この日、学校で二度と見ることはないだろうって顔に出会ってしまった。
「妹よー、元気に学んでおるかー?」
家となんら変わらないウザい笑顔を浮かべながら、廊下の向こうで姉がひらひらと手を振る。
「なにしにきたの」
姉が高校を卒業した最大のメリットは、家から出て行ったことと、学校から出て行ったことと、そのおかげでこういう絡みがなくなったことと、何の脈絡もなしに連れ回されることがなくなったのと――あれ、思ったよりいっぱいある。
そんなメリットだらけの生活に突然舞い戻ってこられたら、苦虫をかみつぶしたような顔をしながら小言のひとつでも口にする権利はあるだろう。
「どこからどう見たって部活のコーチに来たに決まってるじゃないか」
「どこからどう見ても教育実習生にしか見えないけど」
そんな姉の服装は、私服ではなくパリッとしたシャツに紺色のパンツスーツというTHE就活生。
または言ったままの教育実習生のようだった。
「学校に来るには学校に来る恰好があると思って……でもほら、もうセーラー服って歳じゃないから……」
「半年前まで着てたヤツが何ってるの」
「大丈夫? お姉ちゃん、セーラー服着てもいかがわしいお店の店員さんに見えない?」
「今の方がよっぽどいかがわしいわ」
「あらやだ、お姉ちゃん恥ずかしい」
アホみたいなやり取りをしながら、姉は身体をくねらせた。
「まあ、教育実習ってのはあながち間違いではないけどね」
「なに、教師にでもなるつもりなの? それだけは絶対にやめときな。生徒のために」
「実の妹なのにひどい言われようだ……」
姉はしょぼくれたように泣き崩れるポーズを取ってみせてから、すぐに気を取り直したように立ち上がる。
「ま~、結論だけ言えば教職課程も取れるなら取っとこうかなと思って。大学卒業する時になってなんの仕事やりたいかなんてわっかんないしね」
「細胞の研究がどうたらはどうしたの」
「それは今の夢。でも四年後に何を志してるかなんて、私には分からないのであーる」
別に自慢でもなんでもないのに、彼女は得意げに胸を張った。
「そういうわけで、せっかくこっちに戻ってきてるんだから、コーチのついでに教育実習の受け入れとかどーなってんのか母校にOG訪問……はなんか違うな。じゃあ、逆OG訪問? しにきたのさ?」
「疑問調にしないでよ。私が分かるわけないでしょ」
私は一蹴するように言葉で突き放して、踵を返して歩き出した。
どうせ家に帰ってからも散々絡まれるのに、学校でまで付き合う理由はない。
「ちょいちょいちょい? お待ちになってヒースクリフ? どこへ行くの?」
「なんで嵐が丘? 話も終わったし図書館で勉強するんだけど?」
「どうして? せっかくだしお姉さまの雄姿を見て行かないの?」
「微塵も興味がないんだけど?」
語尾が疑問調だらけになって話が前に進まない。
なんだこれ。
ちょっとイライラしてきたところに、姉が「あっ」と思い出したように声をあげて手を打った。
「そう言えば遊園地行くんだって? 日曜日? どうしてお姉さまに黙っていたの?」
「別に黙ってたわけじゃないんだけど? 解散した生徒会の打ち上げだし、誘う理由もないんですけど?」
「それこそこっちは生徒会OGじゃないかー! 訪問させろー!」
あ……やっと疑問調が終わった。
頭がおかしくなるかと思った。
あとOG訪問ってそういうのでもない気がするんだけど。
「てか、その情報どこから仕入れたの」
「穂波ちゃん以外にいないじゃあないか」
「ああ……まあ、そうか」
夏休みに後輩たちに稽古をつけにきてから、姉はちょくちょく――というより、暇を持て余したら部活のコーチにきているようだった。
昨日だか一昨日だかも行ってたらしいし、その時に聞いたんだろう。
「それで、何時に出発する? 私も同行する」
ずいずいと迫る姉に嫌気がさしつつ、でもほっといてもどうせついてくるんだろうなっていう姉の性格を重々理解している自分自身にも嫌気がさす。
「ついてくるのは勝手だけど、代わりにこっちも勝手に出るから」
「まあ、なんて薄情な子でしょう! いいもん。前日に星の部屋に泊まり込んで嫌でもタイミング計ってやるやるから」
「それだけは絶対にやめて」
すでにオマケがひとりついてるんだし、もうひとり増えようが増えまいが変わらないか……穂波ちゃんなんかは、いっそ喜ぶかもしれないし。
ただ、そこでふと脳裏に、とある人物の姿が過る。
「日曜のこと、続先輩も知ってるの?」
「続? ああ、うん、知ってる知ってる。ちょうど今朝その話したし」
「もしかして来るの?」
「いやいやまさか。あの子、今ごろ石垣島だろうし」
石垣島?
「せっかくの娘の長期休暇だからって、一週間家族でバカンスですってよ。いいわねえ、フットワークの軽いご家庭は」
突然の井戸端会議風は置いておいて、その言葉に私はほっと胸をなでおろす。
来ないなら良いんだ。
これ以上いらん心配を増やされたら、私の心がもたない。
「てか、部活もう始まってるでしょ。いいの、コーチは」
「うわっ、しまった! 後輩ちゃんたちの前に突然パリッとスーツ姿で現れて『ドキッ! 大人のお姉さん登場!?』作戦が……! それじゃあ妹よ、アデュー!」
またよく分からんことを口走りながら、姉はあっという間に去って行ってしまった。
残された私は、なんだか図書館に行くような気にはなれなくて。
結局そのまま家に帰って勉強することにした。
今なら確実にうるさいのが家にいないわけだし。
それにしても、あの姉が就職のことをちゃんと考えてるなんて驚きだった。
しかもこんな早くから。
そりゃ、流れでするっとどこかに潜り込んで、何となく成功するんだろうなってイメージはあったけど。
むかつくことに。
たった一年早く生まれただけなのに、私よりずっと前を走って。
追いついたと思ったらもっと先を行って。
今度こそ背中を捉えてやると思ったら、さらに先を行って。
思い通りで。
〝姉〟というのは世界一ズルい生き物だと私は思う。
それでも私が同じ道をひた走ろうとするのは、単に臆病なだけなのかもしれないけれど。
たったひとつ、〝妹〟の意地みたいなものだろうと思うようにしている。