朝の目覚めは気持ちの良いものだった。
旅館『やおとめ』二日目の朝は、川魚を主菜とした彩り豊かな朝食からはじまる。
夕食の時にも見た、固形燃料であっためるタイプの小鍋があったので、何だろうと思って蓋を開けてみたら中に入っていたのは豆乳だった。
なんでも、火を通せばその場で豆腐が出来上がるらしい。
んな馬鹿なと思ったけど、マジだった。
鍋の淵までプリンみたいにきっちり固まるわけじゃないので、豆乳でゆでた湯豆腐みたいになってとても美味しかった。
それから、役員総出でお借りした部屋の掃除を行って、荷物を預けたまましばし温泉街の散策に向かう。
県内にはジブリのロケ地なんて噂が独り歩きしている古式ゆかしい有名温泉地もあるけれど、そうじゃなくても温泉街ってやつは歩くだけで思ったより楽しいものだ。
道端の温泉井戸で温泉卵を作れたり。
それを川沿いの土手に段々に掘られた足湯につかって食べたり。
謎の民芸品で溢れるお土産屋を覗いたり。
穂波ちゃんは観光スポットは「ない」と断言していたけど、しいて言うならこの街そのものが観光スポットとして十分に機能していると私は思う。
「共通入浴券を買えば、色んなお宿の日帰り入浴を回れますよ」
商魂たくましい彼女の提案を受けて、満場一致で午後からの予定は決定した。
温泉をめぐりつつ、その宿その宿の湯上りどころの美味しいものを食べる。
じゃあ、午前中くらいカロリーを消費しておこうと打算的な免罪符を求め始めるのが女子高生で、レンタルサイクルを借りて軽く遠出をしてみることにした。
温泉街の中は十分散策したので、外縁をぐるっと一周。
あと金谷さんのたっての希望で、ちょっと離れた所にある縁結びのお地蔵さんも経由することになった。
「陽は出てるけど涼しいですね」
燦々と輝く太陽を見上げるように、銀条さんは麦わら帽子の淵を軽く持ち上げた。
アヤセがそれにならうように、青空を見上げる。
「標高高いからなあ。盆地の市内とじゃ大違いだ」
「市内の川沿いなんて湿気が高いだけだからね。こんなマイナスイオン出てそうな厳かさはないよ」
実家周辺のムシムシした感じに比べれば、目の前の川沿いのなんと涼やかなことだろうか。
水が澄んでいるのはどっちも変わらないはずなのに、環境ひとつでこんなに差が出るものかとびっくりしてしまう。
信号もなければ交差点すらない一本道。
ぼんやり堂々とわき見運転をしていたら、隣を走る宍戸さんとふと目があった。
互いに気づいておいてそのままっていうのも流石になので、何か話題を探す。
「宍戸さんの家ってこっから近いんだっけ?」
「え?」
私の質問に、彼女はぼんやりと宙を見上げて「えーっと、えーっと」と視線を右往左往させる。
脳内地図をなぞっているんだろうか。
ただ、あんまりそっちに集中しすぎて、ときたま雑草ボーボーの土手に突っ込みそうになっていた。
「ごめん、そんな真面目に考えなくていいよ。ただ、ほら、最寄り駅で合流したからそうなのかなって」
「ああ……」
なるほど、と宍戸さんが頷いた。
昨日の旅程の中で、基本的にみんな学校の最寄り駅に集合していたけれど、彼女だけバスに乗り換える現地の最寄り駅の方で合流していた。
だからなんとなく近いのかなって、そう思ってたわけだ。
「どうでしょう……わたしの家、もっとずっと北の方なので。確かに先輩たちよりは電車に乗る時間も短いと思いますけど、直線距離じゃそんなに変わらないかも……です」
「そうなんだ」
と、頷き返すことしか私にはできなかった。
自分の住む県のことながら、いまいち地理関係を理解できてないので肯定も否定もしようがなかった。
ちなみに後でスマホで確認してみたら、言われた通り直線距離だと大した差はなかった。
それどころか、最寄り駅まで電車で向かった後に、バスで半分くらい戻ってきてるようだった。
何という無駄な工程……とは言え、バスがその駅からしか出ていないので仕方がない。
七人なら、ちょっとギュウギュウだけど実家のミニバンを出して貰えば良かったかな。
今度から旅程を立てる時は、路線図だけじゃなくて実際の地図も確認してみることにしよう。
それからぐるっと温泉街を囲むように自転車を走らせて、辺りはいつの間にか山道に。
そこで穂波ちゃんが自転車を止める。
「こっからちょっとだけ歩きます。カルデラの岩山なので、足元気を付けてください」
そう前置かれて、山の中へ続く山道に分け入ることになった。
参道ははじめこそちゃんとした階段が整備されていたけど、途中から手すりを掴みつつ、急な岩肌を登るちょっとしたアスレチックコースに変わった。
山の上の温泉だからってことでみんな歩きやすい靴で来ていたので良かったけれど、踵の高いパンプスやヒールで着ていたもんならポッキリ心ごと折れていたかもしれない。
「ひええ、崖だよ崖……一寸先は死だよ……」
一番気違ってたはずの金谷さんは、すっかりへっぴり腰になって、ずりずりと靴底を刷るように登っていた。
確かに景色はすごいし、足元は崖だけど、安全柵を乗り越えようとしなければ命の危険はないだろう。
「美羽が来たいって言ったんだから、頑張りなー」
一切心がこもってない声援を送る銀条さんは、するすると慣れた調子で登っていく。
「銀条さん、すごいですね……」
心炉が、感心したようにその姿を見上げていた。
金谷さんほどじゃないけど、彼女も柵を掴んだまま、じっくり足元を確認しながらの牛歩戦術だ。
銀条さんは、帽子を押さえながら涼しい顔で振り返る。
「兄が高校は登山、大学ではワンゲルやってて……両親もアウトドア好きなので、よく連れてかれてたんです」
「へえ、お兄さんがいらっしゃるんですね。ちなみにどこ高ですか?」
「東高です」
「ワオ、めっちゃ秀才じゃん」
一行を見守るように、後ろの方をついてきてたアヤセが大げさに声をあげた。
東高と言えば県内トップの進学校。
ただし共学。
「そういうゆづるは東は選ばなかったんね。成績いいのに」
「いや……冷静に考えて、家族と同じ高校ってイヤじゃないですか?」
「あ、そういうもん?」
質問したはずのアヤセが、助けを求めるように私のことを見た。
そんな顔向けられても……姉と同じ高校を選んだ私にどんな答えを期待してるっていうのか。
「まあ、選択肢があるなら別の学校に行くのに越したことはないかな」
少なくとも、そういう込み入った話を期待されてるわけではないと思うので、素直な気持ちで答えておいた。
すると、当然のように銀条さんが不思議そうに私を見つめた。
「会長は目指さなかったんですね、東」
「共学なのがちょっとね……いや、ウチも書類上は共学なんだけどさ」
「女子校だけならウチがトップですからね。かといって、他はお嬢様校か低偏差値しかないですし」
「そういうこと」
理解してもらえたようでなにより。
お嬢様校も、低偏差値のキャピキャピしたギャルばかりの学校も私のガラじゃない。
結局、ウチが一番ちょうどいいんだ。
やがて、断崖の岩陰に小さな地蔵倉が見えて来た。
お地蔵さん、ということは昔は仏教の修行場か、それに近しいゆかりの地ってことなんだろう。
何はともあれまずはお参りだ。
神社ではないので手を合わせるだけ。
「お参りが済んだら、この紙をどうぞ」
そう言って、穂波ちゃんが小さく切った半紙をみんなに配る。
「ここの壁、小さい孔がいっぱい開いてますよね。ここに紙で作った紙縒りを上手く通せたら、お願い事が叶うって言われてます」
「なるほど、縁結び」
それまでへっぴり腰だった金谷さんが、一転してしゃきっと背筋を伸ばした。
「縁結びだけじゃないですけど……まあ、そんな感じです」
穂波ちゃんの説明は、最後だけなんか投げやりだった。
細かいこと解説するの面倒になったな、きっと。
それにしても願い事か。
どうしよう。
大学合格……かな。
そう念じてみると、思わず息をのんでしまう。
もし通せなかったらどうなるんだろう。
願い叶わず玉砕……とか。
そんなのなおさら恋愛祈願とかできないんじゃないかな。
「大丈夫ですよ。失敗したら、神仏なんて頼らないで自分の力で頑張りましょうくらいのおまじないなので」
「ああ、そう」
考えを見透かされたように、穂波ちゃんの注釈が入った。
まあ、そういうことなら気楽にやってみよう。
半紙で紙縒りをつくって、好きな孔に差し込んで……あれ、半分くらい入ったところで止まっちゃった。
何度かつんつん奥を突いていると、穂波ちゃんが再び手元を覗き込んでくる。
「ああ、思ったより孔の奥行きがなかったんですね」
なるほど。
これはそういう運試しってことだったのね。
「あ……と、通せました……!」
傍らで、宍戸さんのうわずった声が響く。
その隣で、アヤセや心炉もすっと通せたみたいで、自分の選んだ孔を満足げに見つめている。
そんな、簡単にできるもんかな。
孔って奥に行くにつれて細くなってるだろうし、紙縒りももう少し細くした方が良いのかも。
もう少しきつく捻じってからもう一度。
「大丈夫ですよ会長。私、無理矢理押し込みましたから」
金谷さんが得意げに語るけど、それはどうなんだろう。
願掛けとしてセーフなの?
私はあくまで正攻法で臨むべく、それから何度か孔を変えて再挑戦を続けた。
そして一〇回目くらいの挑戦の時、ようやくすっと奥まで紙が通る。
「で、できた……」
盛大にため息。
もはやお願い事なんて忘れて、ひたすら孔に通るか通らないかに集中してしまった。
「おめでとうございまーす」
アヤセが、くじ引き会場のお姉さんみたいな声をあげてパチパチと拍手をする。
つられたように、とっくに願掛けが終わった部員たちが私を囲んで拍手を重ねる。
どういう状況だこれ。
ジブリか。
「やめてよ、豚の仕分けに成功したわけじゃないんだから……それより、流石に暑くなってきたきたしそろそろ戻ろう。お風呂入ろうお風呂」
「星……お前、今回の合宿そればっかだな」
「これが最後の羽を伸ばす機会かもしれないし」
あきれるアヤセはほっといて、帰りは私が先導する形になって山を下りる。
温泉に入って汗を流して、ふわふわのかき氷でも食べよう。
穂波ちゃんの頑張りのおかげもあって、合宿は成功と良い。
このメンバーの生徒会もあと半月くらいで終わりだけれど、最後にひとつ良い思い出にはなったような気がする。