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9月19日 きちゃった

 玄関を開けたことを激しく後悔した。

 自分の部屋にいると玄関チャイムは聞こえづらいのだけど、ちょうど飲み物を取るためリビングに降りてきていたのが失敗だった。

 両親もいない。

 実家に帰っている姉も、ちょっと買い物に行ってくると言ってついさっき出かけた。

 家族が誰も居ない中で、自分に心当たりのない来客なんて、チャイムが聞こえたって無視すればよかった。


「うふふ、きちゃった」


 開けた玄関の向こうで、続先輩がにこやかに笑っていた。

 台風が近づいているということで今日は朝からずっと曇り空だったけれど、不意に生まれた雲の切れ間から、爽やかな日光が差し込む。

 美女にさす光……少なくとも空も、彼女自身も、空気は全く読めてないと思う。


「姉ならいませんけど」

「うん、知ってるよ。でも星ちゃんがいるから、私が先に着いたら出るまでチャイム鳴らしてって明が」


 あの女め余計なことを。

 でも私の気分を見透かしたような、先回りの一手だ。

 ピンポン連打されて余計にストレスが溜まる前に出られたぶん、マシだったと考えよう。


 不本意ではあるけど先輩を家にあげてリビングへ通す。

 それから最低限のホストの役目を果たす意味で、コップに注いだウーロン茶を布製のコースターつきで差し出す。


「ありがとう。ちょうど喉が渇いてたんだ。あっ、あとこれ、家族旅行のお土産。星ちゃんにもあげるね」


 続先輩は、トートバッグから手のひらサイズの紙袋を取り出す。

 受け取って中を見てみると、赤くて頼りなさそうな犬の置物が入っていた。


「沖縄だからね、シーサーだよ。かわいいけど魔よけになるよ」

「かわいい……のかな?」


 確かに愛嬌はあるけど、とても魔よけの力があるとは思えない。

 赤くてちょっとべそかいてて、どっちかと言えば「泣いた赤鬼」って感じだ。

 あの鬼は、本来強くて逞しい鬼だけど。


「今日はね、明と後期の授業スケジュールを組もうって話をしているの」

「そんなの、東京に戻ってからいくらでもしてくださいよ。一緒に住んでるんだから」

「履修登録は今週末までなの。それに週末には東京に戻る予定だから、バタバタしちゃうでしょう?」

「そうなんですね」

「そうなんですねって……星ちゃん、ホントにお姉さんのことに興味ないよね」


 先輩は苦笑して、ウーロン茶を飲み込んだ。


「星ちゃんもどんな授業があるか見てみる? 受験する大学で実際何が勉強できるのかを知るのって、いいモチベーションになると思うんだけど」

「そうは言っても、理系と文系じゃ授業の内容も違いますよね?」

「そんなことないよ。確かに専門科目は全然違うだろうけど、卒業要件には共通科目の単位もたくさん取らなくちゃいけないし。結構ね、面白い授業もあるんだよ」


 彼女は、トートバッグの大部分を占めていた柔らかそうな耐衝ケースを取り出すと、中から十インチ程度のタブレットを取り出す。

 それから嬉々としてアプリを立ち上げ始めたので、私は慌てて首を横に振った。


「いや、遠慮しておきます」

「え、でも来年ウチに来るんだよね? 興味ないの?」


 まっすぐに、何の疑いも心配もしていないような顔で、彼女が言う。

 これから受験があって、目指しているのは日本最難関で、受かるかどうかも分からないっていうのに。


「興味があるかないかで言えばありますけど……今はそれよりも勉強をしないとけいないので。私、まだ受験生なんですよ」

「そっか。じゃあ、星ちゃんの勉強の方を見ようかな。明はまだ来ないみたいだし」

「いや、そんな……てかアイツは何してんの」


 さっき、ウーロン茶を注ぎながら「早く帰ってこい」っては連絡したんだけど。

 逃げるようにスマホを見ると、姉からの返信がきていた。

 ドーナツ屋のセールの行列に並ぶ自撮り写真と一緒に「お土産買って帰る!」とひとことだけ。

 帰ったら怒鳴りつけてやる。


「明がまだ帰ってこないなら、ひとりで待つのはちょっと寂しいかな」


 続先輩が、困ったような笑顔を浮かべながら縋るように私を見てた。

 私は一息ついて腹をくくった。


「……じゃあ、数学をお願いします」

「いいね、得意だよ」


 にこりと彼女が笑った。

 悪気がないのが、続先輩のいい所であり悪い所でもあると思う。

 個人的なことを言ってしまえば、彼女の力なんて借りたくはない。

 それでも彼女がかつて当たり前のように冠してた〝学年一位〟という肩書は、魅力的で仕方のないものだった。


 続先輩は、私が苦手としている確率の単元を懇切丁寧に教えてくれた。

 流石に部屋に通す気にまではなれず、姉を待つ意味も込めて勉強道具をリビングへと持ってきてのことだった。


「確かに確率は難しいよね。授業レベルなら基礎さえできていればいくらでも応用がきくけれど、入試になると独特のパターンだったり、それを組み合わせたり」

「だからまあ……苦手なんですよね。解き方が見当違いだったり、複雑になったぶん計算ミスなんかも増えて」

「星ちゃんは基本はバッチリだから、見ている感じだと、落ち着いて向かえば大丈夫だと思うな」

「そうですか……? 言われても、あんまり実感はわかないですね」

「むしろ本番では、得意なとこはさらに速く解けるようにして、苦手なところにもっと時間をかけられるようにしたらいいんじゃないかな?」

「私もそう思って取り組んでいるつもりなんですが」

「スマホのタイマーとかセットして、いろんな過去問を反復練習するといいよ。そうだな……最初の目標は、今の五割増しってところかな」


 五割増しって……簡単に言ってくれるけど、かなりえげつない数字じゃないの。

 今でもわりと頑張ってる方だと思うんだけど。


 でも、おそらく理には適っている。

 というか、私の頭が自身がかなりのところで理解して、納得してしまっている。


「テストは最高得点が決まっている減点方式なんだから、とにかくミスをしないこと」

「それは耳が痛いです」

「うんうん、分かっているなら対策をしないとね。ミスをしないために必要ななのは、理解することじゃなくて焦らないことだよ」


 分かっている。

 だけどこれまでできなかった。

 だから自信をつけるために、できるだけ勉強量を増やした。


 彼女はそうじゃなくて、時間配分に切り込めという。

 どこがゴールで、何をどれだけ頑張ればいいのかも分からない、とにかく物量に任せた私のやり方と違って、何を努力して何を成せばいいのかがハッキリと示される。

 どっちの方が理に適っているのかなんて考えるまでもなかった。

 努力の方向が明確なのが、彼女の成功へのメソッドなのだと思う。


 ちょうど区切りのついたところで、玄関に人の気配を感じた。

 姉が帰って来たようだ。


「あ! 続が星に勉強教えてる! ずるい!」

「明が早く帰ってこないからだよ」

「みんなが喜ぶと思ってドーナツを買ってただけなのに、よよよ……あ、これセールのお買い得十個パック」


 姉は泣き崩れる振りをしてみせながら、すっとドーナツの箱を差し出す。

 これ以上余計なことに巻き込まれる前に、私はそっと荷物をまとめて席を立つ。


「あれ、行っちゃうの? 一緒にドーナツ食べようよ」


 静かに立ったはずなのに、あっという間にバレて先輩の視線が突き刺さった。


「勉強したら甘い物食べないとね。これから頑張るためにじゃなくて、努力を定着させるエネルギーにするために」

「……ダイエット中なので一個だけ貰います」


 観念した私に、彼女は満足げに頷き返した。

 相変わらずの聖母像みたいな柔らかい微笑みだった。

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