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8月20日 卒業試験

 音が溢れる。音の粒が溢れる。

 初めは何のことやらわからなかったコードも、繰り返し練習すれば、一曲分くらいは身体に覚えさせることができる。

 音楽で習う鍵盤ハーモニカやリコーダーだって、最初はつたない指運びだけど、発表会のころには楽譜なんていらないくらいに指と頭にリズムも音階も刻み付ける。


 吹奏楽部の楽譜もコンクールのころには演奏の注意事項やら部員からの寄せ書きやらで、オタマジャクシなんてなんとやらというくらいに塗りつぶされるらしい。

 だからまあ、結局は繰り返し。

 できるまでひたすら繰り返し。

 そうしているうちに、できないはできるに変わる。


「おおー、なんか今、良い感じだった気がするよ?」


 ユリがギターを抱えたままぴょんぴょんと跳ねる。

 私はといえばそんな体力は残って無くて、額に滲んだ汗を傍らのタオルで拭う。


「天野さんに譜面を簡単にしてもらったおかげだけどね」


 テーピングだらけになった左指は、この夏だけで何度悲鳴をあげたことだろう。

 指先はズッタズタ。

 そして指の根元には、何年たっても治らないガッチガチのマメの痕がある。

 こっちはギターのせいじゃないけれど、乙女の手のひらとしてはあんまり見栄えは良くない。

 ちょっぴりコンプレックス。


「うん、上出来だね。それじゃあ、天野音楽教室最後の授業です」


 私とユリが通しの練習をしている間に、天野さんがマイギターを担いでチューニングを始めていた。


「何してるんです、天野さん」

「もちろん演奏の準備だよ。忘れてないよね、課題曲のこと」

「う……やっぱりそっちもやるんですね」


 この個人レッスンが始まったときに、最初の目標として与えられた曲があった。

 上達のコツは目標によるモチベーション管理。

 だけどあの時はまだバンドで演る曲が決まってなかったからと、初心者向けのスコアを用意してくれたんだ。


 曲が決まってユリもレッスンに加わって、ずっと触れられてなかったからもう忘れていいのかと思ってたけど。


「てか、もしかして天野さんギターで入るんですか」

「もちろん。というより、ずっとふたりの演奏聞いてたら私も引きたくなっちゃった。狩谷さん、まさか忘れてたわけじゃないよね?」

「いや、まあ、同じ曲ばっか練習してても飽きるし、たまに弾いてましたけど」

「何するの?」

「ええと……ああ、これ」


 私は鞄からスコアを取り出すと、ユリに手渡す。

 彼女はそれを受け取って、曲名を見た瞬間、またぴょんぴょんと飛び跳ねた。


「あー、いいなこれー! ずるいずるい!」

「知ってる曲なの?」

「まあ、『ザ・けいおん!』な曲だよね」

「良かったらスコアいる? ユリさんならすぐ弾けるようになるかも」

「わー、良いんですか? やったー!」


 弾けるようになったところでどうするんだって話だけど。

 まあ、喜んでるならいいか。

 そうこうしてる間にチューニングを終わらせた天野さんが、手慣らしのように弦をつま弾く。


「おおー、なんかプロっぽい」

「うま」


 ユリも私も感嘆の息を溢す。

 短いフレーズなのに、ぐっと世界に引き込まれる。

 以前ならきっと単に「うまいなー」くらいしか思わなかったんだけど、自分も多少なりかじってみると「上手い」のニュアンスが変わる。

 一ヶ月そこら練習しただけの自分とは、音の質がまるで違う。


「よし、それじゃあ卒業試験をはじめます」

「お手柔らかにお願いします」


 何か資格が貰えるわけでもないのに妙に緊張する。

 ユリはと言えば、完全に観客モードでのほほんと笑みを浮かべている。

 能天気っぷりが癪にさわるので、そのぷよぷよのほっぺたを今すぐ引っ張り回してやりたい。


 通常のバンドならこういう時ドラムがペースを取るんだろうけど、ここにはギターとベースしかいないのでタイミングは呼吸ひとつ。

 こういっちゃなんだけど、ユリに比べてしまえばすごく演りやすい。

 というより私のペースに天野さんが合わせてくれる感じだから、当たり前なんだけど。


 私とユリのコンビの場合は、とにかく気持ちよく自分のペースで引ききる彼女に私の方が頑張って合わせる感じ。

 多少雑になっても、ついていくことが大事。

 一方で今は天野さんが合わせてくれるので、私は素直に自分のペースで丁寧に弾くことに集中できる。

 本来はそれがベースの役目なんだろうけどな。

 映画のための急造バンドなら、形ができてるだけでも及第点だろう。

 でも丁寧に弾ければ、それだけ上手な演奏ができる。

 思った音を思ったタイミングで。

 そこに天野さんの演奏が重なれば、つられてなんだか自分のレベルも上がった気分になる。


 スポーツだってそうだ。

 上手くなるには、上手い人とやる。

 人は引っ張られて上達する。

 だから比べちゃいけないって分かってるんだけど、この演奏――すごく気持ちいい。


「ありがとうございました」


 演奏を終えて、ひとつ大きなため息をついた。

 疲れたせいじゃなく、たっぷりとため込んだ充実感を吐き出すように。


「うん、合格だね。音楽できたね~」

「とても気持ち良かったです。今までで、一番」

「ええ~、なにそれ。あたしとやるのは気持ちよくないって言うの?」

「気持ちいいとか気持ちよくないとかの前に、自転車と紐で繋がれながら走らされてるみたい。坂でもないのに心臓破り」

「スタミナつくね!」


 褒めてるんじゃないんだよ。

 なんで嬉しそうなんだよ。


「でも楽しみだなあ、ふたりのバンドの演奏。体育館でやるの? それとも野外ステージかなあ」

「あ……いえ、ライブはやらないんですよ。動画に撮るだけで」

「ええ、それはもったいないね。せっかく練習したのに」


 天野さんは残念そうな顔をするけれど、すぐに考え込むように首をかしげる。


「飛び入りでやっちゃえばいいのに。学園祭なんだからそのくらい軽いハプニングだよ」

「おお、なるほど。その手があるのか」

「ないよ。あんた以外みんな運営側なんだから。むしろ阻止する側だから」


 真に受けたユリの頭をはたいてやると、彼女は唇を尖らせてぶーたれる。

 その様子を見て、天野さんがくすくすと笑った。


「相変わらず仲良しでいいね。撮影頑張ってね」

「はい。本当にありがとうございました」

「まあ、それはそれとして学園祭も行くからね。楽しみにしてる」

「やっぱり師匠にいいとこ見せるためにも飛び入りを……」

「するなって」


 改めて念を入れるように釘を刺しておく。

 ただでさえ後から後から問題が増えてるのに、これ以上増やされてたまるか。

 いざとなったら縛り付けてでも、学園祭の平和を守ってやる。

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