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9月17日 鉛の身体

 深呼吸をひとつする。

 深いけど速い。

 吸って、溜めて、吐いて。

 その間、二秒か三秒くらい。

 たったそれだけで頭の中はいくらかクリアになるし、これ以上動かないと思っていた手足も多少なり軽くなった気がする。


 酸素が足りていなかった。

 それくらい、いっぱいいっぱいだった。


 意識した深呼吸の先にも、浅くて荒い呼吸が無意識に続く。

 視界を狭める格子状のヘッドギア――競技上の名称で言えば〝面〟の向こうで、小さな影が勢いよく跳ねた。


 圧倒される。

 二メートル近く向こう側にいたはずの存在が、次の瞬間には目の前にいて、次の瞬間にはまた同じ距離まで下がっている。

 決してバトル漫画のワンシーンなんかじゃなくて、これはそう言う競技。

 巧いひとほど接近も離脱も気取らせない。

 私はと言えば、守りに徹することでかろうじて必要な時間を稼ぐだけ。

 それが精一杯だった。


 なぜこんなことになっているのか。

 もとをただせば、全ては穂波ちゃんの選挙のためだ。

 そして、それをかぎつけたウチのどうしようもない姉のせいだ。


 今日は、選挙新聞の取材のために穂波ちゃんが属する剣道部の休日練習に選管の委員たちが訪れていた。

 いち女子高生である立候補者を紹介するうえで、部活に打ち込む姿を取材するというのは当然かつ効果的な手段だろう。

 それはいい。

 だから私も、少しでも取材が円滑に進めばと恥を忍んで手伝いに来た。


 当初の予定(という名の私の勝手なイメージ)では、練習風景の写真とかをとって、練習後とかに穂波ちゃんがインタビューを受けて、必要なら私もいくつかコメントをして――それくらい。

 けど、そんな予定はちょうどコーチに来ていたウチの姉のせいでまったくもって無意味なものとなった。


「そういうわけで『信頼しあう部活の先輩と後輩、その意思を継いで』――って感じでどうでがんしょ?」

「いいですね。とてもグッとくるキャッチーなテーマだと思います」


 すっかり構成作家気どりで語った姉と、選管の子とががっちり固い握手を交わす。

 それに待ったをかけるのが私の役目だ。


「完全に捏造でしょそれ」

「何ひとつ嘘は言ってないでしょ。ただ一を十くらいに過大演出はしてるけど、それって就活の基本ですわよ?」


 何食わぬ顔で言う姉の顔を、今日こそぶん殴ってやろうかと思ったけど、場所が場所なのでぐっとこらえる。

 私も今はお邪魔させてもらっている身だ。

 この空間にいおいては、ボランティアとはいえコーチという立場を持つ姉よりも立場が低い。

 そして道場に一歩足を踏み入れたら、立場は重んじなければならない。

 それが礼節だ。


「だからってこんな、ドキュメンタリー番組みたいにしなくたって……しかもなんか、しかもなんかキラキラな青春じみた演出にされそうだし」


 すると姉は、舌を鳴らしながら人差し指を左右に揺らす。


「チッチッチッ、ドキュメンタリーも台本は存在するのだよ。盛り上がる事件が起こらない時は、起こったことにするのもよくあること」

「そんな業界の裏側は別に知らなくていいんだけど……」


 そりゃ冷静に考えたらそうなんだろうけど、改めて知りたくはなかった。


「すべては穂波ちゃんの当選のためでしょ。ここは一肌脱ごうよ、ね」

「そんなこと言われたって、何の準備もしてきてないし」

「私を見くびってもらっちゃあ困るね」


 そう言って、じゃじゃーんと手を差し向けたその先に、私の防具一式とご丁寧に道着まで用意されていた。


「何で持って来てんの」

「竹刀とネームは私の高校時代のを貸したげる。南の狩谷なら分かんないって」

「そう言う問題じゃなくて……そもそも、三年生はもう引退してるんだから、別に私まで着こまなくても良いでしょ」

「ええー、せっかく重いの我慢して持ってきたのにいー」

「頼んでないから」


 頼んでない身内の苦労をねぎらう器を、私は残念ながら持ち合わせていない。

 けど、その苦労の残骸を好奇心旺盛に見つめる姿がひとつだけあった。


「もしかして、星先輩が稽古つけてくれるんですか?」


 穂波ちゃんが、目を輝かせながら勢いよくこちらに振り向く。

 うーん、この剣道馬鹿め。

 私は仕方なく、制服のスカーフの結び目に指をかけた。


「私じゃ相手にならないよ……だから撮影用のポーズだけね」


 やれることは全部やる。

 そう心に決めた自分をちょっとだけ恨んだ。


 そうして、今の有様だ。

 姉を相手に軽く準備運動がてらの打ち込みを行ってから、穂波ちゃんと撮影用の地稽古。

 学校によっては互角稽古とか自由稽古なんて呼ぶところもある。

 ようは審判のいない試合形式の練習だ。

 審判が居ないから有効打が入っても決着はつかない。

 そのぶん、打ち合ってる本人たちの間だけで実力の差をハッキリと認識しあう。


 相手にならない――そう言ったのは私自身だけど、ここまで明確に差を認識させられるといくらかへこむものがある。

 確かに、相手は県ベストエイトの実力者だし、こっちには三年近いブランクがある。

 それでも、いいやそれにしても、私の身体ってこんなに動かなかったっけ。

 ついていけなかったっけ。

 防御はできる。

 だから動体視力が衰えたわけじゃない。

 だけど反撃に転じられない。

 転じようとしても、腕も足も思ったタイミングで踏み出せない。


 身体が鉛のように重い。

 竹刀が鉄の棒を握ってるかのように重い。

 さげてはいけないのに切っ先が下がってしまう。

 切っ先が下がってしまえば打ち込まれる。

 受けさせられる。

 不必要な体力を使う。

 余計に身体が重くなる。

 悪循環。


 優位に立とうなんて思ってない。

 これは撮影だからって、そもそも割り切って受けたことだ。

 それでも、中学のころは実力がないなりにもう少しまともに動けていたはず。

 思い通りに動けない自分自身に対する失望が、嫌でも頭の中をかけめぐった。


 それでもどうにか撮影を終えたころには、もう動くどころが立っていることもできなくって。

 どうにかこうにか面だけを外して、ぐったりと座ったままうなだれてしまう結果となった。


「楽しかったです! ありがとうございました!」


 一方の穂波ちゃんはと言えば、いつになく満足した様子で、息も切らせずに深く頭を下げた。

 私は返す言葉も喉を通らなくって、ひらひらと手を振って応える。

 そんな私の隣に、姉が静かに腰を下ろした。


「良い感じに仕上がってきてるでしょ。ワシが育てた」


 どうやら、ただ自分のコーチの成果を自慢をしに来ただけらしい。

 流石にムッときて、怒鳴りつける代わりに肩をぽかりと殴ってやった。

 それなりに本気でいったので、姉は小さな悲鳴をあげて殴られたところをさする。

 けれど恨み言を言う代わりに、ひとり言みたいに彼女は呟いた。


「腕が下がって、足さばきも重くて、間合いが狭くなってたね。結果として後手後手の防戦と」

「……わかってる」


 私は絶え絶えの呼吸の合間で、ボソリと言い返す。

 すると姉は笑みをたたえて、汗でぐっしょりの私の頭をぽんぽんと叩いた。


「お疲れさん」


 動けない私は、ただされるがままだった。

 それが何だか余計に悔しかった。

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