でどうしたらいいのか分からなくて、恥ずかしながらそのまま固まってしまった。


「ゆっくり話してくれたら、口の動きでだいたい伝わる」

「え……ああ、そう」


 それが本当なら結構すごいんじゃないの、なんていうのは私の常識の物差しによる感想でしかなくて。

 下手な感想を漏らすくらいならありのままを受け入れて、私は言われた通りにゆっくり、はっきりと名前を名乗った。

 一音ずつ頷きながら聞いてくれた須和さんのお婆さんは、私に向かって両手をこすり合わせる。


「綺麗な名前」

「……って言ってるのね? えっと、ありがとうございます」


 須和さんの通訳を受けて、なんとか会話が成立している感じだった。

 さっきのこすり合わせたのが「綺麗」って意味だったのか。

 それから、いくばくかの居心地の悪さを感じながら、病室での時間は過ぎて行った。

 学校と同じく、須和さんはあまり口数は多い方ではなく、むしろひっきりなしにお婆さんの方から学校のことやら、家のことやら、いろいろと質問が飛んでは、それに受け答えをするという感じだった。

 たまに私にも話が振られて、そのたびにぎくしゃくしながら答えたりもする。

 最初のうちは言葉が伝わりにくくて、須和さんの手話によるフォローも入ったけど、最後の方では伝わりやすい言葉の速度や唇の動かし方がなんとなく分かってきて、こっちの言葉に関する通訳は必要ないくらいになっていった。


 盗み聞きをしていたわけじゃないけど、須和さんの会話から、彼女の両親がここで働いているということは何となく伝わった。

 あと、須和さんがめちゃくちゃお婆ちゃんっ子なんだろうなっていうのも。

 そうでなければ、これだけのレパートリーの手話を覚えてはいないだろう。


 病室を出る時、お婆さんは私に向かって、片手で祈るようにしながら静かに頭を下げた。

 須和さんはちょうど見ていなくて訳しては貰えなかったけど、たぶん「彼女をよろしく」的なことを言われたんだろうなと、勝手に思うことにした。


「家族を紹介するためにわざわざ連れてきたの?」


 いい加減うやむやになるのも嫌で、帰り道にズバリ本心を訊ねてみた。

 彼女は珍しく困ったように息を飲んでから、ゆっくりと首をかしげた。


「わからない」

「そんなこと言われたら、私も困るんだけど……」

「言葉足らずだってよく言われるから、見せられるだけのものを見せようと思った」

「誰に言われたの?」

「流翔」


 流翔って……雲類鷲さんか。

 ズバリそのものを指摘してくれたのはありがたいけど、なんか余計に難解になってしまったような気もする。


「私が音楽をやってるのはお婆ちゃんのおかげ」

「そうなんだ」

「小学校のころ、マーチングバンドクラブの演奏を聞きに来てくれて。その時に、白羽の音は世界一綺麗な響きだねって」

「へえ……って、え? でも……」


 口に出しかけて言いよどんでしまう。

 耳、聞こえてないんじゃ……なんてこと言っていいのかどうかもためらってしまう。

 もしかしたら、その時はまだ聞こえていたのかもしれないけど。

 そんな私の戸惑いを察してくれたのか、彼女は首を横に振った。


「ずっと聞こえてない。でも、音は感じるんだって」

「感じる?」

「音って振動だから、聞こえなくても肌で感じられる。スピーカーとか、直接手で触れたりしたらもっとハッキリ感じるらしいけど」


 確かに、理屈で言われたら、そういう事もあるのかも。

 普段は気にしない感覚のせいか、いまいちピンと来ない。


「私の音は、世界一気持ちよく感じられるって」

「それが嬉しくて音楽をやってると」

「そう」


 須和さんは恥ずかしげもなく――いや、そもそも恥じるとこなんてひとつもないんだ。

 大好きな人に褒めてもらった。

 子供にとってはそれだけで、一生を捧げる価値のある思い出になるのだから。


「肌で感じる――私も少しは分かる。だから、私が気持ちいいと思った音は大事にしたい」


 それが何のことを言っているのか私はすぐに理解することができた。

 震えた――彼女が宍戸さんの音楽を表現するとき、そう口にしたのを私は覚えていた。


「そのためにできることがあるなら力を貸す」

「それが聞けたのなら、付き合った甲斐があったかも」


 ようやくいろんなことが腑に落ちて、私はため息を溢しながら深く頷いた。

 同時に、もっと早く、もっと分かりやすくそれを伝えてくれたら……なんてことも思いはしたけど。

 それはもう過ぎたことだって、わざわざ口にはしないことにした。


 感じる。

 震える。

 そういう、アーティスト的な感覚は正直私には分からない。

 でも須和さんの話を聞いていて、なんとなく宍戸さんも同じなんじゃないかって。

 どこか確信めいた希望も浮かんだものだった。

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