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9月3日 やらない後悔

 学校の最寄り駅から電車で終点まで四五分。

 乗り換えの電車に乗って、再び揺られること十五分。

 さらにバスに乗って十分ほど経った山のふもとに宍戸さんの住む家はあった。

 乗り換えを待つ時間を含めると、学校までだいたい二時間弱の道のり。

 彼女はこれを、この半年間の平日は毎日、往復している。


 宍戸家は父親がジャズシンガーで母親がピアノ講師という生粋の音楽一家だと聞いていたけれど、いくらド田舎の山奥の二束三文の土地に立っているとは言え、その家はまさしく「豪邸」と呼ぶにふさわしいものだった。

 これまで豪邸としてイメージするのは、街中の一等地にある心炉の家だったけれど、あれは決して広いとは言えない分譲地の敷地に立つ地中海風の洒落たお家だった。

 なんとなくお花で例えるなら、生け花とかフラワーアレンジメントみたいなもの。


 一方で宍戸家は、ひと気のない郊外の広大な面積の土地に、ちょっとした美術館か博物館と見間違えるような母屋がドーンと建っていた。

 まさに、ハリウッド映画に出てくるセレブが住んでそうな豪邸。

 お花で例えるなら手入れの行き届いた植物園みたいなもの。

 実際、どちらかの親の趣味なのか、裏庭のほうに庭園らしきものが見える。


「これは……なんか、入るのが気後れしちゃうね」


 とりあえずこの衝撃を共有しておこうと感想を口にすると、隣で穂波ちゃんも全く同じように、あんぐりと口をあけていた。

 穂波ちゃんの家も、旅館という意味では立派な豪邸なのだろうけど、そのすべてが自分達家族のためにあるわけではないということを考えると、やっぱり感じ方は違うみたいだ。


「この辺は土地がべらぼうに安いので、一〇〇〇万もあれば豪邸が立つって大人の人たちが良く言ってるんですが」

「そりゃすごいね」

「これはそう言うレベルではないですね」


 まあ、そうだろうね。

 ウチの実家もいくらで建てたのかは知らないけど、街中という立地を考えればかなりの金額がかかっているはずだ。

 そんな両親の夢のマイホームも、これの前では流石に霞んでしまうというもの。


 だけど、ここで手をこまねいているわけにもいかない。

 移動に時間がかかったせいで時刻は午後のおやつの時間をとっくに過ぎてしまっているし、ご自宅にお邪魔することを考えたらあんまり長居もできないだろう。

 昨日、穂波ちゃんから会いに行くことはメッセージで伝えて貰ったのだけど、やっぱり返事はなかったようだ。

 ただ既読通知はついたそうなので、来ること自体は分かっているはず。

 それを家の方にまで伝えているかは分からないので、あっちからしたら、突然の来訪ということにもなるかもしれない。

 ひとまず、どうにかこうにか意を決して、私はチャイムを鳴らした。


 出迎えてくれたのは、宍戸さんのお母さんだった。

 ふわりとウェーブのかかったボブカットが印象的な美人さんだった。

 どことなく、宍戸さんがそのまま大人になった姿に見えなくもないけれど、すらりと伸びたその背に、穂波ちゃんとそれほど変わらない身長を持つ彼女が今から追いつくかはいくらか疑問が残る。

 そして一番の心配事だった私たちの来訪については、やっぱりご両親には伝わってなかったようだ。

 それでも自分たちが南高校の生徒会で、宍戸さんのクラスメイトと先輩であることを告げると、喜んで家の中へと通してくれた。


「わざわざありがとう。遠かったでしょう」

「そうですね。お世辞でも『そんなことないです』とは、ちょっと言えない距離でした」

「でしょう。私もね、入学が決まった時は心配だったんですよ。ほんとに毎日通えるのかって。でも主人は、流石に高校生で独り暮らしはさせられないって譲らないし。私も、あの子のひとり暮らしはちょっと心配はあるしで」

「民間ですが、寮とかも近くにありますよ。いいとこですよ」

「穂波ちゃんは寮生さんなんですよね。歌尾からよく聞いてます。すっごく仲のいい友達ができたんだって」

「はい。とっても仲のいい友達です」


 こういう話にまっすぐ頷けるのは、間違いなく穂波ちゃんのいいところだろう。

 歌尾ママはにこやかに微笑んで、とある部屋の前で止まった。


「ちょっと待ってくださいね。起きてるか確認するので」


 そう前置いて、彼女は扉をノックして中にいるであろう宍戸さんに声をかける。

 すると、ちょっとの間を置いてから蚊の鳴くような返事が返って来た。


「お友達と先輩が来てらっしゃるから、起きれそうならお通しして良い?」

「うん……ありがとう」


 よかった。

 会ってはくれるみたいだ。

 歌尾ママは、「後でお茶を用意しますね」と言い残して去って行った。

 残された私たちは、同じようにノックをしてから部屋の中へと足を踏み入れた。


 部屋に入ると、ベッドの上で上半身だけを起こしたパジャマ姿の宍戸さんがいた。

 いつもは三つ編みにしている髪はほどけていて、ふわふわの髪が背中に垂れる。部屋の中は思ったよりもスッキリしていて、可愛いよりは整然としている印象だった。

 机。

 本棚。

 箪笥。

 化粧台。

 そしてベッド。

 そのどれもが揃いの上品なデザインをしていて、たぶん実際に物も良いんだろう。

 ただ新しくはなく、おそらく小さい時から使っているものなんだろうなというのは垣間見える。

 良いものを長く使うように言われて育ったのかもしれない。


 そして、ひときわ目を引くのがサイドボードの上に横たえられた大きな楽器ケース。

 おそらくそこに、彼女のサクソフォンが収められている。


「すみません……わざわざ、こんな遠いところまで」


 彼女の第一声は、やはりというか謝罪だった。

 「ありがとう」より「ごめんなさい」が先に出たのは、ここ数日でいろんなことに関して引け目を感じてしまっているからだろう。

 学校を休んでいることしかり、メッセージに返信をしないことしかり。


「元気そうで良かった。これ、お見舞いの水羊羹と今週のプリント」


 穂波ちゃんが、来るときにアヤセの家で買って来た水羊羹の包みと、クリアファイルに入ったプリントの束を手渡す。


「ありがとう。穂波さん……ほんと、ごめんね」

「ううん、心配ない」


 再び謝る宍戸さんに、穂波ちゃんはゆっくり、そしてハッキリ首を横に振る。


「大丈夫、助けにきたよ」


 そして、歯に衣着せないストレートな訪問の目的を伝えた。

 うん……やっぱり私、ついて来なくても大丈夫だったんじゃないかな。

 好きな子ひとりデートに誘えずにウジウジしている私なんかより、よっぽど人間ができているし大人だ。

 その言葉に、宍戸さんは一度ぐっと唇をかみしめてから、ぽろぽろと涙を溢した。

 私は慌ててハンカチを取り出して、彼女に差し出す。


「す……すみません。先輩も、ほんとうに、すみません……」


 受け取ったハンカチで拭っても拭っても、溢れる涙は止まらなかった。

 私たちは、彼女が事情を話せる状態になるまでじっと待つことにした。

 そうしてやがて、えずきも収まって来たころに、ぽつりぽつりと話を初めてくれた。


「ふたりとも……吹奏楽部のこと、聞きましたか……?」


 私と穂波ちゃんは互いに顔を見合わせて、そしてどちらからともなく「知らない」と首を振る。


「その……この間の東北大会で金賞を貰ったそうです」


 流石だね。

 今年は須和さんを中心に一層気合を入れていたようだし、当然と言えば当然の結果だと思う。


「でも……ダメ金だったそうなんです」

「ええと……そのダメ金ってのはなに?」

「金賞だけど、全国には残れなかった……要するに予選落ちの金のことです」


 それってつまり、ウチの吹奏楽部の大会はもう終わった……ということ?

 不意に、春に須和さんと話した時のことが蘇る。

 自分が全国に連れて行く――彼女は、一切の油断も妥協もなく、純粋な決意としてそう語っていた。

 その夢が終わった。

 胸がきゅっと締め付けられるような思いがして、同時に、今目の前にもっと大事なことがあるのに、どうしようもなく須和さんのことが気にかかってしまった。

 彼女は今何を考えているんだろう。

 スッパリと気持ちを切り替えて、受験勉強にシフトしているんだろうか。

 それとも――


「わたし……結局なにもできなくて。わたしなんかのこと、あんなに必要としてくれたのに……私も応えたいって思ったのに。でもやっぱり音楽、できなくて……そうやって、ダメダメなうちに大会終わっちゃって。わたしが参加したら結果が変わるわけじゃないかもしれないけど……でも、何もしなくて、何もできなくて……」


 抑え込んでいたものを吐き出すように、涙同様にとめどなく言葉が溢れていた。

 確か、大会があったのは文化祭の日だったっけ。

 翌日の学園祭では何食わぬ顔で講堂で演奏会を開いていたと思うのだけど。

 しかも、いつもと変わらず大好評だったと思う。

 あれが一晩で気持ちを切り替えてきたってことなんだとしたら、とても強い子たちだ。


「そんなの、歌尾さんのせいじゃない。むしろ、自分のせいだなんて思っちゃだめだよ」


 そう励ます穂波ちゃんの言葉は、真っすぐで正しかったと思う。

 でもだからこそ、ぐちゃぐちゃになった宍戸さんの心をストレートに突き刺してしまう。


「一番は……須和先輩たちが大変な思いをしてる間に楽しい学園祭を過ごしちゃったってことなの。それを考えたら、余計にわけわかんなくなっちゃって……わたし……歌尾は……今までで一番、自分のことが大っ嫌いです」


 穂波ちゃんは、息をのんで黙り込んでしまった。

 穂波ちゃんの言葉は間違ってない。

 今、宍戸さんが演奏できないのも、そのせいで吹奏楽部に入らなかったのも、宍戸さんのせいじゃない。


 でも、それを乗り越えられなかったという負い目が宍戸さんの中にあるんだろう。

 引っ込み思案だけど、責任感はある子だ。

 彼女は音楽自体は好きで、演奏も合奏も好きで。

 須和さんにも応えたいと口にした。

 でもできなかった。

 須和さんから伸ばされた手を取る準備ができる前に、文字通り手をこまねいているうちに、終わってしまった。


 私自身が聞いた、純粋な彼女の気持ち。

 友達である穂波ちゃんに話しているかは知らないけど、少なくとも私は知っていた。

 だけど、何をした。

 力になれることはなかったのか。

 あの日約束した「この学校に入ったことを後悔させない」という自分の言葉が重くのしかかる。


 部屋を静寂が包む。

 その中で、ボソリと宍戸さんはつぶやいた。


「今日は本当に……ありがとうございました。来週はちゃんと学校に行きます」


 前向きだけど、暗に拒絶の言葉だった。

 穂波ちゃんとふたり、彼女を助けるために来た。

 だけど、流れ星に願ったって大会の結果は変わらない。

 後悔を取り除くことはできない。


 部屋から出ると、廊下で歌尾ママが待っていた。


「お茶は、別の部屋でしましょうか」


 そのまま、私たちはリビングへと通された。

 家の外観通りの広いリビングは、アイランド式のキッチンのおかげか、余計に開放的に感じられた。

 部屋の片隅には縦型のピアノが一台備え付けられていて、本当に音楽が身近な家なんだなと感じた。


「これから帰ったら遅くなってしまうでしょう? 良かったら泊って行かない?」

「いや、それは……」

「ウチなら気にしないで。旦那はツアーで出払っているし、部屋も客間を使って貰っていいので」


 穂波ちゃんとふたり、どうするか確かめ合うように見つめ合う。

 共に微妙に煮え切らない表情。

 ただ、このままじゃ帰れないという気持ちは互いに同じようだった。


「実家に確認だけとってから、問題が無ければ、お世話になります」

「私も、寮に外泊の連絡をしておきます」

「それは良かった。学校での歌尾の話を聞かせて貰えたら」


 たぶんこれは好機と言っていいのかもしれない。

 私たちには今の宍戸さんを助けられない。

 だけど、彼女がどんなふうに育たのかを垣間見ることができれば、何かきっかけくらいは見つけられるんじゃないかって。

 そんな甘い希望に縋りたい気分だった。

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