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9月23日 捨てる神あれば拾う天あり

 あまり気は進まないけど、私は休日の剣道場に足を運んでいた。

 引退するまで一度も顔を出していなかったのに、した途端に三回もここを訪れている。

 立場が変わったからというのは大いにあるだろうけど、少々節操がないような気もする。

 でも、流石にこれが最後だ。

 私は、大事な後輩のその後を見届けなきゃいけない。


 流石に練習開始からいるのは邪魔以外の何物でもないので、顔を出したのは練習時間のラスト三〇分程度。

 そっと道場に入り、顧問の先生に軽く挨拶をして、後は隅の方でじっと正座をして練習を見守っていた。


 練習も終盤になれば、校内試合をするか、試合形式の自稽古をするかのどちらかが一般的だ。

 今日は祝日だからか外部指導員(県警所属の顧問の友人らしい)も顔を出しているようで、彼とウチの姉の二人を二面ある試合場にそれぞれ立たせて、部員ひとりずつ順番に胸を借りているようだった。

 穂波ちゃんはというと、姉を相手にひたすらぶつかってははじき返され、またぶつかってははじき返されという、荒っぽい掛かり稽古に身を投じていた。

 小柄な身体の弱点になるんだろう当たりの強さを、繰り返し繰り返し、その身に刻み付けているかのようだった。


 何度めかの体当たりの後に、穂波ちゃんの足元がふらついた。

 そりゃあれだけ何度もはじかれていたら、いくら体力があっても長くは持たない。

 私を相手にしていたときとわけが違う。

 気を抜けない相手とぶつかり合うっていうのは、持っている以上に体力を使うものだ。


 姉は、ふらつきを見逃さずにすかさず面を打ち込む。

 体勢を崩したところにさらに打ち込まれた穂波ちゃんは、勢い余ってそのまま尻もちをついてしまった。


「すぐ立つ!」


 周りの部員の手助けを遮るように、姉の怒声が飛ぶ。

 飛び出しかけた部員たちはそれで足をすくませて、すごすごと場外の待機列に戻る。

 その渦中で穂波ちゃんは、ようやくあんよを覚えた赤ん坊みたいに、一歩ずつ踏みしめるように立ち上がった。

 とうに体力の限界なんて越えているんだろう。

 頭も、肩も、腰も、足も、全身で息をしているのがここからでもよく分かった。


「もう一本お願いします!」

「よし!」


 穂波ちゃんの威勢に、姉も当然のように応える。

 半ば一方的にも見える稽古は、時間いっぱいを告げる太鼓が鳴り響くまで数分に渡って続いた。


「ナミゾー、選挙頑張ってたのに残念だったね~」


 稽古が終わって、防具を片付けながら穂波ちゃんは先輩部員たちに頭をわしゃわしゃと撫でられていた。

 ちなみにナミゾーというのは部内での彼女のあだ名みたいだ。

 ホナミだからナミゾー。剣道部の伝統か分からないけど、先輩に可愛がられてる後輩はなんか時代劇っぽいあだ名をつけられるらしい。

 ○○スケとか、〇〇ザエモンとか。


 すっかりへとへとの彼女は、道端で女子高生の群れに囲まれた小型犬か何かみたいに、完全にされるがままだった。


「ま、一年生だし仕方ないよ。来年ならバッチシだって」

「そうそう。それに今回は相手が悪かったね」

「スカートはまあ、しかたないよねえ」

「ついにそこに切り込んじゃったかって感じだったもんね」


 先輩部員も、同級生部員も、素直な労いと励ましの言葉として口にしているんだろうってのは分かる。

 穂波ちゃんも、苦笑しながらそれに頷き返す。

 それから、主出したようにハッとして、ぺたぺたと姉の元へとかけて行った。


「せっかくの帰省中だったのに、ありがとうございました。とても勉強になりました」


 外した防具の汗を拭く姉の前で、穂波ちゃんは最大級の礼儀を示す、座して床に手をついての礼をする。


「あ、ちょっとナミゾー! そう言うの部長の仕事!」


 今の部長らしきポニーテールの部員が慌てて彼女の隣で膝を折ると、他の部員たちも同様に座って、深く礼をした。


「こっちこそ、忙しくて全然竹刀握れてなかったから、いい機会だった。また春休みにでも顔を出すかな?」

「はい、ぜひ! あと、この後みんなで焼肉いくんで、良かった来てください!」

「おっ、いいねえ。部活の後はやっぱり焼肉だよねえ」


 なんか、打ち上げの話で盛り上がり始めてしまったので、私は変な火の粉がかかる前に道場を退散することにした。

 とりあえず、見た目はいつも通りっぽそうだし……この「見た目は」っていうのが、できているかいないかで話は全然違うと思う。

 いつも通りに振舞っているのは、少なくとも引きずらずに前に進もうという気持ちの表れだと私は思う。


「星先輩」


 そう思っていたけど、一礼をしてから廊下に出て、踵を返したところで背中から呼び止められた。

 誰なんて確認する必要もない。

 このタイミングで呼び止めるなんて、穂波ちゃん以外に心当たりがなかった。


「今日、一緒に帰ってもいいですか?」

「焼肉は良いの?」

「それは、また次の機会でも行けます。でも、この機会はもう無いと思うので」


 別に、断るつもりで聞き返したわけじゃない。

 私は、窓の向こうの校舎を指さす。


「昇降口のとこで待ってるから」

「わかりました」


 約束だけを交わして、先に道場を後にした。


 穂波ちゃんが合流したのは三〇分ほど経ってからのことだった。

 軽く汗を流して着替えてと考えたら、めちゃくちゃ早いくらいだと思う。

 現に彼女のスポーティーなショートヘアーはしっとりと濡れたままで、いつもより頭が小さく見えたように思えた。


「髪、ちゃんと乾かさないと痛んじゃうよ」

「私、いつも自然乾燥派なんですが」

「そう言ってられるのも若いうちだけだよ」


 なんて語る私はたった二歳離れているだけなんだけど。

 在学中ずっと伸ばしていたこの髪を維持するためにも、トリートメントやらヘアマスクやらオイルやら、それなりに気を遣って過ごして来た。痛んだロングヘアほど見苦しいものはない。


「今は短くしてるから、たぶん痛んだ先からカットされてて、整ってるように見えるんだと思う。今後伸ばす機会があったら、自然乾燥はダメだからね」

「じゃあ、その時はケアの仕方教えてください」


 それくらいはもちろんいいけれど。

 ただ、髪が伸びた穂波ちゃんは、髪が伸びるタイプの呪いの人形っぽいイメージと重なる。

 自分で言ってなんだけど、ちょっと背筋が寒くなってしまった。


「ついでだから言うけど、会長選挙に落ちた子のケアの仕方はよくわかんないや……ごめん」

「先輩は受かった方ですもんね」

「言うじゃん。でも正しいよ。だからぶっちゃけ、穂波ちゃんがいま何を考えてるのか、教えてもらえると助かる。何か力になれることがあるなら、それも」


 私の言葉に、穂波ちゃんはぼーっと空を見上げて考え込んだ。

 また台風が近づいているらしく、どんよりとした厚い雲の向こうに太陽の輝きがかすかに漏れていた。


「結果自体は、思ったより素直に受け入れられてるような気がします。悔しい気持ちはありますけど、後悔とかはなくって。銀条先輩にも素直におめでとうございますって言えそうですし、役員として先輩の生徒会をしっかり支えていきたいなって思ってます」

「そっか」


 思っていたよりスッキリした、悪く言えばたんぱくな答えだった。


「ただ……このあと私に何ができるのか、何をしたらいいのか。それが分からなくなっちゃった気がします。というより、今私にできるのは生徒会長になって校則を変えることだけだと思い込んでいたので、むしろ他に何ができるんだろうって」

「あんまり、思いつめすぎない方が良いと思うけど。ただでさえ選挙でいっぱいいっぱいで、心身ともに疲れてるだろうし……今日の部活も、ヘロヘロだったじゃん」

「あれは、明さんに大人げないくらいにしごかれたからです」


 そうやって強がれるなら、とりあえずは大丈夫なのかな。

 強い子だって決めつけて突き放すようなことはしたくないけど、それでもやっぱり、彼女は強い子だと思う。


「校則を変えるのは、確かに道のひとつではあったと思うけど、それしかないってことはないんじゃない。それに、もっと根本的なところが解決しないことには……だし」

「歌尾さんが、楽器を吹けるようになること……ですよね。でもそれこそ、私の経験じゃチンプンカンプンです」

「それは私も同じだけど……」


 音楽なんて齧った程度にしか知らない人間ふたりが顔を突き合わせたって、画期的な案が出てくるわけがない。

 案が出なければ道も見えないわけで、この曇り空みたいに心もグレーに沈んでしまう。

 身近に音楽に詳しくて、かつ気軽に相談できるような人でもいたら良かったんだけど――


「あ」


 思わず声が漏れた。

 穂波ちゃんが目をぱちくりさせながら私を見上げる。


「ひらめきました?」

「ひらめいた。というか心当たりがあった」


 なんで今の今まで名前どころか面影すら思い出さなかったんだろう。

 私は鞄からスマホを引っ張り出して、メッセージアプリを立ち上げる。

 いるじゃないか。

 いるじゃあないか。

 音楽に詳しくて、気軽に相談できて、しかもおあつらえ向きに「音楽教師の免許を持ってる」だなんてのたまった、学園祭の影の立役者がひとり――

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