九月も中旬になれば、朝夕はかなり涼しくなってきた。
ぺらぺらの夏服じゃ流石に冷えるような気もして、生徒たちはみんな薄手のカーディガンやら部活のジャージやらを着こんで登校してくるようになる。
これが真冬になれば、たいていみんな黒や茶色のコートを纏ってくることになるから、この時期が一年で最も校内が色彩溢れる季節だと私は思っている。
そう言う私も灰色のカーディガンに袖を通して、今日はこれ以上暑くならなきゃいいななんて思いながら、雲が遠くなって来たような気がする空を見上げた。
「八乙女穂波です! 八つの乙女に稲穂の穂、海の波! よろしくおねがいしまーす!」
なんて季節の移り変わりに情緒を感じている傍らで、いまだに夏服の半袖一枚の勇ましい姿の穂波ちゃんが声を張り上げた。
剣道部はとにかく声を出す。
たぶん、運動部の中で一番声を出す。
なまじ勝敗に直接関わって来るせいもあってか、演劇部なみに声出しの練習をしたりする学校もある。
その例に漏れず、穂波ちゃんの声もよく通り、よく響く、そしてどこか爽やかな澄んだ声だった。
昇降口入ってすぐの廊下の壁に、選挙管理員会の掲示物がでかでかと張られている。
そこには今回の立候補者三名の名前と共に、選挙期間に入ったことの告知と、来る後悔演説&投票会の日程が記されていた。
本校生徒なら誰もが一度は目を通す。だからその目の前で、堂々と先制パンチの呼びかけを行う。
「部活の朝練もあったろうに、ごめんね」
始発電車組のピークが終わって、いくらか落ち着いたところで穂波ちゃんに声をかける。
一応労わってのつもりではあったけど、あくびを噛み殺しかけている私とは違って、彼女は元気そのものだった。
「今はこっちが大事ですから。それに朝ごはんもお代わりしてきたので元気二〇〇%です」
「それは良かった」
こっちは朝早く起きたせいで全く食欲がなくて、今になっていくらか小腹が空いてきたところだ。
母親が気を利かせておにぎりを入れてくれたから、教室に戻ったら食べておこうと思う。
「げ、お前ら初日の朝からかよ」
しばらくして、登校してきたアヤセが私たちを見るなり顔をしかめた。
「打てる手は全部打っておこうかと思って」
「本気かよ。流石に経験者は違うな。穂波も朝からお疲れさん」
「八乙女穂波です! 八つの乙女に稲穂の穂、海の波! よろしくおねがいしまーす!」
「おーい、聞いてるかー? 一応、敵だぞー?」
壊れたラジオみたいに繰り返す穂波ちゃんの顔の前で、アヤセがひらひらと手を振る。
穂波ちゃんもそれにハッとした様子で、ようやくあった焦点をアヤセに向けた。
「あ……アヤセ先輩、おはようございます」
「おはようさん。なんか疲れてないか? 緊張してる?」
「やる気二〇〇%です」
「見事に空回りしてる数値だな」
アヤセはケタケタと笑いながら、私の肩をぽんと叩いた。
「その辺やりくりしてやるのも私らの仕事だしな。ま、お互いがんばろーや」
「それが最後の言葉にならないようにね」
肩を叩いた手を逆に叩き返して、教室へと向かっていく彼女を見送る。
それから穂波ちゃんのことを見下ろすと、彼女は気合を入れるように深呼吸をしながら、握りしめた拳をぐんぐんと上下に振っていた。
「まだ初日なんだから、あんまり根詰め過ぎなくて大丈夫だよ」
「でも、なんだか居ても立ってもいられなくって」
「今のところは、ここに居て、立っててもらわなきゃ困るんだけど……」
穂波ちゃんは「確かに!」と何か納得したようにぽけーっと固まっていた。
とはいえぼーっとしているような暇はなく、そろそろ二番電車のラッシュが始まったようで、校門の方から生徒たちの群れがやって来るのが見えた。
私は穂波ちゃんの背中をぽんと叩いて、気合を入れてあげる。
「八乙女穂波です! 八つの乙女に稲穂の穂、海の波! よろしくおねがいしまーす!」
「まだ早いよ」
「ごめんなさい、つい」
なんか、こういうオモチャ昔あったな。
ぬいぐるみみたいで、叩いたり、近くで音を鳴らしたら反応してくれるやつ。
しかしアヤセの言う通り、思ったより穂波ちゃんも気負っているようだ。
そりゃ入学して半年で生徒会長に立候補しようってんだから、気負って当たり前だ。
それをやりくりして、支えるのが私の仕事か。
穂波ちゃんができるだけ肩ひじ張らずに、自然体で選挙に立ち向かえるように……。
今日の私たちを見て、アヤセたちだってこのまま手をこまねいてるってことはないだろう。
何かしらの手は打ってくるはずだ。
それはもちろん心炉たちも。だからこそ今日という日の先制パンチは大きいし、一年生という圧倒的な不利な状況を、これで多少なり埋められたらと願う。
高校の生徒会長の選挙なんだから全力でやる必要なんてない――からこそ全力でやる。
今日のちょっとから回った穂波ちゃんの言葉を借りるなら、全力二〇〇%だ。
こと印象勝負の投票という場において、やってやりすぎるってことはそうそうない。
誰かに迷惑をかけたりしてマイナスイメージさえつかなければ、顔と名前は憶えて貰ったもん勝ちだから。
悔しいけど、去年のほとんど続先輩主導だった、私の全力選挙で学んだこと。
「宍戸さんに頼んでビラもコピーしてもらってるから、お昼休みの購買で配ろうね。放課後は部活で帰り時間がバラバラだから、無理しなくて良いと思う。それより明日の朝、また頑張れば」
「分かりました。今日もいっぱい寝て、明日も朝ごはんいっぱい食べてきます。充電二〇〇%です」
「バッテリー劣化しないようにね」
ここまでは良し。
そしてこれで終わりとも思ってない。
アヤセや心炉陣営がどう出てくるか。
まずは明日、どう出て来るのかお手並み拝見といこうじゃないか。
そして、こっちはそれよりもさらに先を打つ。
先々アドバンテージを取り続ける戦い方は、受験戦争で身に着けた私の唯一の武器だから。