連絡を取ると、天野さんはすぐに話をする機会を設けてくれた。
今日、早番シフトだという彼女の仕事が終わった後の夕方に、職場の近くの別の喫茶店で。
流石に宍戸さんをいきなり連れてくるということはせず、まずは私と、部活あがりで時間のある穂波ちゃんとで状況の説明と助言を求める形となった。
「文化祭のステージ見たよ。ロックしてたね」
「ありがとうございます」
そう言えば、彼女と会うのは学園祭前の最後のレッスンと時以来だった。
こっちが何かと忙しくて都合がつかなくなったのもあったけど、ステージの成功のあとにお礼のひとつも言えないままだったのは、失礼だったかもしれない。
「天野さんです。私の元バイト先の社員さんで、フリーの音楽家みたいなことしてる人」
「どっちかと言えば趣味かな。フリーって言えるほど収入があるわけでもないから。とにかく、よろしくね」
「八乙女穂波です。八つの乙女に稲穂の穂、海の波です。よろしくお願いします」
挨拶もそこそこに、さっそく本題へとうつる。
すべてを一から話すと長くなってしまいそうなので、要点要点を掻い摘んで、宍戸さんのことを天野さんに話した。
彼女は、最初は静かに。次第に必要なんだろうなっていう情報を掘り下げるように質問を重ねながら、ひととおりの現状を理解してくれた。
「聞いている限りでは、〝演奏したいけどできない〟っていう状況がすべての直接的な原因みたいだね」
「まあ……そうですよね」
須和さんの期待に応えられなかったっていうのは引き金でしかなくて、言い換えれば「演奏さえできて、コンクールに関わることができたら納得できた」ということでもある。
「とは言え、私は心理学的な話になるとあんまりね……音楽家的には、ある種のスランプ的なもののひとつなんだろうけど」
「天野さんも、スランプになったことあるんですか?」
穂波ちゃんの問いかけに、天野さんは渋い顔をしながら小さく頷く。
「誰しもあると思うよ。思った音が出なくてイライラするとか、難解なメロディに指がおいつかなくて思わず切り落としてやりたくなるとか」
そういうものなんだ、と心得のない私たちからすれば、ただぞっとするもので。
穂波ちゃんとふたり並んで、これ見よがしに引いてしまった。
それを感じ取ったのか、天野さんは慌てて笑いながら手を振った。
「あくまで例えだよ。そんな極端な例えを、さらに深刻にしたのが宍戸さんて子の状態なんじゃないかなって私は思う」
天野さんは一息つくように、注文したホットコーヒーに口をつけた。
「合奏を壊しちゃって、責められたのはもちろん怖いトラウマなんだと思うけど。じゃあ結局どんな音を出せば正解だったのか。逆に自分が今までどんな音を出して演奏していたのか。なんていうか……それまで信じて奏でてきた理想の演奏みたいなのが、分からなくなっちゃってるんじゃないかな」
そう解釈されてみると、なんだか気持ちが分かるような気がした。
理想を見失って、何が正解かわからなくなって、結果として何もできなくなる。
そういう経験は私にだってある。
私の場合はそこで歩くのを辞めてしまったけれど、宍戸さんはいばらの道を進むことを決めた人なんだ。
私が彼女を応援したいと思うのには、そういう理由も少なからずある気がする。
「どうすれば、彼女は自分の演奏を取り戻せるんでしょう」
だから、知恵を貸して欲しいのはそこの部分。
私が気の利いたアドバイスができないのは、壁にぶつかったあと、逃げて見ないようにする道を選んだからだ。
「方法自体はいろいろあると思う。代わりにこれが一番っていう方法がないってことでもあるよ」
「だったら、ありったけ」
どれが一番が分からないなら全部試す。
私が彼女に関われる時間はもう限られているから。
ここまで首をつっこんで、「あとはなあなあで頑張って。じゃ、元気でね」なんて納得できるわけがない。
天野さんは一度だけ苦笑してから、考え込むように明後日の方向を見上げた。
「ひとつ。音楽的アプローチ。とにかく好きな曲を聴く。できれば演奏家とか、そういう個性の部分で好きな曲をね。多少荒療治かもしれないけど、昔の自分の演奏を聴くとかも有効だと思う。もしくは、いっそのこと新しい理想を作っちゃうっていうのも手だけど」
「お手本を探すってことですか?」
「ざっくり言っちゃえばね。ふたつ。精神的アプローチ……は、専門外だからあくまで私の主観として聞いてね」
「それはもちろんです」
「うん。じゃあ……一番は、トラウマを吹き飛ばせるような、楽しいって思える合奏ができることかな。そもそも、ひとりの力で乗り越えようとしていたのが間違っているのかも。合奏のトラウマなら、誰かと演奏する、しようとしてみることで初めて乗り越えられる――ってこともあるんじゃないかな?」
なるほど……宍戸さんはずっと家で、母親との個人レッスンでトラウマとスランプを克服しようとしていた。
環境的にそれしかなければ仕方ない部分もあるのだろうけど、そもそもそれが彼女には合ってないかったという考えはあり得ない話じゃない。
「みっつ。客観的アプローチ。ざっくり言っちゃえば『頑張るしかない』状況に身を置くこと」
「頑張るしかない?」
「背水の陣だね。やるしかなければ案外やれる。実力じゃなくて、精神的な問題ならなおさら」
「演奏するしかない状態に追い込むってことですか?」
「追い込むって言うとちょっと荒っぽいけど、お尻に火がつかないと頑張れない子って結構いるよね。何でもいいんだよ。例えばちょっとしたコンクールにエントリーしちゃうとか。個人的におすすめなのは先生をすることかな」
「先生……というと?」
「自分でやるのと誰かに教えるのって、たぶん使ってる脳みそが違うと思うんだよね。だから自分じゃできなくても、教えるのだったら大丈夫ってこともあるかもしれない。そこから自分の演奏にフィードバックできたら、道が開けることもあるかも」
「なるほど」
私は勉強はできるほうだけど、教えるのは下手くそと言われるのはそのせいか。
「ええと……つまるところ、なんですが」
それまで真剣に耳を傾けていた穂波ちゃんが、ここで口を挟んだ。
「私が、歌尾さんに楽器を教えてもらって、いっしょに、何かの発表会に出れば良い、ってことですか?」
彼女は、指折り何かを数えるようにしながら、答えあわせをするように言う。
天野さんは一度驚いたように目を丸くしてから、静かにほほ笑んで頷いた。
「まあ、そうなるかな?」
「要素は満たしてるけど……え、穂波ちゃんはそれでいいの? というか都合よくコンクールとかあるの?」
「分かりませんけど、地元でも秋になれば演芸大会とかあったので、何かしらあるんじゃないですかね?」
ですかねと聞かれても。
思った以上に楽観的で行き当たりばったりな話だった。
「ほんとなら星先輩にも手伝って欲しいですが。流石に受験もありますし、無理は言えないです」
「それは……そうだね」
学園祭はまだ「夏休みだから」というのを免罪符に、バンドの練習もできたけど、授業があって受験も目前に控えているこの秋はそうも言っていられない。
私が言いよどんだのを確認して、穂波ちゃんはにっこりと小さく笑った。
「だったら私しかいないですよね。大丈夫です。音楽自体は好きですし、演芸大会で優勝したこともあります」
「それ、何人出場したの?」
「子供の部は私含めて三人でした」
穂波ちゃんはドヤ顔で言うけど、あんまりドヤれる内容ではないと思うよ。
でも、本人が良いっていうなら策自体は悪くないのかな……?
「そういうことなら、コンクールの情報は私が調べておくよ。昔取ったなんとやらで、界隈のコネは多少なりあるし。練習場所とかも困ったら相談してね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします、天野さん」
そうなれば、あとはとんとん拍子だ。
まだ、一番大事な本人を巻き込んだ話にはなっていないけど、何をしたらいいのか分からなかったこれまでに比べたら、ずいぶんと視界がクリアになったような気さえした。