朝、けたたましい金属音と共に目を覚ました。
立てかけていた鉄パイプの束が倒れた時のを、もうちょっとマシにしたような音。
だけど、眠りから覚めるのには十分な騒音だった。
私と穂波ちゃんは、客間と呼ばれたお茶室のような和室に布団を並べて敷いて、宍戸家での一夜を過ごした。
突然の来訪にも関わらず、歌尾ママは張り切った手料理を御馳走してくれた。
突然の来訪にも関わらず、買い物にも行かずによくこれだけの料理をと思って話を聞いてみたら、買い出しに行くのも多少手間な立地のため、食材は何日分もまとめて保管しているということだ。
言われて気付いたけど、アイランドキッチンの向こうの壁に埋め込まれた食器棚だと思っていた巨大な箱は、業務用の大型冷蔵庫だったようだ。
そんな歌尾ママの悲鳴にも似た声が、廊下の向こうから響いたような気がした。
「星先輩、今の……」
「うん。たぶん、様子を見に行った方が良いと思う」
貸して貰った寝巻のままでうろつくのは、多少なりどうかと思ったけれど、今は自体の緊急性の方が重要だと思った。
騒音の現場は、思った通り歌尾ちゃんの部屋だった。
扉が開きっぱなしになっていて、中から言い争いとも言えないようなやり取りが聞こえてきた。
「焦る必要なんてないの。ねえ、歌尾」
「焦せってなんかないよ……! もう、全部意味ないんだもん……!」
「楽器に当たるのは良くないことだからって、いつも言ってるでしょう。傷は……ないようだけど、一応そろそろメンテナンスしてもらいましょうか」
部屋の中には、ベッドの上でうずくまる宍戸さんと、床でバラバラになっていたサクソフォンを拾い上げる歌尾ママの姿があった。
彼女は散らばった楽器のパーツを拾い上げながら、こちらに気づいた。
「ああ、ごめんなさいね。起こしてしまったみたいで」
「いえ……あの、手伝いますか?」
「大丈夫。もう終わるから」
言いながら、彼女はあっという間にサクソフォンを組み立てると開きっぱなしのケースの中に大事そうにしまった。
「毎朝ね、練習しているんですよ。ある日突然、また吹けるようになりたいって言いだして。それから毎日、ちょっとずつだけど、ね」
「それでも……吹けなきゃ意味がないよ。演奏できない演奏家に、価値なんてない……」
「それでも、また楽器を取ってくれたことがお母さんは嬉しい。お父さんだってそう」
「もう……意味ないよ。こんなこと。必要もなくなったし……」
宍戸さんは、そのままふさぎ込んだように頭から布団をかぶってしまった。
「……ごめんなさいね。朝ごはんにしましょうか。話があるならその時に」
私も穂波ちゃんも、その提案に頷くしかない。
今もまだ、口を出せるだけの言葉を持っていない。
それから歌尾ママは、手早く朝食を作ってくれた。
昨日の晩から仕込んでいたらしい、バケットで作るフレンチトーストだった。
「毎朝って、学校がある日もですか?」
甘い卵の沁み込んだバケットを食べながら、穂波ちゃんは訊ねた。
歌尾ママは、次のトーストを焼きながら頷く。
既に三人分焼いた後なので、たぶん宍戸さんの分だろう。
「始発じゃないと間に合わないのに、それよりもっと前に起きて」
「あの……実は、楽器が吹けなくなるって言う状態が、よく分かっていないんですが」
「最初は楽器に触ることしかできなかった。リードを咥えようとすると、息が乱れちゃって。中学の時のことが、よほど辛かったようだから」
歌尾ママは、出来上がったトーストを皿に移すと、そのままラップをしてキッチンの傍らに置いた。
「遠方の高校に通うのは心配だったけど、地元を離れるのは良いことだと思っていたの。最初は家族で引っ越そうかとも考えていたけど、あの子、そういうの気にしちゃうでしょう」
そんなことしたら、きっと「自分のせいで」と思うだろう。
今と同じように。
「でも最近は、本当に楽しそうにしてたんです。通学も全く苦にならないみたいだったし。学校のこともよく話してくれるしで。生徒会に入ったって言ったときは、大丈夫かなって思いもしたけど、また音楽もやりたいって言ってくれるようになって……」
それを聞いて、前向きに音楽と向き合おうとしてたころの宍戸さんの姿を思い返した。
久しぶりに自分で楽器を磨いたんだって、嬉しそうに言ってたっけ。
思えば、あれで勝手に「もう大丈夫だ」って、彼女のことを手放してしまったのかもしれない。
話を聞いたのも、多少なり道を示したのも私だったのに。
あとはきっと上手くやるって……彼女は私と違う強い方の人間だからって。
でも、それはなんて傲慢でおこがましい考えだろうか。
そもそも強い弱いで決めつけて、勝手に納得して。
そういうことなら、私の方こそ宍戸さんが頑張って、大変だったときに、ひとりのほほんと好き勝手にやってただけじゃないか。
本当に恥ずかしい。
「すみません……私、彼女からいろいろ相談を受けてたはずなのに、こんなことになってしまって」
歌尾ママに言っても仕方がないのに、誰かに謝りたかった。
それこそ自己満足でも、そうせずにはいられなかった。
「そんなことないですよ。ウチはひとりっ子だから、先輩方がよくしてくれて、姉妹ができたみたいに喜んでました」
「それは良かったです。本当に」
「ちなみに、私が通っていた女子校には本当にあったんですよ。姉妹――ってわけではないけど、先輩と後輩で一対一でペアを組んで、学園生活を過ごす制度」
「そういうのって本当にあるんですね」
「そうそう。だから女子校ってそういうイメージだったのだけど……南高校は違ったみたい。学園祭見に行って、エネルギッシュでびっくりしちゃいました」
「それは……なんか、それもすみません」
「あやまらないで。なんというか、生徒みんなが気取らずに、素面で付き合ってるみたいでいいなと思いました。きっと、歌尾もそれで元気になれたんだと思います」
苦笑されてしまって、なんだか別の意味で恥ずかしくなる。
ウチはああいう感じなんです。
精粗で上品なお嬢様学校と比べたら、本当に別の国みたいだろう。
「寮が近くにあるなら、それも良いのかもしれない。もし穂波さんのいるとこに入れたら、それだけで安心ですし」
「それはぜひ。年度代わりのタイミングなら、卒業して出ていく先輩方もたくさんいるので、早めに申請しておけば間違いないと思います」
わりと押しの強い穂波ちゃんに、歌尾ママは笑顔で頷いた。
「ウチの人とも相談してみます。本当なら今日ここにいて、直接ふたりとお話できればよかったのだけど」
「私達の方こそ、突然お邪魔してしまったので。またいつでも遊びに来ます。大事な友達なので」
そう言って、穂波ちゃんは力強く頷いた。
彼女は真面目で一途だから、友達という言葉が重くならなければいいけれど――そんな心配もないように、私も私で支えていいければいい。
流石にお昼までごちそうになるのは申し訳ないので、午前中のうちに宍戸家を後にすることにした。
帰りぎわ、宍戸さん本人も玄関までお見送りに来てくれた。
「あの……本当にすみませんでした。そしてありがとうございました。来てくださって、顔を見れて、良かったです。いろいろ、恥ずかしい所も見せてしまったけれど……」
「気にしないで。それより、明日は学校は来れそう?」
尋ねると、宍戸さんは小さく頷く。
ちょっぴり自信が無さそうな、首を傾けるだけの頷きだった。
「授業も遅れてしまうし……明日からは行きます」
「待ってるから」
穂波ちゃんの言葉を最後に、私たちは帰路へついた。
帰りの電車の中は、流石に私たちも口数が少なかった。
結局、問題が解決したわけではない。
歯がゆい感じがいつまでも残っていた。
「助けるって言ったのに、ダメだったような気がします」
穂波ちゃんが、ぽつりとつぶやく。
珍しく弱気な発言に、どう返したものか困ってしまう。
「学校に来ればまた会えるよ」
だから、とにかく前を見ておくことにした。
それが正解なのかは分からなかったけど、どっちにしろ、嫌でも明日はやってくるんだ。
みんな、自分の生き方だけでも精一杯だ。
誰かのために何かをするっていうのは、思っている以上に難しい。
それは、私自身が深く胸に刻んでおくべきことなのだと思う。